説教「主がお入り用なのです」

2019年4月14日 棕櫚の主日(受難週)礼拝
聖書箇所:マタイ21:1~11
説教:深谷春男牧師

今日は教会の暦では「棕櫚の主日」という日になります。今日から始まる一週間を受難週と呼びます。4月18日が洗足の木曜日、19日が受難日、つまり、主イエスが十字架にかかられた聖金曜日となります。そして、21日の日曜日が復活の日を記念するイースターとなります。この受難週は、特に主イエスの十字架の苦難を偲び、その十字架の意味を深く心にとどめ、一足一足主イエスに従って歩みたいものです。

わたしどもも、昨年の4月に牧師として皆様に迎えられて、一年度の歩みをすることができました。1年間の牧会の中で、新宿西教会の歩みが分かってきてうれしく思います。初体験は、今週の受難週祈祷会です。毎日持たれ、しかも役員の愛兄姉による奨励があることで、楽しみですね。朝10:30~11:30です。木曜日は午後6:00~7:30になりますが、皆様もぜひ、この祈祷会に出席され、示された受難週の聖書記事を読みながら、主イエス様の愛と救いを深く深く心に刻む時と致しましょう。

そのような意味で、棕櫚の主日の今日は、マタイ福音書から、主イエスのエルサレム入場の記事を共にお読みしたいと思います。

【今日の聖書の概説】

受難週の日曜日、主イエス様はロバの子に乗ってエルサレムに入城されました。それまでは、パレスチナ北方のガリラヤ湖の近辺で宣教活動をしてこられた主イエスが、今や、南方にある、神の都エルサレムへと入城されたのでした。人々のホザナの歓声が轟く中で小さな子ロバに乗って入城されました。その行いは「王権主張」を意味しておりました。旧約聖書ゼカリヤ書9章9節にしたがってろばの子に乗って来られました。そこにはこのように記されています。

「見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、

柔和な方で、ろばに乗り、

荷を負うろばの子、子ろばに乗って。」

それは、柔和な、平和の王としての入城でした。群衆は感激して、棕櫚の枝を取り、「ホザナ」の歓声で、主イエスを迎えました。それを記念して、棕櫚の聖日と呼ばれます。しかし、その金曜日には、主は十字架にかかられ、わたしどもの罪の身代わりとなって死なれ、更に3日目に復活されたのでした。

 

【メッセージのポイント】

1)4 こうしたのは、預言者によって言われたことが、成就するためである。5 すなわち、「シオンの娘に告げよ、見よ、あなたの王がおいでになる、柔和なおかたで、ろばに乗って、くびきを負うろばの子に乗って」。(4、5節)。

⇒ 主イエスこそあなたの王!  

このエルサレム入城の主題は、「主イエスの王権主張である」と言われます。神学生になったころ、このエルサレム入城の所を学んでいた時に、神学校の先生が「これはイエスさまの王権主張です」と語られた言葉が、不思議に心に残っています。「王権主張」などという言葉はそれまで聞いたことがなかったからかもしれません。ここで主イエス様は、王であることを主張されました。でも、弟子たちも驚いたのではないでしょうか?ご自分がメシアであることを人々に話してはならないと口止めされていた主イエス様が今は、王であることを主張されて、エルサレム、神の都に入って行かれるのです。これはいったいどういうことでしょうか?しかし、そこには深い、主のお考えがあったのです。 主イエス様は「あなたの王」です。神の国の王です。また、この世界のまことの王でもあるのです。この主イエスのエルサレム入城の背景はゼカリヤ書9章9節です。そこにはこう記されます。

「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。

見よ、あなたの王が来る。

彼は神に従い、勝利を与えられた者。高ぶることなく、

ろばに乗って来る。雌ろばの子であるろばに乗って」。

主イエスは「あなたの王」なのです。

そしてまた、主イエスは「平和の王」です。主は軍馬ではなくろばに乗られるのです。軍事的な指導者としてではなく、和解の使者として来たもう。和解そのものとして来られた方です。神と人との根本的な和解者として来られます。彼はそのため十字架にまでかかってわれらの罪を負われました。ちょうど先週の礼拝でイザヤ53章を学びましたが、苦難の僕として、わたしどもの代わりに十字架を負い、わたしどもが義とされるために、彼は死にわたされたのでした。彼は王の王です。そのお方がわれらのために命を投げ出されたのです。

主イエス様を王として心に迎え入れるとき、わたしたちは、神と和解するのです。すなわち自分の内的な罪を主に告白し、罪を赦していただくからです。神と和解するとき、人は本来の自分に帰るのです。そして、赦された自分を知るときに、他者との関係も回復するのです。

今日、主イエスを心に、わたしたちの人生の中心に、王としてお迎えしましょう。「平和の王」「和解の王」「救いの君」として迎えるのです。ここからわたしたちの新しい人生が始まります。わたしたちの心に、平安と解放の喜びの花が、信仰の花が咲きます。永遠の命の光が差し込むのです。ハレルヤ!

 

2)6 弟子たちは出て行って、イエスがお命じになったとおりにし、7 ろばと子ろばとを引いてきた。そしてその上に自分たちの上着をかけると、イエスはそれにお乗りになった。(6、7節)

⇒ 主イエスはいと小さな者を選ばれる!        

この箇所には主イエスのご性格がよく表れています。主イエスはご自分が王としてこの世界に来られることを明確に示すために、立派な名馬(赤兎馬のような)に、またがってご入城することもできたのでした。多くの人々はむしろそれを望んだのでしょう。しかし、何と主は「不恰好なろばに乗って」入ってこられたのであります。敵対者であるローマの兵隊たちはその滑稽さをあざ笑ったに相違ありません。「ろばにまたがるドンキホーテ、イスラエルの王!」と。しかし主は「世の無学な者を選び、世の無に等しい者、身分の卑しい者や、見下げられている者を選ばれた」(Ⅰコリ1:26)のでした。

人間は皆、弱さを持っています。ハワイで伝道している中野雄一郎先生に前の教会に何度か説教に来ていただきました。その時語られた説教の中で「傷なきは人材にあらず」(荻生徂徠)という言葉が語られました。これは深い言葉だとおもいます。伝道者パウロも「傷」を持っていました。彼は自分の「肉体のとげ」を取ってほしいと三度、主に祈ったと言います。そのとげが何であるかはわたしたちにはわかりません。目の病気であったとか、過去のクリスチャンを迫害した罪責感であるとか、癲癇であったとか、いろいろな説がありますが、はっきりは分かりません。

イスラエルの救国の王ダビデも、「自分はもっとも小さなものですが、主があえて選んでくださった」と感謝をささげています(Ⅱサム7章)。勇者ギデオンももっとも小さな自分を選んでくださったと告白しています。主は小さなもの、なきに等しいものをあえて選ばれるのです。「誇る者は主を誇れ!」

昔、「みんなで歌おう」という名称だったでしょうか、1970年のころに日本風のゴスペルがはやった事がありました。その讃美集の中に、「ロバの子なんだかさびしい」という讃美がありました。スポーツ大会の後にギターに合わせて皆で歌いました。

ロバの子なんだかさびしい・・・♪

この頃 何だかかなしい・・・・♪

お父さんロバは大きな荷物を背負って働いている。

ろばの子の僕は ちいさな麦束一個

何にもできない ちいろば・・・

しかし、あるとき、イエス様が近寄ってきて、

わたしを運んで欲しいと言った。

ロバの子は驚いて、主イエス様をお乗せした。

ホザナの歓声とどろき 人々イエス様迎える  ♪

がんばれロバの子 イエス様 揺れてる    ♪

がんばれロバの子 よろよろするな・・・  ♪

当時、駆け出しの伝道師だったわたしは、讃美しながら、涙が流れてきたことを思い出します。わたし達は主イエス様をお乗せするロバの子なんですね。

 

3)3 もしだれかが、あなたがたに何か言ったなら、主がお入り用なのです、と言いなさい。そう言えば、すぐ渡してくれるであろう」。(3節)。

  ⇒ 「主がお入り用なのです」と言いなさい!

ろばの子を解いて、主が用いたもう時の合い言葉は「主がお入り用なのです」。こういえば持ち主も貸してくれるという事になっていました。その通りになったと記されています。主は救いをこの地上にもたらすために来られました。そしてあなたが、救われました。更に、主はこの世界に福音を満たそうとしておられます。「主がお入り用」との言葉は今、主が語っておられるみことばです。主はあなたを最高に用いたいのです。「あなたを!」です。そして主は言われる、「主がお入り用なのです」。

人生の最終的な意味をわたしたちはここに見ることができます。神様はこの地上に救いをもたらすために、わたしたちに共働の恵みを与えてくださったのです。主は一人で十字架におかかりになって救いを成就されました。しかし、わたしたちの働く場をも提供していてくださり、「わたしは渇く!」と十字架上で語られた方なのです。大阪西野田教会の高橋順先生は、この言葉で献身を決意されました。21世紀、日本で、世界で霊的な枯渇現象が起きています。主はあなたの献身を待っておられ、主のみ身体なる教会を建て上げるのに「主があなたをお入り用」なのです。 

【 祈り 】

天の父なる御神。受難週のこの朝、主イエス様のエルサレム入城の聖書箇所を共に読む事が出来て感謝します。あなたこそ「王の王、主の主」です。しかし、あなたが「いと小さなもの(チイロバ)」を選び、救いの業に参与させてくださいます。「主がお入り用」とのお声がかかった時には喜んであなたにこの身をお捧げします。御用のために清めてお用いください。

わたしどもの贖い主、主イエスの御名によって祈ります。アーメン。