神の摂理を見上げて

2019年3月3日 2019年降誕節第10主日礼拝
聖書箇所:詩篇139篇
説教:深谷春男牧師

京都復興教会の担任教師の市原順先生のお葬儀の時のプログラムに、先生の愛誦句で、詩篇139篇とイザヤ書53章が読まれました。わたしは深く感動して新幹線の中で主をあがめたことを思い出します。聖書の信仰は神の創造と摂理に深く信頼することです。そしてまた、人間の罪と死の問題を贖い取る救い主、主イエスをしっかりと見上げて歩むことであります。今朝は特に、神の歴史支配に信頼し、摂理の御業に思いを向けつつ、この聖書の中の最高傑作、詩篇139篇を共に読んでまいりましょう。【本詩の概略と内容区分】 詩篇139篇は「知恵の詩」に分類されます。神の創造と摂理の不思議を歌い上げた、恵みあふれる詩です。フランシスコ会注解では、「旧約聖書の中で最も優雅な詩篇」と呼んでいます。またこの詩は「詩篇の冠」とも評すべきもので、旧約聖書中で最も優れた詩の一つであると絶賛しています。また、榊原康雄は、新聖書注解で、「本編は詩篇が前提し、歌い上げる神と人との人格的関係と親密感とを、最も美しく歌い上げた傑作である」と語っています。全体の内容を見てみると次のように区分できます。

1ー 6節  全知なる神   すべてを知りたもう神

7ー12節  遍在なる神   どこにでもおられる神

13ー18節  全能なる神   神の創造と守りの素晴らしさ

19ー24節  神への祈り   悪への憎しみ 悪しき道から永遠の道へ 

ある方がこの詩篇139篇は、ユダヤの哲学者、マルチン・ブーバーの「我と汝」に象徴される、人格的な神との交わりを示唆していると語っています。

【メッセージのポイント】

1)、1 主よ、あなたはわたしを探り、

わたしを知りつくされました。

2 あなたはわがすわるをも、立つをも知り、

遠くからわが思いをわきまえられます。

3 あなたはわが歩むをも、伏すをも探り出し、

わがもろもろの道をことごとく知っておられます。

4 わたしの舌に一言もないのに、

主よ、あなたはことごとくそれを知られます。(1―4節)。

  ⇒ 主なる神は全知の御方である!

ここで詩人は、「すわる」「立つ」「歩く」「伏す」という表現で、人間のするあらゆる行動をさし示しています。1-4節では「神の全知」が強調されます。わたしどもは、自分のすべてを知っておられる方がいたら、行動しにくいのではないでしょうか。しかし、神様は愛のゆえにわたしたちに関心を持ってくださいます。それは例えて言えば「母の愛」のような愛ゆえの関心です。

本郷中央教会の牧師であり、教団の総会議長をつとめられた武藤健先生の説教集に「知られたる我」というのがあります。自分の人生を信仰の目をもって振り返れば、全ては神様の奇跡的な恵みです。神様から見れば、わたしたちの体験、できれば人の目から隠しておきたいような自分の姿、(「ああ、われは何というみじめな人間なのだろう。誰がこの死のからだから、わたしを救ってくれるのだろう!」というパウロの告白と同じ自分の絶望的な姿・・・・)その、すべてを知っておられる神様が、わたしたちを愛し、祝福の御手を置いていてくださる。神様、わたしよりもわたしのすべてを知りながらも、包んでくださる天の父よ!かたじけない限りです。

2)、7 わたしはどこへ行って、

なたのみたまを離れましょうか。

わたしはどこへ行って、

あなたのみ前をのがれましょうか。

8 わたしが天にのぼっても、あなたはそこにおられます。

わたしが陰府に床を設けても、あなたはそこにおられます。

9 わたしがあけぼのの翼をかって海のはてに住んでも、

10 あなたのみ手はその所でわたしを導き、

あなたの右のみ手はわたしをささえられます。

11 「やみはわたしをおおい、

わたしを囲む光は夜となれ」とわたしが言っても、

12 あなたには、やみも暗くはなく、夜も昼のように輝きます。

あなたには、やみも光も異なることはありません。(7―12節)      

⇒ 主なる神は遍在される御方である!

神の摂理のみ手は不思議で、わたしが逃げていったところでも神が招いておれる事となります。たとえ、わたしたちの意志が神様に反抗しても、最後は神のみ手の中にあることとなります。これは不思議な神の歴史支配、主の御恩寵によるところの摂理の信仰です。

ここでは詩人は、「どこに行けば神様から逃れることができるのだろうか?」と問うています。彼は5つの世界を語っています。 「①天ですか? 天国はまさに神様のおられるところです。②陰府ですか?陰府の世界に身を横たえようともあなたはそこにおられます。③東の果てですか?太陽のような、曙の翼を駆って東の果てにまで行っても、④地中海の果て。スペインのような世界。何とあなたのみ手はそこでわたしを招いておられるではありませんか。⑤ああ、それでは暗闇はどうだろう?真っ暗闇の只中にいれば神から逃れることはできるのだろうか?でも、考えてみれば、人間の暗闇もあなたには通用しない。暗闇でもよく見える赤外線のめがねのように、わたしの姿は丸見えです。考えてみれば、永遠の光におられる神様にとって、夜も昼のように輝き、闇も光も変わることがありません。」と結論を出しています。

新幹線の中では進む方向に座っても、眠っていても、目的地に着きます。

旧約の傑作、「ヨセフ物語」はこの摂理の深みを教えてくださいます。ヨセフを憎んだお兄さんたちは、ヨセフをエジプトの奴隷に売ったのに、主はヨセフと共にいて彼の生涯を祝福し、総理大臣として立てて、飢饉で民族絶滅の危機に瀕するイスラエルの民を救うことになりました。「あなた方は悪をたくらんだが、神はこれを善に変えた」(創世50:20)とヨセフは兄たちに語ります。

旧約聖書の「ヨナの物語」も同じような主題を持っています。主への反抗を示すヨナは、陰府の腹なる「大魚に呑まれ」、神様のご計画に降参して、結局はみ旨に従います。大いなるリバイバルの御業がニネベの町に起こるのです。

11ー12節でも語ります。闇に隠れても、神の目から隠れることはできない。神には闇も暗くはなく、夜も昼のように輝く。神にとって闇も光も異なることはない。長谷川保著の自叙伝「夜も昼のように輝く」にも同じ信仰が告白されています。長谷川先生は、身の置き場のない結核患者と共に寝起きして共に歩み、聖隷事業団を作られました。「神、共にいませば、まっ暗闇の試練の中でも、恵みの光を得る」と証ししておられます。

3)、14 わたしはあなたをほめたたえます。

あなたは恐るべく、くすしき方だからです。

あなたのみわざはくすしく、

あなたは最もよくわたしを知っておられます。

15 わたしが隠れた所で造られ、地の深い所でつづり合わされたとき、

わたしの骨はあなたに隠れることがなかった。

16 あなたの目は、まだできあがらないわたしのからだを見られた。

わたしのためにつくられたわがよわいの日のまだ一日もなかったとき、

その日はことごとくあなたの書にしるされた。

17 神よ、あなたのもろもろのみ思いは、なんとわたしに尊いことでしょう。

その全体はなんと広大なことでしょう。

18 わたしがこれを数えようとすれば、その数は砂よりも多い。

わたしが目ざめるとき、わたしはなおあなたと共にいます。(14-18節)

⇒ 主なる神は恐るべき、全能の御方である!

14節からは神の全能の力が語られます。神様は「恐るべく、くすしきお方」です。詩人はここで自分の命のことを語ります。神様の全能の力、神秘の力の中でいのちを受け、お母さんの胎内で織り成されます。そして、わたしどもの人生は神の恵みの書物の中に、豊かに計画なされたと言うのです。神様の「御計らい(=ご計画)」は、何と貴いことでしょうと詩人は改めて驚いています。そして18節の言葉は、直訳では「わたしが目覚めるとき、なお、わたしはあなたと共に(います)」です。昔からここにはわたしどもの人生の全てが歌われていると言われてきました。

生命の授与 ⇒ 母親の胎内での成長 ⇒ 地上での恵みの人生 ⇒ そして永遠の命への目覚め、復活(18節)の時を示す

と言うのです。文語訳や口語訳では18節に「わたしが目覚める時」と訳します。神の恐るべき、くすしき力、神の全能性は「人間の創造」に現れています。人間の心臓はこぶし大の圧力ポンプですが、毎日、10万Kmの血管に輸送し続けています。  1日で、8トン(ドラム缶40本分)の血液を送っているといわれます。1日10万回もの鼓動を繰り返しています。

肺は、その壁を広げると、表面積はテニスコートの広さになると言われます。

一人の人間の血管を毛細血管まですべてつなぐと地球を一回りすると言われます。また、最近の遺伝子の研究によると、人間の60兆の細胞からDNAの紐をつないで伸ばしてゆくと、一人の人間分で、太陽系の半径、つまり太陽から冥王星の距離になると言われます。実に、人間は小宇宙といわれますが、この体の中に宇宙の広がりを持っているのです。

 

4)21 主よ、わたしはあなたを憎む者を憎み、

あなたに逆らって起り立つ者を

いとうではありませんか。

22 わたしは全く彼らを憎み、彼らをわたしの敵と思います。

23 神よ、どうか、わたしを探って、わが心を知り、

わたしを試みて、わがもろもろの思いを知ってください。

24 わたしに悪しき道のあるかないかを見て、

わたしをとこしえの道に導いてください。(21-24節)

⇒ 悪しき道から祝福の道へ      

この詩は、激しい罪への憎しみをもって締めくくりとします。わたしどもの生涯は、「神に近づくほど、罪から遠ざかり、また、罪と汚れは、わたしたちを聖書、祈り、教会から遠ざける」と言われています。特に、24節の「御覧ください/わたしの内に迷いの道があるかどうかを。どうか、わたしを/とこしえの道に導いてください」と言う祈りはわたしどもの心すべき祈りです。「迷いの道」は「デレク・オーツェーブ」ということばで、もともとの言葉の意味は「痛みの道」です。「偶像の道」とも訳されています。罪を憎み、神の恵みを慕って歩んでゆきましょう! 

【 祈り 】 ハレルヤ!今日はこの詩篇139篇を学ぶことができて感謝します。この詩に示されたように、あなたこそ、全知、遍在、全能なる、創造と摂理(=歴史支配の力)をもたれるお方です。主よ、あなたに絶対的な信頼をもって歩ませてください。あなたにある生涯は、夜も暗闇も、昼のように光のように輝く人生です。主にあってどのような困難をも乗り越えて、天空を翔る鷲のような勝利の生涯を、歩ませてください。わたしどもは人間の敵は憎みませんが、サタンと罪そのものは憎みます。偶像礼拝、殺人、姦淫、嘘、それらは神の恵みの世界を破壊し、呪いの世界を作ってしまうからです。わたしどもに愛と平和を満たし、祝福の道へと導いてください。日々、あなたの摂理を見上げ続ける者としてください。主の御名によって祈ります。アーメン。