石の枕と逆さはしご

2018年11月11日 聖日礼拝
聖書箇所:創世記28:10-22
説教:深谷春男牧師

先日、お茶の水クリスチャンセンターで福音功労賞の授賞式がありました。3人の方が受賞されました。その中の一人、星野富弘さんは健康がすぐれず欠席で、奥様がご出席されました。星野さんの所属教会の内田牧師先生が、祝辞を宣べられました。星野さんに、「現在の一番の願いは何ですか?」とお尋ねになられたそうです。そしたら星野さんは「一回でも多く礼拝に出席することです」とお答えになられたとのことでした。礼拝を中心にした、主の臨在の日々を歩まれる星野さんの生涯を思い浮かべました。
礼拝は神さまとの出会いの場、天が開ける恵みの場なのですね。

【テキストの解説】
今日、お読みしました聖書の箇所は、イスラエル民族の先祖となったヤコブという人物が、天地創造の神、歴史の支配者なる神に出会うと言う場面です。彼はまさに、この神に出会う出来事の中で人生がまったく変えられてしまったのです。しかも不思議な仕方で彼は神に出会ったのでした。
ヤコブの生涯は、まさに民族の象徴でありました。彼は人を『おしのける者』(ヤコブにはこの意味がある)でした。彼は人間の知恵の限りを尽くして、お兄さんのエサウから財産の相続権を奪いました。レンズ豆一杯で現在で言えば、数億、数10億の巨額な財産の相続権を手に入れました。「レンズ豆」はお汁粉のようなもの、あるいはコーヒー豆のような飲み物だったと想像されます。だます方もだます方だが、だまされる方もだまされる方です。へブライ書では「エサウのように不品行な俗悪な者になるな」(12:16)と言われています。そして年老いた父をだまして『祝福』を奪い、最後には兄の激怒を買い、殺されそうになってハランの町にまで逃げるはめになりました。

【メッセージのポイント】
1)10 さてヤコブはベエルシバを立って、ハランへ向かったが、11 一つの所に着いた時、日が暮れたので、そこに一夜を過ごし、その所の石を取ってまくらとし、そこに伏して寝た。(10,11節)
石の枕
ここには「石の枕」というメッセージがあります。ある地点に着いた時、もう旅の空もとっぷりとくれ、彼は野宿することとなりました。硬い、冷たい石を枕にして寝ました。「石の枕」とは絶望の一つの表現であります。
改めて考えてみますと、イスラエル民族の歴史は苦難の歴史です。彼らはしばしば石を枕にするような苦難を受けました。エジプトでの奴隷生活、アッスリアの支配、バビロンへの捕囚、ペルシャ、ギリシャの支配下での苦しい生活、そしてロ-マの支配。彼らは先祖ヤコブの石を枕にする姿と、自分の苦しみに満ちた生涯を重ねあわせて見ていました。
皆さんは石を枕にしたことがありますでしょうか?私は自分の生涯を考えると、実に多くの石の枕の時があったことかと思います。小学生の3,4年の頃にいじめに会いました。中学生のころや高校生のころ自分の惨めさ、罪深さに失望していました。高校を卒業してからは、浪人に継ぐ浪人でした。4浪までやりました。それに、失恋の苦き涙。とにかく、人生の扉はどこも開いていないような青春、石の枕のような青春でした。

2)12 時に彼は夢をみた。(12節a)
夢と幻
『人の危機は神のチャンス』という言葉があります。絶望の石を枕とする中でヤコブは夢を見ました。人生の全てを造り変えるほどの夢でした。ユダヤ民族は幻の民です。苦しい時、悲しい時、彼らは厳しい現実を越えて、神の幻を見ました。聖書の中には多くのユダヤの民の幻を見ることが出来ると思います。イザヤ35章には砂漠にサフランの花が咲くという幻があります。エゼキエル37章には枯れた骨の谷で起こる復活の奇跡があります。47章には聖所から流れ出すリバイバルの川の流れの幻があります。彼らはいつも神の霊に満たされ、神のヴィジョンを見ていたのです。
『美しい夢を見ることが出来なくなった時、その人は死んでいるのです』(ロバ-ト・シュ-ラ-)。わたしどもはどのような夢を持って生きているのでしょうか?どのような幻を見ているのでしょうか?
見城良雄という先生の証しを忘れることができません。彼は愛知県のちいさな町の材木屋さんでした。奥様が滝元明先生の牧会される教会に通ってクリスチャンになりました。すでに6人のお子さんがいました。7人目の赤ちゃんが与えられたときにご主人との間に対立が起こったのです。ご主人はもう子供はいらないと言いました。口喧嘩となって、ご主人は怒って家を出て、赤提灯で、一杯飲んでいました。友人に「俺の家内はキリスト教に凝っちゃったよ」とぼやきました。ところが彼は「キリスト教はなかなか良い宗教だ。あなたも行ってみたらどうか?」と言ったのです。「それもそうだ」。彼は仕事のついでに、東京の穐近先生の牧会される教会に出かけられました。そこで新しい業が起こり始めたのです。
しかし、その背後には奥様の熱心な祈りがありました。夜になると彼女はよく、コモを持って裏庭で祈ったと言うのです。彼女の祈りが聞かれて、夫婦の危機も過ぎて、その子は無事出産。それから8人、9人、10人と生まれ、最後は11人か、12人目まで生まれました。しかし、現在、皆、伝道者になり、ご主人も材木屋がつぶれて、ついに伝道者になりました。幻を持って祈る祈りには恐るべき力があるのです。夢と幻は人生に奇跡を生むのです。

3)12 時に彼は夢をみた。一つのはしごが地の上に立っていて、その頂は天に達し、神の使たちがそれを上り下りしているのを見た。(12節)
さかさはしごの夢
彼の見た夢は「はしご=スラム=階段」の夢でした。天から地へとはしごが伸びており、神の使いが上りおりしていました。普通のはしごは地から天に向けてかけられるものです。しかし『神のはしご』は天から地へと向かうのです。ある旧約学者の説によるとこれは「さかさはしご」であると言います。絶望の石を枕とするわれらの現実に、主は天から『さかさはしご』をかけられた。天の高みから、われらの地の低さまで降られる神の姿がここには描かれます。それは『地獄の一丁目までも出張する神』(北森嘉蔵)の姿なのです。
これは新約聖書の主イエスキリストの十字架を指し示すできごとです。ヨハネ1章の終わりで、主イエスのもとにやってきたナタナエルに主イエスは、「人の子の上に、み使いが上り下りするのを見るであろう」と言われました。主イエスこそ天と地をつなぐ神からのはしごだったのです。神様の豊かな祝福は、主イエスの十字架の贖いとなり、復活となって、わたしどもの生涯を新たに変える神のはしごとなったのでした。

はずかしながら、わたしもヤコブのように主イエスに出会いました。
1969年12月21日、わたしは日本基督教団練馬開進教会という教会で洗礼を受けました。当時、19才の青年でした。わたしはそのころは絵描きになろうと思って、東京芸術大学を目指して、美術の予備校、目白のすいどーばた美術学園に通っていました。当時は1970年直前で、日本でもベトナム戦争反対、安保反対の大嵐が吹いていた時です。19才のわたしは自分の生きる道を真剣に求めていたのでした。一時は、反戦のデモに加わったこともあります。けれども、何をしても心の平安が得られませんでした。わたしのうちには深い罪意識があり、こころ の最も深いところでは、罪の許しを求めていたのだと思います。
洗礼を受ける日の朝、わたしは自分の魂に語りかけていました。「オレは今日死ぬんだ、今日から新しい自分が生まれるんだ!覚悟はできているか?」と。クリスマス礼拝が始まった。牧師の説教が終わって、いよいよ、洗礼の時である。胸がどきどきしました。牧師に導かれるまま信仰の告白をし、その後洗礼を受けました。市川牧師が「深谷春男、われ汝に父と、子と、聖霊の名によってバプテスマを授ずく!」と宣言して、わたしの頭に水をかけられた。その水が襟首から背中に流れ、冷やりと感じた時に、「救いが来た!」と感じました。わたしはその時、感動を押さえることができずに、男泣きに泣きました。市川牧師が、「深谷くんは今、感動で泣いておりますが、主よ、この青年を祝し…」と祈ってくださいました。
この日、わたしは夕方から行われるクリスマス祝会に出席するために残っていました。夕方のクリスマス祝会も大変喜びに満ちたものでした。キャンドルサービスがあって、出席した一同が、ある者は大きな声で賛美をし、ある者は一年の感謝をしました。市川先生が「深谷くんも証しをしな」とおっしゃるので、自分が主イエス様を知るようになった中学生の頃から現在にいたるまで、かなり長いお証しをしました。最後に「昨日、月を見ていたら、イエス様がわたしを愛しているよ!って言ってくださってるようで、涙が止まりませんでした…」と言った時に、涙で声が詰まってしまいました。市川師が「そこまででいいでしょう…・」と言われたが、先生の目にも涙が光っているように見えました。クリスマス祝会を終えて、桜台駅から自分のアパートに帰るまで、わたしは、うれしくて、うれしくて、心の喜びを押さえ切れませんでした。町を歩きながら、賛美したり、横に歩いたり、後ろ向きになったり、飛び跳ねたりして帰って行ったのです。夜風がわたしの首に巻き付いて来るような解放の喜びでした。自分の部屋に入って、油絵の具を紐で縛って押し入れに投げやり、「主よ、わたしは、あなたに献身し、牧師になります!」と祈りました。その時、20―30人の友人にはがきを書きました。「俺は今日、洗礼を受けて神の子となった。俺は罪が許され、永遠に生きる。お前も信じろ、このばか。」
わたしの生涯は、この主イエスキリストとの出会いによって、まったく変えられてしまいました。数えるともう50年も前のことになりますが、昨日のことのように思い起こされます。そして、教会に加わり、献身して神学校に行き、牧師になって40年、最高の人生を歩ませていただきました。主は、破れだらけのヤコブに、「わたしはあなたと共にいる。決してあなたを捨てない」と約束されました。「石の枕と逆さはしごの物語」。これは聖書の語る典型的メッセージであり、わたしどもの生涯の基本的なイメージなのです。ハレルヤ

【祈り】
主よ、今日は「神の家=べテル」の物語を共に学びました。この神の家、教会が天国の入り口です。「石を枕」にしたような試練のただ中にいる方もおられるかもしれません。しかし、今、霊の目を開いて「天国の夢と幻」を見ることができますように。「神からの逆さはしご」なる主イエスの十字架の出来事に出会うことができますように。「わたしは決してあなたを捨てない」とのみ言葉を聞くことができますように。このまことの神に、自分の生涯を委ねることができますように。主イエスの御名によって祈ります。アーメン。