神の霊に貫かれ

2019年2月10日 2019年降誕節第7主日礼拝
聖書箇所:サムエル上16:1~13
説教:深谷春男牧師

  信仰生涯で最も大切なことは聖霊に満たされることです。聖霊に導かれて、人は大きく変わってゆきます。聖霊なる神さまの導きのもとで、主イエスの十字架と復活を魂の内側から確信させて頂くからです。「この方が来ると罪について、義について、裁きについて、世の人の目を開く」(ヨハネ16:8)と紹介されている通りです。聖霊様は救いの確信を与えます。

救いの確信を難しい神学的用語で言うと「救いの内的確証」と表現します。心の内側から、自分は深く変えられた。今は救いの恵みの中に入れられている。救いの恵みに入れられているとの確信。これが聖霊なる神の働きなのです。

今週は大変、いろんなことが起きました。まず、2月4日の誕生日。フェイスブックに「いよいよ69歳になりました」と書くつもりが、「969歳になりました」と書いてしまいました。「ノアの時代より前の方の年齢ですね」とか「メトセラの年まではあと900年ありますね」「あと31歳で1000歳ですね」とか、祝福の言葉を頂きました。「主は近い!」とのメッセージを頂きました。また、5日の朝に電話があって西田正兄の召天を知らされまして、大変驚きました。演劇グールプの方々も大変力を落としておりました。多くの方々に助けられて、昨日、西田正兄の御葬儀を致しました。それはコラムの通りです。真実な、天国凱旋のすばらしい証しのひと時でした。

 

 

【テキストの解説】    サムエルとダビデの出会い

今日の聖書箇所はすばらしい箇所です。聖書に出てくる最も霊的な人物であるサムエルと、イスラエルを建国した有名なダビデ王の出会いです。

サムエルは、神様に捨てられたサウル王のことで悩んでいました。その時主はサムエルに語られました。「いつまでサウルのことで悩んでいるのか、わたしはエッサイの子の中に王を捜し当てた。彼に油を注いで王とせよ」。サムエルは立ってベツレヘムのエッサイのもとに行き、息子たちに出会いました。長男のエリアブを見た時にその立派な姿を見て、サムエルはこの人こそ神様が選んだ王だ、と思いました。しかし主は「背のたけや、姿かたちを見てはならない、人は外の顔形を見るが、主は心を見る」と語られました。そして最終的に王として油注がれたのは、末子の羊飼いダビデでありました。彼は「血色の良い、目のきれいな、姿の美しい人であった」と記されています。

サムエルの油注ぎを経験してから、ダビデは神の霊に満ちた、まったく変わった霊の人になったと聖書は記しています。

さて今朝、わたしどもは、このすばらしい二人の出会いを通して勝利の生涯を共に学んでみたいと思います。

 

【メッセージのポイント】

1)1 さて主はサムエルに言われた、「わたしがすでにサウルを捨てて、イスラエルの王位から退けたのに、あなたはいつまで彼のために悲しむのか。角に油を満たし、それをもって行きなさい。あなたをベツレヘムびとエッサイのもとにつかわします。わたしはその子たちのうちにひとりの王を捜し得たからである」。2 サムエルは言った、「どうしてわたしは行くことができましょう。サウルがそれを聞けば、わたしを殺すでしょう」。主は言われた、「一頭の子牛を引いていって、『主に犠牲をささげるためにきました』と言いなさい。3 そしてエッサイを犠牲の場所に呼びなさい。その時わたしはあなたのすることを示します。わたしがあなたに告げる人に油を注がなければならない」。 

 ⇒ 角に油を満たし、それを持って行け       (1~3節)

これがまず、主からのメッセージであります。この言葉はサムエルの生涯の象徴のように思えてなりません。「角」とは力のあるところを意味します。わたしどもにとっては「魂」と言って良いでしょうか?魂が「神様の油」すなわち「聖霊」で満たされることほど大切なことはありません。神様の霊とは、信仰の力と考えれば良いでしょう。それは愛の力、恵の力です。喜びの力、生命に満ち満ちた状態とでも言えるでしょう。この恵のあふれた状態が、わたしたちにとって、大変大切だと思います。

今朝の早天祈祷会のアパルームの聖書はイザヤ書40:31.「主を待ち望む者は鷲のように翼をはって昇る」でした。ワシやタカが、上昇気流に乗って天高く舞い、空を滑空する姿を見て、わたしもまた、霊的な恵みの上昇気流で天高く舞う信仰者でありたい。わたしにとっての「上昇気流は、聖日礼拝やアパルームで妻と共に守る朝の祈りの時です」と記されていました。

ある東京聖書学校の卒業式で信徒会長が祝辞を述べた「北辰一刀流の極意」の証しをまつことなく、恵みあふるる時間です。「その極意とは『先々の先』と言います。審判の始め!の合図とともに「お面!」と渾身の力をこめて打ち込むことです」。一日の初めに、御言葉を頂き、祈ってハレルヤ!と始めて行くこと。一週間の出発に、主イエスの勝利の温顔を拝する、「恵みの主日礼拝」を上昇気流として勝利の日々を全うしましょう。  アーメン!

「角に油を満たしてそれを持って行」きましょう。

 

2)6 彼らがきた時、サムエルはエリアブを見て、「自分の前にいるこの人こそ、主が油をそそがれる人だ」と思った。7 しかし主はサムエルに言われた、「顔かたちや身のたけを見てはならない。わたしはすでにその人を捨てた。わたしが見るところは人とは異なる。人は外の顔かたちを見、主は心を見る」。     ⇒ 主は心を見る。                   (6~7節)

この聖句は実に慰めに満ちたものであります。ある方々にとって(?)これは何よりも重要な暗唱聖句であります。「人は外の顔、かたちを見る。しかし、主は心を見る」。神様にとって、美男子であるか、美男子でないか、鼻が高いか、低いか、大きいかなどは二の次三の次。

かつて前任教会の長老さんがいらしゃいましたが、何回か、証しのときに「わたしの結婚の時の聖句です」と語って下さった。奥様はとても美人であったのですけれども。もし、皆さんの中で結婚式にこの聖句を語ってほしい方(?)はわたしにあらかじめ言ってください。

わたしたちは外見だけではなくいつもキリストの花嫁にふさわしく、心を十字架の血潮で洗われ、神様の愛と恵をいただいて、内なる輝きを持ちたいものです。 ハレルヤ

 

3)12 そこで人をやって彼をつれてきた。彼は血色のよい、目のきれいな、姿の美しい人であった。主は言われた、「立ってこれに油をそそげ。これがその人である」。13 サムエルは油の角をとって、その兄弟たちの中で、彼に油をそそいだ。この日からのち、主の霊は、はげしくダビデの上に臨んだ。そしてサムエルは立ってラマへ行った。          (12~13節)

⇒ この日から後、主の霊がダビデを貫いた!

さて、このようにしてサムエルによって油注がれたダビデはまったくその霊性において、変化(メタモルフォーセー)を経験しました。聖書は「この日から後、主の霊はダビデの上に激しく臨んだ」と語っています。この「臨んだ」という言葉はもともと、「zalach(ツァーラーフ)」という言葉で、もともとの意味は「つらぬく」です。神の霊がダビデの心を貫いたのでした。この出来事が、彼の人生を全く変えたのでした。あの、何の変哲のない一介の羊飼いの少年ダビデが神の民のリーダーとなり、巨人ゴリアテを倒し、サウル王からの迫害、殺意の危険から逃れ、しかもそのサウルを憎まず、恨まず、幾多の危険から守られて、ついに、王となり、外敵からの勝利と、国内の繁栄とを勝ち取り、当時の大帝国エジプトに匹敵するような国を造り得たのはまさに「この日から後、主の霊が、ダビデの魂を貫いた」との聖句にその秘密があることをわたしたちは見ることになります。

わたしは今回の説教を、数週間前の半徹夜祈祷会で示されておりました。

聖霊のつらぬきを二つ語って説教を閉じたいと思います。

①主の十字架の贖いという電流!

ここは不思議な個所ですね。主が見られた心とはどのような心だったのでしょう。アウグスチヌス、パウロ、ルター、ウェスレー、内村鑑三、井深梶之助等。それは真実な心。一徹な心。忠誠心の様な心でしょうか。罪深いこの僕のために、主御自身が、十字架にかかって身代わりになり給うた!これは、雷に打たれるような体験でした。「キリストの血に買われし鉄三郎!」と笹尾先生はご自分の墓碑にお書きになされたということです。キリスト教信仰は、主イエスの十字架の贖いがわたしのためであると魂の深みまで撤して、この主に忠誠を尽くす信仰です。

②聖霊の潔めの恵みという電流!

弟子たちの出発、教会の誕生の日に語られた言葉はこれです。「聖霊が降るとき、あなたがたは力を受け、エルサレムユダヤとサマリヤの全土、及び、地のはてまでわが証人となる」(使徒1:8)とのこの約束が与えられたのでありました。先日、1月26日に、召された植竹利侑先生のような体験。ジョン・ウェスレーのアルダスゲートの体験。美歌子先生の1月27日の説教の中で、不思議にも植竹青年の体験が語られました。1月26日(土)の日に植竹先生は天に召されました。わたしには、植竹先生の遺言のように思えてなりません。

私どもの生涯も、この日、主イエスとの出会い、また、救われたクリスチャン同志の聖なる交わりのなかで勝利の生涯を全ういたしましょう。

 【祈り】 恵みの主よ。今日はダビデの油注ぎの箇所を読みました。ダビデがサムエルに出会って新しい人となったように、わたしどもも、主イエスと出会って、新しい人として作りかえられますように。いつもわれらの魂が、聖なる生命の霊を満たされて歩み、外側の形ではなくて内側を潔めていただき、主にある奇蹟的な生涯へと導いてください。特に、わたしたちの魂を、十字架の血潮の贖いで刺し貫いてください。また、植竹利侑先生の証しのように、ウェスレーのアルダスゲートの体験のように、ペンテコステの弟子たちのように、聖霊で、わたしたちの心を貫いてください。この礼拝から勝利の一週間を始めさせてください。主イエスの御名によってお祈りいたします。アーメン