ファミリー礼拝説教「こころ満たされ」

2019年3月31日 受難節第四主日礼拝
聖書箇所:ヨハネ福音書16:33
説教:深谷美歌子牧師

 さて、私達が満たされているときとはどんな時でしょうか?愛し合う家族、経済が安定、健康、人間関係が素晴らしいとき、等々でしょうか?

今年の各国の幸福度順位が発表され、日本は58位でした。面白いことに、中国は2016年は10位だったのに、今年は93位です。国民総生産か世界2位になったとか聞き、確かに中国の皆さんがたくさん日本に旅行にきてくださって、豊になっているのを感じますが、この数字は逆のようです。本当の豊かさ、幸福とはどのようなものでしょう。

本日開かれた聖書の箇所は、13章以下でイエス様が告別説教を語って来た締めくくりの言葉です。「わたしにあって平安をえるためである。」と。変動するこの世界の価値とは異なる、変わらぬ平安、喜びを与える、というのでしょうか?そうでしたら素晴らしいですね。

宇野さんが、「ファミリーサンデ―」の看板をたててくださいました。「こころ満たされ」のタイトルを見て期待して来られる方がありましたら、期待に応えられますように。

本日の箇所の概観。

*これらのことを語ったのは、主の平安を得させるため。

*この世では悩みがある。

*しかしわたしはすでに世に勝っている。

1)主の語られたその目的は、わたしたちに平安を得させるため。

告別説教の最後の言葉と言いましたが、語って来た目的は「平安を得させるため」と語られています。

14章27節では、「わたしは平安をあなたがたに残していく。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなた方は心を騒がせるな、またおじけるな」とか、

15章11節では、「わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、また、あなた方の喜びが満ち溢れるためである。」と語られています。平安と喜びが満ち溢れると、イエス様は十字架に付く前に語られました。世が与えるようなものとは異なる平安って、どうしたら得られるのでしょうか?

14章29節で、 事が起こったときにあなたがたが信じるようになるためである。

と言われています。

これから十字架への道を進んで行くが、それは全ての人の罪の裁きをご自分が受けて、罪の赦しを与え、解放の平安を与えるためでした。

今までのように見えるかたちでは一緒にいなくなるが、聖霊を送り、いつまでも一緒にいるようにしてくださる。それが起ったときに、全てを理解し、喜びが満ち溢れると言われたのでした。

弟子たちはイエス様が、何のことか?と聞きたがっている自分たちの心の中まで見通して語られたのを見て、「このことによって、わたしはあなたが神から来られたかたであると信じます」。と答えました。イエス様は「今信じているのか?これまでも、あなたこそ生ける神の子キリストです。と信仰告白していたはずじゃないか?」という気持ちがこめられているような答えをされました。しかし、この時でも、弟子たちが裏切るように家に帰ってしまうことも見通されていました。それも解っているよ。でもその後、わたしに帰って来て平安を得るようになる。とやさしく語ってくれたのでした。

主の平安は、主を信じる者がいただけます。つまり、イエス様こそ、見えない神様が人となられてこの世界に来られた神で、しかも、人の罪の裁きをご自分が受け、死を打ち破って復活されたことを信じる者です。

2)世では悩みがある、が、わたしはすでに世に勝っている。

平安を得ると言ったすぐ後で、「世では悩みがある」といいます。イエス様は、ご自分の罪の責めだけはありませんでしたが、人の悲しみ、悩み苦しみを最高に経験されました。貧しい大工の生活、パリサイ人やサドカイ人の敵意、群集の心変わり、弟子でさえ理解せず裏切りました。今見ましたように、真実にイエス様にどこまでもついて行こうと心から思っていても、自分に危険が迫ると逃げ出してしまう弱い人間を知っていて赦してくださいました。私達も弟子たちのように、裏切ったとか、両親にひどいことを言ったとか、心が覚えています。でも、その私達にイエス様は、「大丈夫、それらすべてを私が勝利したよ」と宣言してくれるのです。

平安と喜びがいただけるのは、イエス様が、世に、つまり罪の力に打ち勝たれたからです。

マタイによる福音書を聖研祈り会で学んでいますが、最近、荒れ野の誘惑のところを学びました、誘惑する者は、「石をパンに変えてごらん」とか、「神殿の屋根から飛び降りてごらん」「わたしを拝んでごらん、そうしたら、全世界をみなあなたにあげる」と誘惑しました。でもイエス様はこの世の誘惑にすべて勝利されました。エバは誘惑に負けて、善悪を知る木から取って食べてしまいましたが、イエス様はこの戦いに勝利されました。罪の結果の死を打ち破って復活して、弟子たちのところに40日にわたって現れてくださったのでした。現実に復活のイエス様に会い、祈って待ちなさいといわれて待ち望んでいた聖霊が、使徒行伝の2章でドーンと来られたとき、弟子たちは全てを経験し理解しました。

イエス様が人間となってこの世界に来て下さった神様だったこと。(これは一緒にいた時から信じましたが)、全ての罪の裁きを担って死に、死を打ち破って復活し、共にいてくださる、助け主なる聖霊を送ってくださったことです。

弟子達から聞いた群集も信じて、喜びに満ちて生き、その孫弟子にと伝えられてわたしたちにまで伝えられてきました。

最近、信仰をもって10年になる姉妹から、「洗礼を受けてイエス様に出会って本当に感謝しています。自分の過去を消してしまいたい、と思うものでしたが、これでよかったんだと思える今を感謝しています。いつもそばにいて助けてくださる神様を感謝しています。」とのお便りでした。

全ての人がこの命をいただけますように。

3)求めなさい。喜びが満ち溢れる。                 24節

洗礼を受け、救われてからの生き方は、イエス様の名によって祈る生活です。先週はここで北支区婦人部の報告会がりました。エパフラスというコロサイの教会の牧師だった彼が、離れていても教会を覚え、祈っている姿を学びました。

救われた者は、神の子とされたのだから、これからは、自分で父なる神様にイエス様の名によって、何でも祈りなさい。そうすれば与えられる。とは素晴らしい約束ですね。

年一回結婚相談、「カナの会」便りを出しています。今年は横浜の清水ケ丘教会中島牧師夫人に文章をお願いしました。題は「共に祈ることの幸い」です。

エパフラスは教会の兄姉が「完全なものとなるように」と祈っています。「完全なものとなるように」とはこの手紙が書かれた目的といっしょです。神様の命に生きて、恵みを知りつつ生きて欲しいとの祈りです。信仰の恵みからそれていくことがないように、一人ひとりを覚えて何時間も祈っていたに違いありません。祈ることを、労苦していると言われています。

池田博先生(本郷台の教会の先生)も、日本伝道の「幻を語る会」で、御用をして下さった時、祈りが教会を成長させたと、祈りの紹介をして下さいました。毎土曜日、明日の聖日礼拝の説教のための祈り会、説教中も、先に礼拝した方が別室で祈る、礼拝堂でも四隅で祈る、等、全部を披露してくださいました。それによって礼拝が守られ、説教が変って来たそうです。(私も教会の皆さまが祈ってくれることで、御業を拝することを感じて居ます)先生の著書『祈りはわたしを変え、教会を変える』によれば、祈ることが苦手だったそうです。いや嫌いだったと。ある朝、新聞を広げていた先生に奥様が「あの~、あなた、その前にすることがあるのじゃないでしょうか?」とやさしく語ってくれたそうです。それから祈りが起こされていったそうです。祈りは労苦です。でも先生は「朝の15分があなたを変える」が口癖だそうですが、御言葉10分、祈り5分を始めるなら、必ず神様が解って来る、恵まれる、と勧めています。

祈りこそ神様の業に参与する光栄ある務めです。「わたしより大きな業をする」とヨハネ14:12にありますが、信仰の祈りは神様の業を拝します。

そして、本日の聖書箇所にありますが、離れている教会のためにも祈りが用いられます。わたしの父も牧師でしたが、「祈りは日本で祈ってもフィリピンにいる人にも届きます」などと語っていました。

北支区のこの集りのために、どこから取り次いだらよろしいでしょうか?と祈ったとき、この聖句が示されました。お互いの教会のために祈り合いましょう。もちろん、共同の働き、虹の家信愛荘のためのバザーなどのためにも、全国大会のためにも、祈り合いましょう。キリストの命が、味あわれますように。

祈り

神様、どんな過去も、悲しみの傷も、主が勝利して、主を信じる者に赦しと平安とあふれる喜びをくださることを感謝いたします。それでも、日々悩みが起ってまいりますが、主の名によって祈り合い、聖霊なる神様が偉大なカウンセラー、助け手として、最善の道が開かれることを、証させてください。

主の聖名によって  アーメン