説教「我は復活なり、生命なり」

2019年4月21日 イースター(復活日)礼拝
聖書箇所:ヨハネ11:17~27
説教:深谷春男牧師

今日はイースター礼拝です。主イエス様の復活を記念する礼拝です。主イエスが人間の罪を十字架の上であがない、解決し、更に、死を打ち砕いて復活されたことを心から感謝する日といたしましょう。聖書が示している人間の一番大きな問題は「罪と死」です。その中でも、「罪」が問題です。罪は神から遠く離れて存在することです。聖書は神から離れた人間が、ちょうど主イエス様の語られた「放蕩息子」のように、父から遠く離れて放蕩三昧に身を持ち崩すようなものだと教えています。放蕩息子が、本心に立ち返り、父のもとに帰り、神と和解すること、これが救いです。和解の後は、神の子としての新生が始まるのです。「死んでいた息子が甦った」のです。 

【聖書箇所の概説】

今日の聖書箇所は、「ラザロの復活」として、とても有名な箇所です。ヨハネはこの福音書の第一部としてまず「7つの奇跡物語」を記しています。2章で「カナの結婚式での水をぶどう酒に変える奇跡」から始まって、7つの奇跡が語られ、このラザロの復活はこの7つの奇跡物語のなかの最後に位置しており、福音書の前半のクライマックスとなっております。主イエスは人間の悲しみの世界、特にここでは死んで4日経って臭くなったラザロをよみがえらせたことを大胆に告げています。

 【メッセージのポイント】

1)、21 マルタはイエスに言った、「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう。(21節)

⇒ memento mori 死を覚えよ。

主イエスのなさったもっとも大きな奇跡のわざは「死人をよみがえらせることだった」とヨハネは叫んでいます。言うまでもなく、「死」は人生のもっとも大きな課題です。すべての人はこの死に立ち向かわなくてはなりません。わたしどもが地上で生きてゆくには、時間的な制限があります。memento moriという言葉はラテン語で「死を覚えよ」という意味です。中世の修道院では「合い言葉」のように、この言葉が使われたというのです。

今日はイースターです。わたしどもは礼拝後、教会の小平霊園で、墓前礼拝を致します。そこで、今回は、西田正兄の納骨式も執り行います。今朝も、霊の目を上げれば、多くの愛する兄弟姉妹に囲まれ、ここで神様を礼拝するのであります。わたしどもも、やがてはこの地上を去らねばなりません。

台湾から来られた頼炳炯先生が、台湾の格言を教えてくださいました。「深谷先生。台湾には『7年8月9日』という言葉があるのですが、聞いたことありますか?」と先生は聞かれましたがわかりませんでした。先生はおもむろに教えてくださいました。「これは70歳代は一年のうちにいつ死ぬかわからない、80歳代は一ヶ月のうちにいつ死ぬかわからない、90歳代になると一日のうちにいつ死がやってくるかわかりません。いつでも神様に会う心の備えをしておくようにという教えですよ」と語られました。わたし達は地上で永遠に生きることはできません。しかし、主イエスは死を越えた命をもたらし、わたしはあなたのために天に場所を用意しておくとまで約束されました。

2)、25 イエスは彼女に言われた、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。26 また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。27 マルタはイエスに言った、「主よ、信じます。あなたがこの世にきたるべきキリスト、神の御子であると信じております」。

⇒ 我は復活なり、生命なり!         (25-27節)

何という驚くべき言葉でしょう!主イエスは「わたしは復活であり、命である」と語られました。主イエスは一度死を経験し、死を克服したよみがえりの命である、とご自身を示されました。そして、主イエスは命そのものだと言われるのです。主イエスと信仰によって、結びつく者は、その命を得るのだというのです。その時から、「信じる者は死んでも生きる」と宣言されます。「生きていて、主イエスを信じるものは死ぬことはない」とも言われました。ここには主イエスを信じることの大切なことがくり返されます。信仰という電線で主イエスにつながっているようなものです。マルタに尋ねられます。「あなたはこれを信じるか?」と。彼女の答えはこうでした。「主よ、信じます。あなたが世に来るべきキリスト、神の御子であると信じております」。ここに信仰の言葉が、信仰の告白が語られています。

以前、教会であるところに出かけようといたしました。いつものように教会の車に乗り、エンジンをかけようと思ってスイッチを入れたところが、カチッと小さな音がするだけで、エンジンがかかりませんでした。何度やっても同じ。「ああ、バッテリーがあがった!」と悟りました。大沼兄にその旨を告げたら、コードを持ってきてくれて、自分の車のバッテリーと教会の車のバッテリーをつないでエンジンをかけると、「ブウウン!」と一発でエンジンがかかったのでした。運転しながら考えました。わたしどもの生涯もいろんなことが起る。魂が擦り切れてしまうような、バッテリーがあがってしまうようなことが起こる。でも、キリストの命、永遠の命に信仰によってつながると、死んだバッテリーが生き返るように、わたしどもの魂も生きる。バッテリー同士をつなぐコードが「信仰」なのだと示されました。皆さん、今日、マルタのように「主よ、信じます。あなたが来るべきキリストです」と告白しましょう。

3)イエスは涙を流された。(35節)

⇒ イエス 涙す。              

さて、このラザロの復活の物語のなかでひときわ目立つことばは「イエス涙す」の一節です。この言葉は聖書全体の中で、いちばん短い節であると言われます。ギリシャ語原典ではわずか3つの語が並んでいるだけです。口語訳ふうに「イエスは涙を流された」と訳すと少し長くなりすぎて、ヨハネ福音書の持つ簡潔な、しかし、無限の余韻を残した表現が伝えられなくなってしまうといわれます。「イエス、涙す」という文語訳が簡潔で、この節のもともともっている響きを伝えています。

主イエスは涙を流された。ここにわたしどもの希望があります。神はわたしどもの苦しみを共に分かち、悲しみの涙を流されるのです。神の御子、主イエスが涙を流され、われらの重荷を共に、担ってくださるのです。この主イエスの愛に触れるときに、もうすでに人生の重荷は重荷でなくなり、悲しみは悲しみでなくなってしまうのです。神の愛が現われるとき、神の恵みと救いに触れるときに、わたしどもは、すでに死から命に移されているのを悟るのです。

4)43 こう言いながら、大声で「ラザロよ、出てきなさい」と呼ばわれた。(43節)

⇒ ラザロよ!出てきなさい!           

主イエスは今日語られます。「ラザロよ!出てきなさい!」。赤羽で牧会していたときは洗礼名をつけました。何人かは、「ラザロと付けてください」と言いました。家庭崩壊を経験した方、路上生活を経験した方、たくさんのラザロがいました。福音に触れたわたしどもは、いわば

ラザロの二世です。新宿西教会の週報のコラムにのせた文章です。この文章は、深谷美歌子牧師の書いたものですが、少し、短くして、紹介します。

◇1月5日(土)5時54分、田原勝太郎兄が79歳で召されました。突然の召天の報に愕然としました。新宿西教会のグループラインに召された第一報を入れました。すぐに皆様から、勝太郎兄の温かい手、笑顔、様々な思いがラインに書き込まれました。こんなに皆様を励ましていたのだと心が熱くなりました。すぐ駆けつけましたが、そのお顔は、笑っていました。笑って死ぬなどは、しようと思ってできることではありません。感動しました。告別式も、「天国へのはしごとされた勝太郎兄」のメッセージ。佐藤姉の感話、周一兄の真実な挨拶と祈り。美智子姉もお父様の思い出、「恵みと慈しみが追ってくる」と喜びの日々を過ごしておられたことを語られ、素晴しい告別の時でした。

◇2月3日に、主の御許に召された西田正兄は、若き日に真理を求め、当時の学生運動や芸術探求に、その救いを求め続けました。最後は新宿西教会の門をたたき、岡田實牧師と出会いました。十字架の贖いと復活の信仰へと導かれ、1969年4月6日洗礼を受けました。岡田先生から、『お前は演劇で行け』と言われてこの道を続けて来られた。「練習の時に団員を怒ってしまったりしてねー。最近、不思議と団員が戻って来た。こんなに長く続いている劇団はないんです。」先週も祈祷会で「わたしは今、ロマ書に惹かれています。ほんとに聖書はいいですね。最近礼拝が楽しみです。」と語り、3日の礼拝にもいつもの席で守っておられました。結婚もささげてこの道に生き続け、新宿の駅でホームレスの人々など、多くの人々に福音を語り続けました。質素に生きながら、暖かい愛を注いで、その瞳のやわらかさは、イエス様を思わせました。

【祈り】 天の父よ。イースター礼拝を感謝します。わたしどもの人生には多くのことが起こります。バッテリーが上がって魂が動かなくなるような時もあります。この世的には人生の最後は死です。でも、主よ、あなたを信じて、魂のコードを主イエスにつないで歩みはじめるとき、わたしどもは「生き返る」のです。復活するのです。その時、罪と死の呪いは消えて行き、神の命、永遠の命がわたしどもの内側に始まるのです。復活の命はすでに始まっています。主よ、「わたしを信じるものはいつまでも死なない」「あなたはこれを信じるか?」。この質問に、わたしどもは今日喜びを持って、答えます。「主よ、信じます。あなたこそ、神の御子、永遠の命をもたれるお方、救い主」と。ラザロのように、代々の聖徒のように復活の命に歩ませてください。イエスの御名によって。アーメン。