鷲のように翼を張ってのぼる

2019年1月1日 元旦礼拝
聖書箇所:イザヤ書40:27~31
説教:深谷春男牧師

 あけましておめでとうございます。新しく迎えた2019年。神様の豊かな祝福の中をまっすぐに歩みたいと思います。
もう、ずいぶん前のことになりますが、東京聖書学校が東久留米にあったころに、ある卒業式で信徒の代表者が挨拶されました。彼は若いときに剣道を習って、北辰一刀流の門下で学んだのだそうです。
「わたしの習いました北辰一刀流には学ぶべき点がたくさんありますが、これから、伝道の第一線で厳しい霊の戦いをされてゆく皆様に、僭越ながら、お言葉として、北辰一刀流の極意をお教えしたいと思います。」
式場は一種の緊張がありましたが、彼はおもむろに、
「それは『先先の先』と言います。・・・戦いに臨んで、精神を統一し、審判の『はじめ!』の号令がまだ終わらないうちに、最初の一打に渾身の力を込めて、『めーん!』と相手の頭上めがけてバッーと飛び込むのです。・・・・」
わたしはその話を聞いて、とても興味深く感じました。まさに、信仰の戦いにおいてもその通りだ、と思ったからです。朝、目覚めた時に、「ハレルヤ、主よ、感謝します!」と起き上がり、まず、主をほめたたえ、御言葉を頂いて、一日のために祈り、聖霊に満たされて立ち上がるのです。み言葉と聖霊に満たされて、サタンの頭上めがけて、「お面!」の一撃を食らわしての一日の勝利の出発をする伝道者のことを想像しました。また、伝道者の大きな働きは説教ですが、良く祈って整え、聖霊に満たされ、恵みと確信に満ちて講壇に立ち、語り出でる第一声から、勝利の一本!をとりたいと思わされました。J・ウェスレー、中田重治と千葉周作の顔が重なるような不思議な感覚でした。

 
【聖書箇所概説】
イザヤ書40章から55章はイザヤ書第二部と呼ばれる個所です。この預言の背景は、バビロン捕囚から帰還するイスラエルの民に励ましを送り、新しい時代を切り開いた預言集です。彼は絶望の中にいるイスラエルの民に、もう神の審きの時は終わった。今は神の「慰めの時」となった。神の霊に満たされ「鷲のように翼を張って」約束の地へ向かえと預言いたしました。
【メッセージのポイント】
1)、27 ヤコブよ、何ゆえあなたは、
わが道は主に隠れている」と言うか。
イスラエルよ、何ゆえあなたは、
「わが訴えはわが神に顧みられない」と言うか。(27節)。
⇒「わが運命は見捨てられた」と言うな!        
 この有名な箇所は「わが道は主に隠されている」また「わたしの裁きはわが神に忘れられた」(27節)という民の嘆きのから始まります。左近淑師によれば、「道」とは「運命」のことです。「裁き」とは「権利」のことであると説明されます。バビロンでの捕囚があまりに長く、苛酷であるために彼らは疲れ果てているのです。わずか4節の間に「疲れる」4回、「倦む」が2回出てきます。民は「弱り」、「勢いを失い」「つまずき倒れ」ようとしているのです。「わが命運は見捨てれた!」と民は皆思ったのでした。  わたしどもの生涯にも、「わが命運は見捨てられた」と思うような経験はあるでしょうか?そう自問自答する時に、ある、ある…たくさんある…・と思いました。自分の生涯を考えると、とても不思議な感じがいたします。
その中でも、浪人4年目にして、大学受験に失敗した時の体験は忘れられません。絵描きになりたくて東京芸術大学の油絵科を目指したのですがその入学の門は狭く、ついに入ることができませんでした。四浪してもダメでした。合格者が受験番号で貼り出されるのですが、自分の番号はありません。おかしいな、あるはずなんだけど…前から読んでも、後ろから読んでもありません。白い模造紙の端の方パタパタと風にかすかな音を立てておりました。
お世話になった予備校の先生に受験の結果を告げねばなりません。目白駅から予備校まで行く足取りの重さ。幾度か古本屋に入りました。読むともなくぱらぱらとページをめくり、店を出ました。店を出た時に目白の商店街の歩道の上に小さなアーケードがかかっておりました。ふと「ああ、自分の生涯はこのアーケードのように暗いトンネルがずーっとかかっているのではないか。わたしの人生は何か、失敗の連続のような運命が続いているのではないか?」という思いがよぎりました。
皆さん、わたしどもの生涯には、「わたしの運命は見捨てられた」、「わたしの祈りは受け入れられない」と感じるような、きびしい体験というものがあるのです。  
2)、28 あなたは知らなかったか、
あなたは聞かなかったか。
主はとこしえの神、地の果の創造者であって、
弱ることなく、また疲れることなく、
その知恵ははかりがたい。
29 弱った者には力を与え、
勢いのない者には強さを増し加えられる。(28、29節)
 ⇒ 永遠の神を見上げよ!           
 ここで預言者はイスラエルの人々に問うております。
「あなたは知らないのか、聞いたことはないのか!」と。あなたがたはいつも礼拝の中で聞いていたではないか。聖書の朗読の時に、祈りの時に聞いていたではないか。
「主はとこしえの神、地の果ての創造者」ではなかったのか?「あなたはそれを昔から聞いていた!」。預言者は叱責するようにイスラエルの民に語りかけます。
「そうだ、この地の果てのようなこのバビロンもまた主が創造され、主が支配しておられるのだ」。この預言の言葉を聞きつつ、イスラエルの民は思い起こしていました。今まで神殿での礼拝で聞き続けてきた聖書のメッセージ。神はこの世界の造り主であり、救い主なのだ。地の果ての創造者であり、永遠の神なのだと!民の希望は永遠の神を見上げるところにあるのです。
 
3)、31 しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、
わしのように翼をはって、のぼることができる。
走っても疲れることなく、
歩いても弱ることはない。(31節)。 
 ⇒ 鷲のように翼を張って上れ! 
 預言者は言います。「とこしえの神、全能の主を信ずる生涯は、鷲が翼を張って上る時のようなものだ」。
「鷲は強い風を利用し、逆風を翼に当てて、
それを貯えエネルギーに変えて、上昇する。
鋭い眼光で悠か遠くを見つめつつ、悠然と大空に舞う。
試練も悲しみも全てを高く舞い上がるためのエネルギーとする。あなたは、鷲のように今、飛び立つのだ」と。
旧約学者、浅野順一は『「新たなる力を得る』は力を新たにする、力を交換する、人の力から神の力へと力が交換されることを言う」と説明しています。自分の力から神の力へ、弱い人間の力から聖霊の力への転換がここにはあります。聖霊への明け渡しはあらゆる困難と障壁、大きな山脈も越えて行く「神の力」なのであります。
アルプスで鷲の観察を続けた方の古い伝説があります。長生きをする鷲は百才近くまで生きるのだそうです。しかし、60才をすぎる頃にはもうすっかり老い込んでしまう。すると鷲は岩場に行き、のびすぎた嘴と羽とを岩場に叩きつけて皆落とす。岩場は血に真っ赤に染まるといいます。しかしじっとその所にうずくまって、鷲はやがて新しくよみがえり、天空高く飛び立つと。
 わたしどもの生涯にも、「わたしの運命は尽きた!」と思うような時があります。でも、疲れ果ててしまうような現実のただ中で主イエスを見上げるのです。目を天に向けましょう。そこには全能の神がおられます。彼は地の果ての創造者、そしてわたしどもを救いに導く救い主なのです。「わたしの目にあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と語ってくださるお方なのです。この方を信じ、その贖いを受け入れ、この方の御再臨を待ち望む者は、鷲のように翼を張って上るのです。信仰者はいわば「天空高く舞う鷲」です。われらの大先輩、中田重治師の聖歌729番に歌うように、われらも聖霊の力に満たされて、「鷲の如く、鷲の如く、世界の果てへもわれは駈けらん!」との心意気を持ちたいものです。わたしどもの家族、友人達にこの福音を伝えましょう。この新宿歌舞伎町の地に神の恵みの福音を満たしましょう。そして日本全土、全世界に向けて神の愛を発信致しましょう。リバイバルはこの新宿歌舞伎町の地から起こるのですから! ハレルヤ。

【祈り】 全能なる父よ。2019年の1月1日を迎えました。この一年を祝福し導いてください。わたしどものこの新年の歩みの中には、時に、もう命運尽きたと嘆き、祈りが届かないと落ち込むような時があるかもしれません。しかしそのような時に、目を上げて、あなたの御温顔を仰ぎ、創造と救済の恵みの御手に信頼する者とならしめてください。主イエスの救いの恵みを体験し、聖霊の力に満たされて雄々しく鷲の如く昇る者とならせてください。この一年の豊かな勝利を信じて、われらの救い主、主イエスの御名によって祈ります。アーメン