白鳥の歌

2019年2月3日 2019年降誕節第6主日礼拝
聖書箇所:ピリピ4:4~7
説教:深谷春男牧師

 この一週間は、とても不思議な、恵みと、豊かな祝福を頂いた一週間でした。日曜日の礼拝に「聖霊に満たされて歩め!」との大変素晴らしい御言葉を頂いての出発でした。コイノニアも恵まれ、聖霊に満たされると、深い愛が魂に満ちてくる。ある方の証し。「わたしは牧師があまり好きではなかったのに、聖霊に満たされたら、牧師先生が、慕わしくて、ハグしたくなりました!」(この好きでなかった先生は、深谷先生のことではありません・・との注もついていました。)愛する方々といろんな各部会などで恵まれて夕食の時には本当に感謝であふれておりました。その時、電話がなりました。「広島キリスト教会の牧師の日山ですが、先生、父が、植竹利侑牧師が天に召されました!恵まれた平安の中での召天でした!・・」わたしは、言葉を失ってしまいました。

【 聖書箇所の概略 】

さて、今朝開かれた聖書はピリピ書です。この手紙はパウロの書いたピリピ教会あての手紙です。それは獄中書簡と呼ばれるものの一つです。パウロは当時のローマ帝国の獄中という過酷な環境にあって、しかも、いつ、死刑の判決が来るかも分からない中で、ピリピ教会の愛兄姉宛に、プレゼントを頂いた感謝に、温情あふるる信仰の手紙を書きました。それが、ピリピ書として今、残っています。ある方は、ピリピ書の中でも、この箇所を「パウロの白鳥の歌」と呼びました。白鳥はその命の最後に美しい声で一鳴きするのだそうです。ここにわれらはパウロの最後の、最も美しい歌を、賛美を、告白を聞くことができます。パウロ先生の遺言のような箇所です。「白鳥の歌」という題をつけました。今日は、すでに天に召された、植竹先生を、パウロ先生を思い起こし、わたしたちの信仰の先輩たちを思い起こしながら御言葉を聞きたいと思います。

【メッセージのポイント】

1)4 あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。  (4節)。

⇒ 主にあっていつも喜べ!繰り返す、喜べ!

この、ピリピ教会の愛する皆さんへの結論部で、パウロは言います。「主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言う。喜びなさい」と。パウロ先生のピリピ書で語る、遺言は「喜べ!」というメッセージです。それも、「いつに」喜べ。主にあって喜べ!「繰り返して言う、喜べ!」です。ハレルヤ!

小松川教会を導かれた、原登先生がしばしば、説教の中でこのようなことを言われました。「皆さん、『喜べ!』と言われても喜べるものでしょうか?」それで、ある時、息子さんに『喜びなさい!』と言ってみたというのです。息子さんは何歳だったかわかりませんが、言われた息子さんはきょとんとしていたというのです。「お父さん、喜べと言ったって、うれしいことがあったとか、おこずかいをあげるとか、何か、うれしいことがなければ、喜べないよ!」と答えたというのです。先生の御次男は神学生の同級生でしたので、彼の子供のころの顔が浮かびました。「人間は喜べといわれて、単純に、喜べるものではありません。」なるほどと思いました。何かうれしいことがあれば自然に喜べますが、うれしいこともないのに人間は喜ぶことはできないのです。一体、どうしてパウロは喜べというのでしょうか。

ある説教で聞きました。ピリピ書には16回、「喜べ」という言葉が使われているそうです。いたるところに「喜び」という言葉が飛び出します。ですからこの手紙は「喜びの手紙」と呼ばれています。でも、どうしてパウロはこんなに喜んでいるのでしょうか?しかも、彼は牢獄のようなところに捕らえられ、明日にも処刑されるかもしれないという環境に置かれているのです。ある方の指摘では、この書には、16回も使用されている「喜び」という言葉を越えて、17回、繰り返されている言葉があるというのです。それは、「主にあって(=in the Lord)」「キリストにあって」(=in Christ)という言葉だそうです。この言葉は、現在の新共同訳では、「主に結ばれて」と訳されております。そうです!喜びの秘訣、勝利の秘訣はここにあるのです。

今年も2月にケズィックコンベンションが開催されますが、ある年のケズィックで講師が、このように語られました。「全世界を巡って多くのクリスチャンにお会いしますが、恵まれ、聖霊に満たされた器には、共通の特徴があるように感じますね。それは魂の底からにじみ出てくる、喜びです」。

主にある生涯、キリストのうちにある人生。キリストに出会い、自分の罪を悟り、主イエスの十字架の贖いの出来事が自分のためだと分かり、この主イエスに深く信頼し、祈りの中でいつも主の臨在を覚えるこの恵みの歩みは、いつも喜ぶ!いつも感謝して、希望に燃えて歩む人生を可能にした。それゆえに、喜び、慶べ。新しい人生がここに始まったのだから、とパウロは語るのです。

2)5 あなたがたの寛容を、みんなの人に示しなさい。主は近い。(5節)

    ⇒ 寛容であれ、主は近い!

5節に「寛容であれ、主は近い!」とあります。これは短い言葉ですけれども、これほど、慰めに満ちた言葉も少ないと思います。これは復活の主イエス様が、距離的に、われらのそばにいてくださることを告げた言葉です。また、時間的にも、主イスの再臨が近いことをも示しています。主は近い。神の国は、すでにもう来ているのです。主イエスはすでに来られたのです。主イエスはすでにわれらのために罪の贖いをなし終えられ、すでに死を打ち砕いて復活されました。そして世の終わりまでわれらのそば近くに、わたしたちと主に歩んでくださるのです。エマオの途上を歩む弟子たちと共に歩んでくださったように共に歩んでくださるのです。そうです、わたしどもの喜びは、この共なる主イエスにあるのです。素晴らしい愛の主に出会い、喜ぶのです。信仰において今、出会っているのです。

かつて、アブラハムの女奴隷であったエジプト人のハガルが、べエル・シェバの荒野をさまよった時に、皮袋に水が尽きました。当時、アブラハムには子供がいなかったので、女奴隷ハガルを通して、子供を与えられました。でもそのことで、家庭に問題が起きました。ハガルは家を出て、荒れ野を彷徨いました。絶望して生きる望みを失いました。でも主が彼女の霊の目を開かれたので、彼女は井戸を見つけました(創世記21:14)。現代も、神はわれらの祈りを聞かれ、近くにある井戸を示してくださいます。永遠の命の沸き上がる井戸は、いつもあなたのそばに、おられるお方その方なのです。主は、近い!のです。

有名な「フットプリンツ(=足跡)」という詩があります。

ある夜、わたしは夢を見た。

わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。

暗い夜空にこれまでのわたしの人生が映し出された。

どの光景にも、砂の上に二人の足跡が残されていた。

一つはわたしの足跡、もう一つは主の足跡だった。

これまでの人生の最後の光景が映し出された時、

わたしは、砂の上の足跡に目を留めた。

そこには一つの足跡しかなかった。

わたしの人生で一番辛く悲しい時だった。

この事がいつもわたしの心を乱していたので、

わたしはその悩みについて主にお尋ねした。

あなたに従うと決心したとき、あなたはすべての道において、

わたしとともに歩み、わたしと語り合ってくださると約束されました。

それなのに、わたしの人生の一番辛い時、一人の足跡しかなかったのです。

「主よ。わたしがあなたを一番あなたを必要とした時に、

あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、

わたしにはわかりません。」

主は、ささやかれた。

「わたしの大切な子よ。わたしは、あなたを愛している。

あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みの時に。

足跡が一つだった時、わたしはあなたを背負って歩いていたのだ。」

この詩は、マーガレット・パワーズさんの作です。実は、10数年前にパワーズご夫妻が日本に来られました。いのちのことば社の主催で東京北区でも集会があり、その集会でわたしが司会をおおせつかりました。とてもすばらしいご夫妻の証しでした。特にその時のご主人の証しは忘れられません。彼は、小さい時にアル中のお父さんの下で育ち、暴行を受け、ある時にはひどく殴られ、あばら骨が折れて病院に担ぎ込まれるような状態でした。心が荒れて、思春期には犯罪に手を染めるようになりました。何回か友人と盗みをしていたのですが、10代の終わりに忍び込んだ家でその家の女主人に見つかり、持っていた銃を発射。その女主人を殺害してしまったのです。彼は少年院や刑務所に行きました。そこで聖書の話を聞き、福音を受け入れ新しい人生に目覚めました。彼は今、全米を回って少年院や刑務所で教誨師として働いています。笑顔のすてきな方でした。

 

3)6 何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。7 そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。(6節)。   

      ⇒ 思いわずらうな! 事ごとに、感謝をもって祈れ!

パウロは言います。遺言のように。「主イエスによって罪洗われ、十字架の血潮で贖い取られた者は、今、神の子として生きる。命の源なるお方があなたと共におられる。恐れるな、思い煩うな。事々に感謝をもって祈りと願いを捧げつつ歩め」と。願いは主が聞き届けて下さる。「ハレルヤ、主よ、感謝します!」と告白しつつ歩むのです。全能の愛なる方を信じて祈りつつ、歩むのです。

皆さん、新しい年も、2月を迎えました。毎日、聖書の言葉に耳を傾けましょう。聖書から、罪と死の呪いを砕き、魂の深みから永遠の命の喜びを頂きながら歩みましょう。主は近い。背負ってくださる主が共に歩まれる!ハレルヤ  

【 祈り 】恵みの主よ。一年で一番寒い2月を迎えました。しかし、今日はもう暦の上では節分です。明日からは春の到来となります。この厳しい寒さの中に春の到来を見ることができますように。主イエスの十字架の贖いの業を自分のものとして体験し、聖霊に満たされて歩むこの年としてください。あなたの臨在に触れ、魂の深みから「主は近い!」と叫びつつ、あふるる恩寵の中を歩む者としてください。わたしたちの救い主であり、慰め主である、主イエスの御名によって祈ります。アーメン。