その良い方を選んだ

2019年1月6日 2019年初主日礼拝
聖書箇所:ルカ福音書10:38~42
説教:深谷春男牧師

あけましておめでとうございます。新しい2019年がやってきました。今年もよろしくお願いいたします。「主日礼拝は一年に52回めぐってくる春である」と言われます。様々な厳しい、凍り付くような冷たい世界の現実の中にあっても、礼拝の場に座り、神様の温顔を拝し、その恵みの御言葉を頂くと、そこは天国の窓が開き、愛と恵みの神の国となります。ここで、癒され、整えられ、恵まれ、強められ、力を得て、この世へと遣わされてゆきます。この一年間、主日礼拝をしっかり守りつつ、出発いたしましょう。

三浦綾子さんのベストセラー小説、人間の原罪をテーマに描いた「氷点」の中で、主人公の陽子の父親、啓造が、道を求めて初めて教会を尋ねたところがあります。彼が教会に行きますと、その看板に説教題がありました。「なくてならぬもの」という題だったのです。彼は教会の玄関口まで行きながら、入る勇気が出てこなくて、そこから帰ります。その途中、「一体、聖書の言う『なくてならないもの』とは何なのだろうか?」と自問自答するのです。このドラマは、TVでも放映されたのですが印象的な場面でした。

わたしも18歳の時にはじめて教会に行ったそのことを思い出します。池袋西教会の特別伝道集会で、佐古純一郎先生の説教でした。佐古先生のメッセージは「なくてならぬもの」。もう一人の講師の大塩清之助先生の話は「原点としての神の愛」でした。1968年の頃だと記憶しています。今日の聖書箇所はわたしにも忘れることのできないなつかしい箇所です。

 

【今日の聖書箇所の概説】           

ベタニヤの村にいたマルタとマリヤの姉妹は主イエスを愛し、主のお泊りになられるのを楽しみにしていました。しかし主イエスとお弟子たちの一行がお泊りになると実際は大変で、お食事や宿泊準備でマルタやマリアは大忙しでした。姉のマルタが汗びっしょりになって走り回り、ふと気づいたら、妹のマリアがいない。探したら何と、彼女はちゃっかり主イエスの足元でじっと耳をすまして説教を聞いていました。マルタは苛立って、妹を怒るとともに、ついに主イエス様にまで怒りをぶちまけたのでした。

 

【メッセージのポイント】

1)38 一同が旅を続けているうちに、イエスがある村へはいられた。するとマルタという名の女がイエスを家に迎え入れた。39 この女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、御言に聞き入っていた。

⇒ 主の足もとに座って、み言葉に聞け! (38,39節)

ある村は、マルタとマリヤの住んでいた「ベタニヤ」(ヨハネ11:1)で、現在のエル・アザリエの村であると言われます。主イエスが、マルタとマリヤの家に入られたのは、実は当時としてはめずらしいことでした。普通、ラビは、女性だけの家には入りませんでした。39節にマリヤの姿が記されます。彼女は主イエスの足元で、じっと主イエスを見上げ、御言葉に聞き入っていました。「主の足もとに座ってみ言葉をきく」ことは、使徒22:3では、「ガマリエルの足もとに座って、学ぶこと」で、弟子となって学ぶことを意味していたと言います。ですから、主イエス様の行動は当時の人々にとっては革命的でした。それはそうと、聖書に出てくるマリヤは、よく座っている女性として描かれています。活発で聡明で働きもののマルタとは対照的です。マリヤはどことなく力なげで、座っていることが多かったようです。でも、ここでは彼女はほめられています。

わたしどもの生涯でも、まず腰を落ち着けて主イエスの言葉に耳を傾けることから始めねばなりません。一週間のはじめにわたしどもはなんとしてもまず、主のみ前に出て、礼拝をし、主の臨在に触れ、また主のみ言葉をいただいて出発しなければなりません。その礼拝の姿が、ここでは「マリヤは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた」と表現されています。一週間のはじめに、まずは何をおいても、主のみ前に礼拝するときを持ちたいと思います。クリスチャンにとっては日曜日の礼拝が命です。

ルカは「御言葉を聞くこと」を非常に大切に語っています。

11:27,28 イエスがこれらのことを話しておられると、ある女が群衆の中から声高らかに言った。「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。」しかし、イエスは言われた。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」

8:21 するとイエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」とお答えになった。

また、できれば、一日のはじめにも、主のみ前に出て、御前に静まり、聖書を読み祈る時を持ちましょう。榎本保郎師は「朝の15分があなたを変える」のキャッチフレーズでアシュラム運動を展開し、日本中に大きな影響を与えました。

 

2)40 ところが、マルタは接待のことで忙がしくて心をとりみだし、イエスのところにきて言った、「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか。わたしの手伝いをするように妹におっしゃってください」。41 主は答えて言われた、「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。(40,41節)

⇒ 多くのことに思い煩い、心を乱すな!

40節にはマルタの姿が記されます。彼女は主イエスに喜んでいただこうと、大忙しでした。主イエス様とご一行様のおもてなしです。それは本当に大変だったろうと思います。集会場の準備やお掃除、装飾。また、お食事の準備、買物をしたり、調理したり、配膳したり・・・。お弟子だけでも12人。そのほか一緒についてきた方々がいたに相違ありません。マリヤとマルタだけでは間に合わず、お手伝いの方も頼んでいたかもしれません。とにかくマルタの働きと労苦は大変なものでした。しかし、妹のマリヤはなんと、主イエス様の足もとでお話しを聞いていたのです。それはとても心外なできごとで、マルタは主イエスのそばに近寄って「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」と言ったというのです。その時主イエスは「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している・・・。」と言われたのです。これはひどい言葉ではないでしょうか?一生懸命にもてなそうとしていた彼女への思いやりに欠ける言葉のように響きます。マルタは主イエスとご一行をもてなすために労苦していたのです。

「姉にそれらの雑事を任せて、自分だけ説教を聞こうなんて何という図々しさ!」。彼女は主イエスに「妹がわたしにだけ接待をさせているのを何とも思いませんか!」と皮肉の一つも言いたくなったのも分かる気がします。

しかし、主イエスは言われました。「マルタ、マルタ、あなたは、多くのことに思い悩み、心を乱している。・・・・」

この言葉は、現代人である、わたしどもへの言葉として聴きたいと思います。現代人は忙しい。確かにそうだと思います。多くの仕事や行事で一日一日は「飛び去る」ように過ぎてゆきます。「マルタ、マルタ・・」と名前を二度繰り返すのは、一つは愛情の表現。もう一つはこれから語ることへの注意を促しているとのことです。ここで使用される「思い悩み」という言葉は、「山上の説教」で主イエス様が「野の花を見なさい。空の鳥を見なさい」と語られたときの「思い煩うな」と言う語「メリムナ」という言葉です。もと

もとの意味は「分裂」と言う意味です。心が分かれてしまっている状態です。

 

3)42 しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」。(42節)

⇒ 必要なことはただ一つだけ

42節には大変重要な言葉が記されています。

しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」。新改訳も同じです。ここはいくつかの写本があって、わずかな違いがあります。

新共同訳では「しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」と続いています。

①「必要なものはわずかである。あるいは一つだけである」。

②シリア語のある写本は「わずかで十分である」。

③「必要なものはただ一つだけである」という写本。

①、②を取ると、「こんなに色々とご馳走するには及ばない。少し、あるいは一皿だけで十分である」の意味に取れます。

③を取ると、霊的な意味に理解して、「必要なことは、主イエスをもてなそうとして種々、心配することではなくして、神の言葉を聞くことである」と言う理解になります。多くの学者は③の意味に取り、御言葉を聞くことの大切さをこの箇所から読み取ります。

わたしどもの生涯に「なくてならぬもの」は、聖書の御言葉なのです。これが「ただ一つの必要なこと」なのです。何はさておいても御言葉に聴く。これを信仰生涯の基礎と致しましょう。W・バークレーによりますと、「主イエスはこのとき十字架へと向っての旅であった。それゆえに、『肉のご馳走のもてなし』よりも『御言葉の聴従という霊のもてなし』を求めておられた。マリヤはそれを察知し、マルタはそれを悟れなかった」、と指摘しています。 

【 祈り 】 天の父なる御神。今日は2019年の最初の主日礼拝となりました。今日共に学びましたように、日曜日ごとに「主の足もとに座ってみ言葉に聞き入り」「多くのことに思い悩み、心を乱すことなく」「なくてならぬ一事」を大切にして、一年52週を歩み、この2019年を勝利と祝福で満たしていただきたく思います。主イエスの御名によって。アーメン!