若者は幻を見、老人は夢を見る

2019年3月17日 受難節第二主日礼拝
聖書箇所:使徒行伝2:14~24
説教:深谷美歌子牧師

 14日の婦人会兼聖書研究祈り会で、「神様に顔はあるのか」ということが話題になりました。詩編24編が取り次がれ、「これこそ主を慕う者のやから、ヤコブの神の、み顔を求める者のやからである。」(6節)と、礼拝する者は、み顔を求めるのだと語られました。集った皆さんが、「私達(人間の?)のような顔をしているのでは?今までは何気に礼拝していましたが、これからは礼拝に神様の顔を求めるよう、心して臨みたい」といった感想が語られました。「神様は顔がありますよ。」とは深谷師の言葉。本日の礼拝で神様の顔が拝されますように。ところで、使徒行伝は誰に向かって書かれたと思いますか?ノンクリスチャンに向かってでしょうか?信仰者にむかってでしょうか?今回学んでいて、「信仰者に向かってです。」と教えられて、改めて認識しました。勿論、出来事を忠実に記している記録と思いますが、それを記すことによって、信仰者が神の現実に心励まされ、疑い、恐れに捕われることから、守られるようにと記されたのでした。それで、現代の信仰者の私達も、この書から導かれて、神様に出合い、確信をもって語る者とされますように。

【聖書の概観】

14‐18節 ペテロと11人が出来事の説明をする。ヨエルの預言の成就である。   19-21節  ヨエルの預言の続き、その時に起こるしるしと、救われる条件。    22-24節 この救いの根拠としてのイエス様の説明。 

【メッセージのポイント】                          1)今は、ヨエルが預言していた、預言の成就の時! 

14 そこで、ペテロが十一人の者と共に立ちあがり、声をあげて人々に語りかけた。「ユダヤの人たち、ならびにエルサレムに住むすべてのかたがた、どうか、この事を知っていただきたい。わたしの言うことに耳を傾けていただきたい。15 今は朝の九時であるから、この人たちは、あなたがたが思っているように、酒に酔っているのではない。16 そうではなく、これは預言者ヨエルが預言していたことに外ならないのである。すなわちわたしの霊をすべての人に注ごう。若者たちは幻を見、18 その時には、わたしの男女の僕たちにもそして彼らも預言をするであろう。(14~18節)

前回、聖霊が注がれた時、全く関係なく過ごしていた人々にも、認識せざるを得ないほどの「あっけにとられる」出来事が起ったことを見ました。それは、大きな音の事実もありましたが、集まってきた人々が特に「あっけにとられた」のは、弟子達の全く変えられた姿でした。それは、他国の言葉で主の偉大な業を大胆に語っていたことでした。 まず、ここで起こった出来事を、「酒に酔っている」とあざける人々に、そうではないということを、説明します。その理由は、「今は朝の九時であるから酒に酔っているのではない」です。当時、信心深いユダヤ人は日に三度の祈りをしていました。朝の九時までは食事をしなかったそうです。ましてお酒は夕食時でなければ飲まなかったので、あり得ないというわけです。預言というのは、神の言葉を語ることです。でも皆が牧師になるということではありません。前回も、神に出合うと、(聖霊に満たされると)語り始めます、とお伝えしました。今や、若者から老人に至るまで、また身分も、奴隷も職業も、関係なく神の霊が受けられ、生き生きと生きる者となり、その命を語り始めるといわれていたことがおこったのですよー。というわけです。旧約の聖徒たちが待ち望んでいた、神の救いの到来の時が来た!今や救いの時が来た!とペテロたちは大胆に語ったのです。

2)若者は幻を見、老人たちは夢を見る時の到来!

 旧約時代には聖霊が注がれる人は、預言者とか王様と特定の人でした。ソウルが王様に選ばれた時も(サム上1:9,10)神の霊が激しく下ったとありますが、その神の霊が終わりの時には全ての人に注がれる、と言われていたことが今起こって、私達が語り始めているのです 19 また、上では、天に奇跡を見せ、すなわち、血と火と立ちこめる煙とを、20 主の大いなる輝かしい日が来る前に、月は血に変るであろう。みな救われるであろう』。」(17~21節)

19-20節については、いろいろに解釈されています。               血は十字架の血、火は聖霊の火、立ち込める煙は証し、と聞かされてきました。また、今臨んだ、聖霊降臨によって起った出来事こそ、神の与え給うたしるしである。主の大いなる輝かしい日は、マタイ24章以下の主の再臨の終わりの日の出来事で、これから起こる徴であるという理解です。                     ヨエルが預言した時はイナゴの大群が襲ったことを、これは神様のメッセージですよ、国民の霊的生活の悲しむべき状態を神様が気付かせようとしているのです、悔い改めなさいと激励したことでした。そして、悔い改めたら、終わりの時には神の霊が注がれるようになる祝福を語ったのでした。 そのとき、主の名を呼び求める者は、みな救われるであろう。今こそ、主の名を呼ぶものは救われ、聖霊を受けるその時です。とペテロは語り、主の名を呼ぶとは、イエス様を呼ぶことですよと、イエス様について語り始めます。

3)イエスが死に支配されているはずがない!

22 イスラエルの人たちよ、今わたしの語ることを聞きなさい。あなたがたがよく知っているとおり、ナザレ人イエスは、神が彼をとおして、あなたがたの中で行われた数々の力あるわざと奇跡としるしとにより、神からつかわされた者であることを、あなたがたに示されたかたであった。23 このイエスが渡されたのは神の定めた計画と予知とによるのであるが、あなたがたは彼を不法の人々の手で十字架につけて殺した。24 神はこのイエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせたのである。イエスが死に支配されているはずはなかったからである。    (22~24節)

イエス様のことはあなた方もそこにいたので知っているように、数々の力あるわざと奇跡としるしをおこなって神からの使者であったことを示された方でした。それらは、一、二度あったけれど、ほとんどの人は知らない。というようなことではありませんでしたね。

はっきり言っていることは、主の大いなる輝かしい日があるということ、マタイ25章などによれば、主の前に立つ日が来るということです。そこには、羊と山羊を分けるようにその行いによって判断されるとあります。何気にしていたことが神様にしたことであったり、しなかったことであったりしています。どなたか「私は自信がる」と言う方がありますか?聖書は他のところで、「全ての人は罪を犯した、罪がないと言うなら自分を欺いている」(ヨハネ第一の手紙1:8節)と言っています。だれも、聖く全き愛の神の前に胸を張って立てる人はいません。

ナザレ人イエスは、神が彼をとおして、あなたがたの中で行われた数々の力あるわざと奇跡としるしとにより、神からつかわされた者であることを、あなたがたに示されたかたであった。

東調布教会の牧師の島隆三先生が「この道を歩む」という週報に掲載した、短文集を出しておられます。1997年3月16日の文に「個性」といのがあります。その中で、ヘンドリクス・ベルコフ教授の言葉を引用しています。島先生がまとめてくださった文をそのまま載せますと、「ここで著者が言っていることは、私達の救いに関わる義認と聖化において働かれる聖霊の業とは別に、もう一つ私たちの個性に働かれる聖霊の働きがあり、私たちの個性が聖霊によって占有される時に、それは「神の国全体のために豊かに用いられる」というのである。それは言い換えれば、あなたの個性の主人はあなた自身か聖霊なる神かということでもある。あなたはそのような聖霊の働きを切にもとめたことがあるだろうか。」

聖霊なる神様は、個人個人に、親しく語りかけ、あなたの主となってくださいます。神様の愛と恵みが現れる時が来た!若者が幻を見、老人が夢を見て、罪と死に打ち勝ち給う主が、われらのうちに共におられるとの確信の時がきたのです。

イエス様はあなた方によって十字架にかけられました。しかし、それらは、皆、神の計算済みの上に起こった出来事で、我らが受けるべき裁きをお受けくださったことでした。しかし彼はよみがえりました。罪によって入って来た、死を打ち破ったのです。ここに立っている12人の使徒、私達は、その復活の主に出会った証人ですさあ今こそイエス様の名を呼んで(悔い改めて)救われてください。と語っています。

【祈り】神様、2000年前に第三者が確かに聞いた、聖霊の降臨の日の出来事を教えられました。「あっけにとられる」ほどの確かな現象で、全ての人が、「神の偉大な業」を聞くことができました。その日仲間に加わった人々が三千人もあったことが分っています。どうぞ、「若者は幻を見、老人は夢を見る」というあなたの聖書の御言葉がわたしたちのこころにも明確に示されて、初代教会の弟子たちのように、雄々しく立ちあがることができますように。主イエス様の御名によって祈ります。アーメン