復活の証人

2018年11月4日 聖日礼拝
聖書箇所:使徒行伝1:15~26
説教:深谷美歌子牧師

先日この教会で、戦争の証言集会と言うのが持たれました。福音とあまり関係ないのでは?と思って参加していなかったのですが、前回は尾山令仁先生が証言されるというので、もうご高齢の尾山先生からお話を伺うこともあまりないのでは、と思い、参加させていただきました。先生はアジア宣教に立つと思った時、マタイの5:23,24「兄弟と仲直りしてから、祭壇に捧げものをせよ」とのお言葉が響いて、「アジアに日本がした侵略の蛮行を謝ってから、宣教せよ。」と示されて、謝罪の旅を始めたと語られました。謝罪運動をしておられることは知っていましたが、そのような信仰の動機であったことを知りました。そして、韓国で反日集会が持たれたとき、何万人の人々の前で土下座して、謝罪したと、河先生が証言されました。口だけでなく、本当にその事がされたと言うことを知り、尊敬を覚えました。
証言とは、本人がどのような気持ちでその場に臨んだか、また、実際に行ったことを見ていた人がその時の出来事を語るものです。


【聖書の概略】
15―20節  ユダが使徒職を全うせずに死んだので、補充する提案。
21-22節  資格はヨハネのバプテスマから召天まで一緒にいた者。
23-26節  ヨセフとマティアを立て、祈り、籤を引きマティアとなった。

【メッセージのポイント】
1) 12使徒の補充の意味。
15 そのころ、百二十名ばかりの人々が、一団となって集まっていたが、ペテロはこれらの兄弟たちの中に立って言った、16 「兄弟たちよ、イエスを捕えた者たちの手びきになったユダについては、聖霊がダビデの口をとおして預言したその言葉は、成就しなければならなかった。17 彼はわたしたちの仲間に加えられ、この務を授かっていた者であった。18 (彼は不義の報酬で、ある地所を手に入れたが、そこへまっさかさまに落ちて、腹がまん中から引き裂け、はらわたがみな流れ出てしまった。19 そして、この事はエルサレムの全住民に知れわたり、そこで、この地所が彼らの国語でアケルダマと呼ばれるようになった。「血の地所」との意である。)20 詩篇に、/『その屋敷は荒れ果てよ、/そこにはひとりも住む者がいなくなれ』/と書いてあり、また/『その職は、ほかの者に取らせよ』/とあるとおりである。(15~20節)
今日の聖書箇所は、裏切り者になったユダが死んだあと、その補充をしたという、記事です。イエス様が12人の弟子を選ばれた理由をお考えになったことがありますか?イスラエルの12部族を象徴する。と聞いたことがありましたが、深く考えたことがありませんでした。むしろイエス様が選ばれたのは、当時のエリートばかりでなく、漁師や、取税人、革命家、といったさまざまな職業から、呼び出したと言うことに関心がありました。
今回、皆様とこの聖書の箇所を頂くにあたって、改めてイエス様がもたらそうとしていた「神の国の回復」ということが示されました。
前回のメッセージの時、イエス様は復活したあとで「神の国」のことを語られたことを学びました。もともと、イエス様が宣教に立たれた時、「神の国は近づいた、悔い改めて福音を信ぜよ」との言葉が、第一声でありました。その言葉が語られたとき、その意味を正しく理解した人はいませんでした。それどころか、復活したイエス様に出会った弟子たちですら、「国を復興なさるのはこのときですか?」とイエス様が語られている「神の国」― 罪の赦しを頂いたもの達が愛し合い赦しあう国 現在の教会 ―を理解していませんでした。
もともとユダヤ人は神の選びの民でありました。この世界に創造主であり、導き手なる神がおられ、この方を証言し、異邦人が神に立ち帰るために立てられていたのが、12部族でありました。でも彼らは、その目的を理解せず、それをもたらそうとしたイエス様を十字架につけたのでした。本来の目的を果たせなかったイスラエル12部族に代わって、真の「神の国」をもたらすために、新たな12使徒が立てられたのでした。そのような大切な使徒の職務を与えられたユダが、回復どころか、欠けをつくってしまったのでした。それで、欠けを補うために、この選出がなされたのでした。

2)使徒は第一の復活の証言者。 21-22節
「使徒」とはだれのことでしょう?
「使徒」の本来の意味は「派遣された者」「使者」という意味の言葉です。ルカ6:13節には「弟子たちから12人を選び出し、「使徒」と言う名をお与えになった。」とあります。イエス様の特別な委託を受け、イエス様の人格を代表し、遂行する権威を授けられた人です。ペテロがコルネリウスの家に導かれ、イエス様の証人として福音を伝えた時、一同の上に聖霊がくだった。使徒10章のことなどからも解ります。
それで、補充に当たっても、選ばれる資格として、イエス様のヨハネの洗礼から、召天まで一部始終を見て来て、証言できるということが条件にあげられたのでした。
現代に生きるわたしたちは、聖書から、イエス様の業と語られた言葉を知ることができます。そのイエス様から直接遣わされた、使徒たちの証言を聞くことができます。ヨハネの手紙を見ますと、「よく見て手でさわったもの、すなわちいのちの言葉について告げ知らせる。」1:1とあります。
イエス様が「すべての正しいことを成就するのはわれわれにふさわしいことである。」と語られました。バプテスマを受けられたこととか、そのとき、聖霊が鳩のようにイエス様の上に降られたこととか、5千人、7千人の人々が食事をしたこと、病人が癒され、死人が生かされた、水の上を歩かれました。「全て重荷を負って苦労している者は、わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と語られました。弟子たちの裏切り、十字架につけるユダヤ人やローマの兵隊たちのために「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのかわからずにいるのです」等々、これらは直接見た、聞いた、現場に居合わせた人々の証言です。復活の証言は、多くの弟子たちに40日にわたって弟子たちに現れたと証言しています。
その後の使徒の働きや、手紙を通して、目覚ましい神様の業が起こされたことを知ることができます。
このごろイランで拉致されていた安田さんが解放されました。1メートルと2メートルの部屋に入れられて、少しの音でも出すと拷問された、などその現場で経験した人の言葉はリアルです。

わたしたちはこの証言に導かれて、神様の救いの道を伝えられ、それに従って、信じるのです。根拠もない言い伝えや、当たるも八卦当たらぬも八卦などというあてにならぬものではありません。この証言を聞いて信じて下さい。

3)あなたも証言者に。
23 そこで一同は、バルサバと呼ばれ、またの名をユストというヨセフと、マッテヤとのふたりを立て、24 祈って言った、「すべての人の心をご存じである主よ。このふたりのうちのどちらを選んで、25 ユダがこの使徒の職務から落ちて、自分の行くべきところへ行ったそのあとを継がせなさいますか、お示し下さい」。26 それから、ふたりのためにくじを引いたところ、マッテヤに当ったので、この人が十一人の使徒たちに加えられることになった。(⒔~26節)
この時の証言者に選ばれたのは、直接イエス様に出会ったマッテヤでした。
しかし、聖書は直接あった人だけが証言者になるとは言っていません。「あなた方はイエスキリストを見たことはないが、彼を愛している。現在、見てはいないけれども、信じて、言葉につくせない、輝きに満ちた喜びに溢れている」
1ぺテロ1:8と書かれています。すでに初代ではないクリスチャンが起こされていたことが、聖書の手紙の中にたくさん見受けられます。使徒行伝にもエチオピアの宦官がピリポの伝道によって、信じ、喜びながら旅をつづけたとか、ピリピの紫布の証人ルデヤが信じたとか、ピリピの牢獄で、監守や家族が救われたなど、沢山のイエス様を見ないで信じた人々が出てきます。
中野雄一郎先生が著書の中で、神学校の講義で千人もの受講者に「この中で大きな大会に導かれ、信仰を決心した人。と尋ねられて、手を挙げたのは、ほんの2,3人。「テレビやラジオで信じた人」それも5,6人でした。「誰かに誘われてと言う人」残りの九百何十人が、ドー と立ち上がった。と記されていました。私達もそうではないでしょうか?一番身近な人の証言、あるいは言葉でない、神様からいただいた赦しと愛を注がれて、主を知ってきました。
先週は、新宿西教会で、「続・氷点」の演劇がありました。陽子がどんなに潔癖に生きているつもりでも、辻口家のルリ子を殺した佐石土雄の子供であると知らされた時、自分でどうにもならない罪を背負っている存在であると知り、生きていかれなくなり、自殺を図った。ここまでが「氷点」でした。
一命をとりとめ、実は佐石の娘ではなかった、と知らされるが、不倫の結果生まれた子であると知り、実母三井恵子を赦せない。その恵子も、夫を裏切ったことを隠し、夫が戦争から帰ってすぐみごもり、男の子を生む「もしや、おなかの中で姉の匂いを嗅いで、知っているのではないか?」と恵子は恐れつつ生きて来た。その恵子に陽子の兄、徹は出会い、陽子のことを告げる。動揺した恵子は事故を起こす。一方、陽子は三井恵子の夫から長い手紙をもらう。「自分は戦争中、上官の命令で、妊婦を切り殺した。ギャーと言う叫びと血にまみれてひくひくしていた胎児を忘れることができない。恵子が不倫して、しかし胎児を殺さなかったことで、自分は嬉しかった」と。
そして、佐石の娘と知らずに友人となった女子学生が、自分のどうにもならない、「殺人者の父を赦せない思い」から、解放されたことを告げられる。(それはイエスさまに出会って赦されたから、父を赦せるようになったことでした。)そして、自分の父が殺した子供の母、夏子に出会った時「どうか赦してください」と泣き崩れました。
不倫の現場から引いてこられた女に対し「罪の無い者がこの女に石を投げよ」と語り、ただ一人罪に定めることのできる主イエスが、赦しを与えてくれたことを、陽子は知りました。実母、恵子を赦さなかった自分の罪が解ります。人は皆罪の中に生まれ、この罪が解決されなければ生きられない者であることが身に染みました。佐石の娘が、証言者となって陽子に救いが及びました。
私達も今生きているところが、証言者として召されているところです。