あなたがたではなく神です

2018年11月25日 聖日礼拝
聖書箇所:創世記45:1-8
説教:深谷春男牧師

教会の暦、教会暦で言いますと、一年の初めは「アドベント礼拝」から始まるのです。来週がアドベント礼拝です。アドベントは「到来」というラテン語から来ています。この世界に造り主、全能の神が、この世界に到来するのがクリスマス、その到来を待ち望む期間をアドベントと呼びます。今日は11月25日、教会暦で言いますと一年の最後締めくくりとなりますが、締めくくりにふさわしい御言葉を共に学びます。
「御手の中で」というワーシップ(ゴスペル)ソングがよく歌われます。

御手(みて)の中で すべては変わる 感謝に
我が行く道を 導き給え あなたの 御手の中で
御手の中で すべては変わる 賛美に
我が行く道に 表し給え あなたの御手の 業(わざ)を

聖書の信仰の特色の一つは歴史の見方にあります。ストレスの多い時代、厳しい環境の中を歩んだイスラエル民族の歴史は、現代のストレス社会のただ中に生きるわたしどもに勇気と力を与えます。

【聖書箇所の概略と区分】
今日の聖書箇所、創世記45章は「ヨセフ物語」の中心的な箇所です。創世記37章から始まるヨセフ物語は、イスラエル12部族の先祖の物語です。お母さん違いのヨセフがお父さんから溺愛され、自分の不思議な夢を語ったがゆえに、兄弟たちの憎しみを買い、エジプトに売られて、かの地で苦労する物語です。彼は17歳で、何も知らない異郷の地で奴隷生活を余儀なくされてしまいました。しかし、神を信じる信仰により、苦境を乗り越えました。御主人の奥様の誘惑や、誘惑を断ったことの逆恨みで、何の悪いこともしていないのに牢獄に入れられてしまいました。しかし、最後にはエジプト王ファラロの夢を説いて、牢獄より脱出。その知恵を買われて抜擢されて、王に次ぐ宰相の地位を得、いわばエジプトの総理大臣となりました、かしこい飢饉政策によりエジプトと近郊諸国を救うことになったのでした。飢饉の続くパレスチナからも、エジプトに食料のあるのを聞いて、なんとヨセフのお兄さんたち、あのヨセフを憎んで彼をエジプトに売ったあのお兄さんたちが、ユダヤから食料を買いにやって来たのでした。そして、ヨセフの前にひざまづいたのでした。若い日に見たヨセフの夢は現実となり、不思議な神のご計画の中で夢は現実となったのでした。この45章はヨセフがお兄さんたちに自分の身の上を明かす箇所であります。

【メッセージのポイント】
1)3 ヨセフは兄弟たちに言った、「わたしはヨセフです。父はまだ生きながらえていますか」。兄弟たちは答えることができなかった。彼らは驚き恐れたからである。4 ヨセフは兄弟たちに言った、「わたしに近寄ってください」。彼らが近寄ったので彼は言った、「わたしはあなたがたの弟ヨセフです。あなたがたがエジプトに売った者です。
(3、4節)
信仰は「神のみ業への驚き」である事を知れ!
ヨセフのお兄さんたちはヨセフが自分の名を明かした時、驚きのあまり声が出ませんでした。想像さえできなかった出来事!あの、弟のヨセフ、10数年前に兄弟で弁当を持ってきた弟を穴の中に投げ入れ、ミディアン人に銀貨30枚で奴隷として売り、羊の血を付けて、野獣に殺されたのだと思うとお父さんに告げたあのヨセフが、今、エジプトの総理大臣となっている!お兄さんたちは人間の想像をはるかに越えた、神の歴史支配の現実に驚き、その御前に震えおののいたのであります。元来、信仰とは霊の目が開かれることです。神の壮大な創造の業に目が開かれること、神の不思議な歴史支配への開眼です。驚きに満ちた神のみ業、神の深い御取り扱いへと彼らは霊の目が開かれたのでした。
皆さん。聖書の神様は驚くべき御業をなされる神様です。皆さんのこの一年の歩みはいかがだったでしょうか?
わたしも、この一年の歩みを考えると、とても不思議な思いでいっぱいになります。昨年の11月の終わりは、ちょうど、新宿西教会の特別礼拝でお招きを受けた時でありました。イザヤ書43:1~5から「神の御慈愛に包まれて。― 贖い・愛・臨在 ―」というメッセージを取り次ぎました。66歳になった時に、自分自身の生涯を振り返りました。その時に、ライフメッセージのように、「恐れるな、わたしはあなたを贖った。恐れるな、わたしはあなたを愛している。恐れるな、わたしはなたとともにいる!」と語りました。
わたしも自分の生涯を振り返ると感謝でいっぱいです。これもまた奇跡であります。父や母に出会ったことも、中学生の時に渡辺正夫先生に出会い、キリスト教に出会ったことも、高校生の時に倉田百三の「愛と認識との出発」に出会い、絵描きになろうと4年間も浪人生活をしたことも深い主の御摂理の中にありました。練馬開進教会で洗礼を受け、献身に導かれ、赤羽教会31年、吉川教会9年、そして、この4月からは新宿西教会へと招かれました。このように主にある恵みの中に整えられて歩んでいることこそ、神の奇蹟の連続に思えてなりません。われらがこの地上に生きていることも、全能の神に導かれて命を与えられていることも、まさに信仰は「神の御業への驚き」以外のなにものでもありません。

2)5 しかしわたしをここに売ったのを嘆くことも、悔むこともいりません。神は命を救うために、あなたがたよりさきにわたしをつかわされたのです。(5節)
⇒ 「罪の過去を、嘆くことも、悔むこともいりません!」
F.B.マイヤ-は「ヨセフの魂は王者の魂」と語っています。ヨセフはどんなにひどい状況になっても、自暴自棄に陥りませんでした。また、お兄さんたちのひどい仕打ちをうらんだり、ドロドロとした過去にとらわれることもありませんでした。むしろ彼は、相次ぐ悪意と不運のただなかにあっても、神の救いの御業、歴史の背後に働く神の慈愛の御手を見つめ続けたのでした。そして今、過去のどす黒い罪が歴然とあらわにされて、逃げ場を失ってうろたえるお兄さんたちに、「今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません」(新共同訳)とやさしく語りました。神への信仰が、後悔や言い逃れを越え、創造的な未来を開くことを何よりも雄弁に語っています。「摂理の信仰」、神様が、人間の歴史を不思議な恵みの御手で導き給うという、聖書の語る信仰は、人間のどす黒い罪の現実、ねたみと憎しみと殺意と嘘で固められたような、直視し得ないような「どす黒い罪の過去」までも癒し、清め、変えてゆくのです。
数か月前に、西田正兄の率いる演劇集団が、うちの教会で「続・氷点」をしたことがありました。

3)7 神は、あなたがたのすえを地に残すため、また大いなる救をもってあなたがたの命を助けるために、わたしをあなたがたよりさきにつかわされたのです。8 それゆえわたしをここにつかわしたのはあなたがたではなく、神です。神はわたしをパロの父とし、その全家の主とし、またエジプト全国のつかさとされました。  (7、8節)
⇒ 霊の目を開いて「神の摂理のみ手を」見上げよ!
ヨセフ物語は「信仰の勝利の物語」です。この物語の中には、父の偏愛、兄弟間の憎悪、嫉妬、悪意、虚偽、裏切り、誘惑、誤解、投獄、飢饉・・・人間の暗黒が満ちています。しかし、何という物語の明るさなのでしょう。ヨセフはこの暗やみの中で輝いています。8節に彼の信仰が語られます。「あなた方ではなく、神です。神が、・・・・」。この歴史の原動力は、人間の悪意ではなく、人間の計画ではなく、いや、それらの全て含んで、神ご自身が、その慈愛の摂理の御手で我らを導き給うと高らかに語っているのです。
聖書の信仰は「摂理信仰」です。人生には人間の罪や弱さのために失敗や悲しみが多くあります。しかし、神と共なる人生、摂理の御手に導かれる生涯は、それらに対して、勝利することができるのです。あせらず、失望せず、忍耐と、感謝と、希望に満ちて、全能の神への信仰のまなざしを高く上げるのです。わたしたちも、ヨセフのように聖霊に満たされた、王者の魂を持ち、輝かしい勝利を得ることができるのです。

【祈り】
全能なる父よ。アドベント礼拝を前に、一年の締めくくりのような礼拝に、ヨセフ物語を学ばせて頂きました。自分の運命を呪ったり、自暴自棄に陥ったりしがちなわたしどもですが、人間の計画や思い、いや、人間の悪意や憎しみや恨みをも含めて、あなたは不思議な救いの業をなし給うことを悟らせてくださいました。信仰の目を開いて、あなたの摂理の御業を見る者としてください。ヨセフのように、聖霊に満たして王者の魂を持つ者としてください。真新しい一年を!ハレルヤ。わたしどもの救い主、主イエスの御名によって祈ります。アーメン