あっけにとられた。

2019年2月24日 2019年降誕節第9主日礼拝
聖書箇所:使徒行伝2:5~13
説教:深谷美歌子牧師

最近のニュースで、水泳の池江璃花子選手が「神様は耐えられない試練に会わせない」と発言したことで、今まで神様という方が一人一人の人間の生活に具体的に関わられる、などと考えてもみなかった人、神様はおられたらいいなと漠然と思っている人、また、神様なんていないよ、と心に思っている人。いろんな反応が飛び交っているようです。一石投じられりと、その波紋は多くの方々に及んでゆくと思わされました。先週、聖書研究祈祷会で、マタイによる福音書から、「ヨハネのバプテスマとメシヤのバプテスマ」の違いについて学びました。ヨハネのバプテスマは根本的に人を造りかえることはできませんでした。彼は救い主を迎える心を備えるために来た器でした。しかし、メシヤ(救い主)は、聖霊と火でバプテスマを授け、新しい命を与える方でした。今日の箇所はその聖霊と火のバプテスマが起った時のできごとです。 この日の出来事は、信仰者が経験したというけれど、信仰しようとしていない人には何も感じなかった、言わば、妄想の世界のことではなかったことがよく表現されています。

【聖書の概観】

5-6節 他の人々にも、集まってくるほどの音が聞こえ、故郷の言葉で話すのを聞いて、あっけにとられた。

7-11節 故郷の言葉で、神の大きな働きを聞いて、集まった人々は驚き怪しんだ。

12-13節 驚きながらも、あざ笑い、勝手な解釈をする人々がいた。

 【メッセージのポイント】

1)あっけにとられた。 

5 さて、エルサレムには、天下のあらゆる国々から、信仰深いユダヤ人たちがきて住んでいたが、6 この物音に大ぜいの人が集まってきて、彼らの生れ故郷の国語で、使徒たちが話しているのを、だれもかれも聞いてあっけに取られた。(5、6節) 「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ」(使徒2:2)弟子たちの熱い10日間の祈りに応えて、聖霊が注がれました。これを創世記の創造の時、霊が水の面を覆っていた時のように、新創造の命が注がれた出来事ともいわれます。弟子達は全く変えられました。「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ」聖霊が注がれました。これを創世記の創造の時、霊が水の面を覆っていた時のように、新創造の命が注がれた出来事といわれます。 弟子達は全く変えられました。  「誰が裏切ってもわたしはあなたについて行きます」と心から言ったペテロでした。しかし、イエス様が裁判にかけられ、十字架に附けられた時、恐れに捕われて、「わたしとは全く関係ない!」と激しく誓うほどに、イエス様を裏切ったペテロでした。この聖霊が注がれる直前まで、二階座敷を閉めきって祈っていた彼等でした。聖霊が注がれた時、いろいろの他国の言葉で語り出したのでした。それは、人々が「あっけにとられた」ほどの衝撃的出来事でした。                          最初に申し上げましたが、池江璃花子さんの言葉は、人々のそれまでの生き方が表面に出てくるような発言でした。「あっけにとられる」ほどのことがないと、人間は自分の生き方に何の疑いも持たず生きている者です。真の命を持っていないのに、自分はちゃんと目的をもって立派に生きていると思って生きているのではないでしょうか?その生き方に「聞いてください!」と語り掛け「あっ」と驚き立ち止まらせるほどの衝撃的できごとでした。

2)わたしたちの国語で神の大きな働きを述べている! 

7 そして驚き怪しんで言った、「見よ、いま話しているこの人たちは、皆ガリラヤ人ではないか。8 それだのに、わたしたちがそれぞれ、生れ故郷の国語を彼らから聞かされるとは、いったい、どうしたことか。9 わたしたちの中には、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人もおれば、メソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、10 フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者もいるし、またローマ人で旅にきている者、11 ユダヤ人と改宗者、クレテ人とアラビヤ人もいるのだが、あの人々がわたしたちの国語で、神の大きな働きを述べるのを聞くとは、どうしたことか」。    (7~11節)                 弟子達はこの日、神が歴史に介入してくださったこと、イエス様の十字架の意味が、はっきりとわかりました。自分の罪が良く理解でき、神の贖いの愛による、神の大きな働きがよくわかりました。しかもそのことを「いろいろの他国の言葉で」語り出せたのでした。                                「見よ、いま話しているこの人たちは、皆ガリラヤ人ではないか。」という言葉には、少し蔑視があるのではないでしょうか?ペテロが「あなたも彼等の仲間だ、言葉づかいであなたのことがわかる。」と言われて激しく否定したように、ガリラヤは田舎で、外国語を習得するような環境ではなかったでしょう。ここにあげられている国の名前は、エジプトから、ローマにいたる、当時の全世界の国名です。       英語は今や世界共通語となっている感がありますが、当時は、ギリシャ語とか、アラム語などが、それにあたっていたようです。ところが、そういう共通語だけではなく、それぞれの国語で語っていたのでした。確かにそれだけでも「驚き怪しむ」できごとに違いありません。それで、なつかしい国の言葉で語っている弟子たちが、何を語っているかわれを忘れて聞いたに違いありません。すると、「神の大きな働き」を語っていたのでした。今は言葉の奇跡はあまり起こりません。でも、わたしたちは自分が神様に触れられると、そこで福音を語り始めます。姉も牧師をしていますが、大学生の時、自分がどんなに愛が無い者であるか、その自分を神様がどんなに愛してくださっているか、聖霊に触れられた経験と思いますが、霊の目が開かれた時、「この福音を伝える者になる」と立ち上がりました。たくさん証しの本が出ていますが、それらは、神様に出会い、赦され、愛された皆様が、その経験を語り始めた内容です。私達も置かれたところで、語り始めましょう。それは、言葉ばかりではないかもしれません。先週のアパルームでは、ボランティアで、薬の保管場所を協力して作ったということがありました。「小さなものにしたことはわたしにしたことなのである。」マタイ25:40。ボデイーランゲージですね。神様の命に導かれて、神の業を現わし伝える者とされますように。

3)しかし、ほかの人たちはあざ笑って!                    12 みんなの者は驚き惑って、互に言い合った、「これは、いったい、どういうわけなのだろう」。13 しかし、ほかの人たちはあざ笑って、「あの人たちは新しい酒で酔っているのだ」と言った。(12,13節)               「あっけにとられる」「驚き惑って」というほどの衝撃的な出来事が起こっても、「あざ笑う」人がいたことも書かれています。「新しい酒で酔っているのだ」と、そこで起こっていることを、どこまでも心を開いて見ようとしない人々です。ヨハネ3:19に光が世に来たのに、人々はその行いが悪いために、光よりも闇の方を愛したことである。とありますが、自分の哲学を頑として変えようとしない人々がいました。 ヨハネのバプテスマをパリサイ派やサドカイ派の人々も受けに来ましたが、ヨハネは心を見抜いて「自分たちの父にはアブラハムがあるなどと思ってもみるな」と痛烈な批判をしています。

「神の偉大な業」を拒む人々がいます。 このところをある方が、酒は、酔うと、肉の自分が現れる。しかし、聖霊に満たされると、神の聖なる業が現れる。と解説している方がありました。なるほど、と思いました。何に心を開くかは、私達に委ねられた自由です。聖霊様は、細き御声の時もあります。聞き取って「そこにおらせてください」と祈りましょう。「我ならぬ我の現れ来て、見ずや天地ぞ改まれる。」この経験をさせていただき、キリストの命を生き続けられますように。

少し前、祈祷会に西田さんが参加して、小さな祈祷会を続けているグループで「赦すんじゃないの」と語った、とのことでした。真の平和がそこから生まれると思います。わたしにも聖霊様が触れてくださったと思いました。

先週の日曜日、教会で催された演劇「続・氷点」を見て、台本を作られた故・西田正さんが、以前の「続・氷点」に加えて、大事なことを生きて語ってくれたと思いました。主人公の陽子が、今回の演劇では、赦せなかった実の母を赦せたにとどまらず、「お母さんごめんなさい」と絶叫して終わりました。赦さなかったことを謝ったのでした。ただおひとり、裁くことのできるイエス様が、「わたしもあなたを罰しない。帰りなさい。これからは罪を犯さないように。」と陽子を赦してくださったことが分ったとき、自分の義を棄てて、実の母に謝ったのでした。しかし、彼らを裁くことはできません。わたしたちも同じかたくなさを持っている者です。イエス様もご自分を十字架に附けている人々を「父よ、彼らをおゆるしください。彼等は何をしているのか、わからずにいるのです」ルカ23:34ととりなしてくださいました。私達もとりなしてまいりましょう。 少し前、祈祷会に西田さんが参加して、小さな祈祷会を続けているグループで「赦すんじゃないの」と語った、とのことでした。真の平和がそこから生まれると思います。わたしにも聖霊様が触れてくださったと思いました。

深谷牧師が以前「悪者の多い家庭は平和で、正しい人の多い家庭は平和がない」と語ったことがあります。「わたしが悪かったです。いや僕が悪かった。」というところは平和です。これは国と国でも言えることでしょう。自国を正しいとして譲らないと、険悪になります。まずは、国を導く首脳がこのイエス様の赦しの福音に触れられ、神の業を語る者とされますようにと祈りましょう。

祈り 神様、2000年前に第三者が確かに聞いた、聖霊の降臨の日の出来事を教えられました。「あっけにとられる」ほどの確かな現象で、全ての人が、「神の偉大な業」を聞くことができました。この後の記事で、その日仲間に加わった人々が三千人もあったことが分っています。しかし、そんなにわかる言葉で語られていたにもかかわらず、自分の判断で、「神の偉大な業」に与かれなかった人々もいたことも知りました。今もそうです。どうぞわたしたちが彼らに分る言葉で、伝えさせてください。世界のためにもとりなしの祈りを用いてください。主イエスの御名によって祈ります。アーメン