聖霊に満たされて

2019年1月27日 2019年降誕節第5主日礼拝
聖書箇所:使徒行伝2:1~4
説教:深谷美歌子牧師

 先週は歌舞伎町のカラオケルームで、どなたか撃たれて、ニュースが現場から報道されました。映像を見ながら、あそこかな?と見当をつけていました。 もしもその現場に居た人でしたら、もっとその時の様子を知っていて、興奮して伝えることができると思います。今日の聖書箇所は、教会が誕生したとき経験したできごとを、目撃した人々が残した記事です。ニュースを記して、いつまでも記憶にとどめ、立ち返る原点としてくれました。

 ですが、ここで、使徒行伝という、この書のネーミングと、真の伝えよとしているメッセージについて、考えておきましょう。

前回の使徒行伝からのメッセージは11月でした。その時は、イエス様の弟子であったユダが、主の証人となるべきでしたが、全うできなかったため、最初から行動を共にしたマッテヤとバルサバの二人から、くじでマッテヤを使徒として選出しました。この書は、生き証人として12弟子を特に尊重しています。ですから、使徒行伝とネーミングされたと思われます。

ですが実際は、12使徒たちの行動はあまり記されず、ペテロ、パウロ、執事のステパノ、ピリポ、バルナバ、その後の弟子達のことが多く記されています。それで、主に何を伝えようとしているかというと、聖霊なる神様が、どのように教会に働かれたかの記録です。よく使徒行伝のことを「聖霊行伝」と言い換える方がありますが、内容を言う時の表現です。 そして、今日の箇所が、この聖霊に満たされた教会の始まりの記事を生き生きと伝えています。

【聖書の概観】

1-2節 一同が家に集まっていると、激しい風が吹く音が響いた。

3節 舌のようなものが炎のように分かれて、一人一人にとどまった。

4節 聖霊に満たされ、他国の言葉で語り出した。 

【メッセージのポイント】

1)聖霊を一緒に求めよ。   

突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。(1、2節)                   「激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ」(2節)             とあります。これを創世記の天地創造の時、霊が水の面を覆っていた時のように、新創造の命が注がれた出来事といわれます。 今日の聖書のできごとは、そのイエス様の命の力が弟子たちにも注がれた出来事です。一緒に待ち望んでいた人々に、聖霊が臨みました。                               「炎のような舌が分かれ分かれにあらわれ(3節a)              聖霊が臨まれた時、「炎」のような舌が現れました。象徴的な言葉ですね。弟子達はこの日、炎が通過する体験をしました。これはいわば、古い自我が聖霊の熱で溶けてしまうという体験でした。クリスチャンはイエス様の十字架の罪の赦しを受けると共に、聖霊の火を受けるとき力を受けます。

2)火が通った者とされよ!                           

恐れに捕われていた弟子たちが力を得て立ち上がりました。           先週の聖書研究祈り会では、マタイによる福音書から、イエス様の誕生記事を学びました。確かに、主は預言されていたように、アブラハム、ダビデの正当な系図のもとにお生まれになりましたが、人の血のつながりではなく、「聖霊によって生まれた、新しい命の誕生」のできごとでした、と学びました。               それは120名の弟子達が心を一つにし、10日にわたる「聖霊待望の祈り会」をしていて起こりました。10日目に「聖霊なる神」が弟子達に臨み、弟子達は変えられました。「突然」とありますが、「日数が満ちて」と訳している先生がいます。神様の御言葉を握って祈り待ち望んでも、すぐ聞かれることばかりではありません。しかし信じて待ち望む時、ある日、その日を経験します。この時もそれが起こりました。   

五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、

 

広島の植竹利侑(としゆき)牧師が赤羽聖会で語られた証しを深谷牧師がまとめましたので紹介いたします。

植竹先生は16才で聖書を読み、主イエス様の十字架は、わたしの罪の身代わりだったと知り、信じて新しい人生が開かれる体験をしました。「新生」の経験でした。そして、19才で献身して神学生となりました。

しかし、自分の内に妬みを経験し、自分の内側に醜い罪があるのに気が付きました。それは礼拝の席上で起こったそうです。説教の中で主任牧師が、ある神学生のことを誉めたのでした。「高橋神学生はドストエフスキーの文学書や難しい神学書をよく読むし、奉仕の姿勢も素晴らしい・・云々…」と。それを聞いていた植竹師は、ねたみの思いに捕われました。「彼よりわたしの方がもっと文学書や神学書を読んでいるし、奉仕にしても、高橋神学生は牧師の前だけうまく立ち回って、うわべだけの奉仕をしている。わたしのほうが心からの献身生活をしている。誉めるならわたしの方が誉められるべきだ!」。彼は、自分の内側からねたみの黒雲がもくもくと起って来るのを感じたそうです。真実な植竹先生は、罪赦されてクリスチャンになった自分の内側に、このような罪の性質が残っているのに驚き、羞じました。そして、自分の内側を再び観察すると、なんと、救われる前と同じ、憎しみや妬みの感情が感じられたのです。彼は内心のきよめを求めて、深い祈りに日々を費やすようになりました。過激な断食や夜遅くまでの祈りをしたそうです。戦後の食糧事情もあって彼はやがて体調を崩し、結核初期の肺浸潤になりました。神学校の寮にいられなくなり、故郷の深谷市に帰ることとなりました。帰郷のその日、舎監の吉野勝栄師に按手して祈って頂いた時、『今よりのち汝の内にありて我は主なり!』の御言葉によって頭のてっぺんから足の先まで電流が通るような体験をされたそうです。その恵みはジワーッとやってきて、電車で上野から尾久、赤羽を通過する頃、聖霊なる神の圧倒的な臨在と恩寵の波が押し寄せて、電車の中で、涙が流れて止まらなくなった。前にいた小さな子供が不思議に思って「お兄ちゃんどうしたの?」と聞くほどだったそうです。「大丈夫だよ、お兄ちゃんはうれしくて、うれしくて泣いてるんだから・・」と言って、電車のデッキに出て、汚れた学生服の袖で、流れ来る涙を拭いながら「う、う、う、……・・」と泣き続けたというのです。この神の電流のような聖霊のバプテスマを通過して以来、植竹師は「自我に死ぬ」という深い霊的な体験を与えられ、それ以後、妬みも、憎しみも、イライラも、不機嫌さえも、彼の生涯から消えてしまった」と証しされました。

3)一人一人の上にとどまった。

 また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。3節b

ひとりひとりの上にとどまった。これは、一人に一つと訳せる言葉だそうです。聖霊の賜物は、それぞれに与えられます。コリント12:4‐11に「ひとり、ひとりの賜物は違うけれど、全体の益になるためである。」と言われています。教会はイエス様の名によって救われた者の集まっているところです。

「神の国は『見よ、ここにある』『あそこにある』とも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ。」(ルカ⒘:2) とイエス様が言われたように、イエス様の命につながったお互いが愛し合い、赦しあって神の国が生まれます。

教会は同じ趣味で結ばれるとか、自分の気に入ったグループの仲間とは違います。それまで全く違う世界の人であったものが、イエス様の命を頂いて結び合わされたものです。

王として来られたイエス様でしたが、地上の国ではなく、神の国こそが、もたらそうとした国でした。そのことは、すでに1章で見てきました。聖霊による一致、信頼と愛で結ばれた関係に生きるところが神の国です。

今、神の国は教会です。同じ人は誰もいませんが、大事な神様からの賜物を頂いた場所があります。喜んで生きましょう!

4)聖霊に満たされ続けよう!

すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。(4節)

わたしたちも聖霊に満たされることを求めましょう。主の十字架の血潮で洗われ、雪よりも白くされ、その中にいつも輝く命、聖霊なる神様を宿したく願います。

ところで、植竹先生のようにそれ以来、全く「自我に死ぬ」ということはないのが普通のクリスチャンです。わたしも、高校生の時、「全て重荷を負って苦労している者はわたしのもとに来なさい、休ませてあげよう」の御言葉を頂いて、「ご覧のような貧しい者ですが、どこもあなたに明け渡します。」と祈り委ねました。光に覆われる経験をしました。しばらく喜びで満ちた日々でしたが、「私は他の人より素晴らしい高嶺を歩いている」と心にサタンのつぶやきと知らずに思った時から、恵みの状態から落っこちました。どうしたら、あの恵みに生きられるのか、分からなくなってしまいました。それでも伝道が使命なのは分かっていました。献身して、聖書学校に学ぶようになって、恵みに生き続ける秘訣を学びました。それは、「日々聖霊に満たされ続けるということ」でした。今も新宿西教会に来て、毎日、早天祈祷会があるのが、喜びです。み言葉を「アパルーム」を通していただき、それぞれが示されたことを分かち合い、その後、家族や、示されることを祈ってゆきます。心の王座は聖霊様に明け渡して、「どうぞ今日もその場その場で導きと、助けをお与えください」と祈ります。

守部さんがよく、「聖霊様は偉大なカウンセラーだ」と言われます。確かに、人間のカウンセラーも、慰めを与えてくれるかと思いますが、聖霊様は誰より良くわたしたちを知り、愛をもって導いてくださる方です。日々満たしてください。と求めて、必用な言葉も与えられて安心して歩んでまいりましょう。   ハレルヤ!

祈り

父なる神様、弟子たちは、恐れていましたが、約束の聖霊様を受けるまで、祈りました。忍耐して祈って待つ者としてください。そして聖霊の賜物はそれぞれですが、主の身体として、愛し合い赦しあって神の国を生きさせてください。日々、聖霊に満たして、導きと助けをお与えください。主の聖名によって祈ります。アーメン