説教「わが臨在汝と共に行くべし」

2019年5月5日 主日礼拝
聖書箇所:出エジプト33:12~17
説教:深谷春男牧師

宗教改革500年を記念して「新改訳2017」という聖書が発行されました。早天祈祷会や説教の準備等に良く参考にしますが、今回、説教の備えをしている時に、本日の聖書箇所である出エジプト記33:14を読みましたら、驚きました。その翻訳は次のようになっていました。

主は言われた。「わたしの臨在が共に行き、あなたを休ませる。」

 実は、この箇所はわたしの愛誦句で、さまざまな試練の時に支えになった御言葉でした。今回も、教会総会が終り、新しい体制で歩み始める2019年度への御言葉を求めている中で示された聖句です。

以前、牧会しておりました赤羽教会に、戦時中、その教会を牧会しておられた佐藤勇先生と奥様が訪ねてくださり、すばらしい恵みの時を持ちました。あっという間に数時間が過ぎて、お帰りになる前に、奥様にお祈りを依頼しました。その時、「わが臨在汝と共に行くべしと仰せになられた主よ、・・・」と実になめらかな、霊的な祈りをしてくださいました。「わが臨在汝と共に行くべし」との祈りに触れた時に、先生御夫妻の80年に及ぶ、主の臨在の日々が偲ばれるような思いがしました。ここは「わたしの顔が共に行く」が直訳ですが、「主の御顔」とは「主の臨在」のこと。主が共におられるなら平安の中を歩むことができます。「わたしの慈顔が同行」(中沢洽樹)するという訳もあります。主の「御慈顔」を仰ぎつつ勝利の一年といたしましょう。ハレルヤ!

【今日の説教箇所の概説】

 出エジプト記はイスラエルの民のエジプトからの脱出の内容を示す大変重要な書物です。その中でも、32-34章は「背教の章」と言われるところです。イスラエルの民は神の民としての歩みをはじめたにもかかわらず、すぐに金の子牛を作りそれを拝みました。モーセの必死の執り成しで、

1、民全体の絶滅は逃れる

2、主の同行拒否を思いとどまらせ、

3、主の栄光の顕現と続く、ことになります。 

【メッセージのポイント】

1)13 それで今、わたしがもし、あなたの前に恵みを得ますならば、どうか、あなたの道を示しあなたをわたしに知らせ、あなたの前に恵みを得させてください。またこの国民があなたの民であることを覚えてください」。(13節)

  ⇒  主の恵み(=好意)を求めよ!

12節―17節に「恵み」という語が5回(12、13、13、16、17節)繰り返されています。モーセに十戒を与えるべく、シナイ山でそれを授与している間に、イスラエルの民は早くも偶像礼拝に陥り、祭司アロンまでも巻き込んで、金の子牛を作って、その前で踊り戯れました。主は怒って、イスラエルの民を滅ぼすと言いましたが、モーセの執り成しでかろうじて絶滅をも免れたのでした。しかし、主は、「イスラエルの民と同行することはできない」と同行拒否をされました。3節に「あなたがたはかたくなな民である」と宣言されています。モーセは更に主に食い下がって、「恵み」を求めました。この「恵み」という言葉は「ヘ-ン(hen)」という語で、神の恵み、憐れみを意味する言葉です。破れの多いわたしどもは、神の「恵み」(新共同訳では「好意」)なくして、信仰生涯など歩めるものではありません。エペソ2:5と2:8の「救われたのは恵みによる」と「恵みにより信仰によって救われた」はウェスレーの特愛の聖句です。

2)14 主は言われた「わたし自身が一緒に行くであろう。そしてあなたに安息を与えるであろう」。(14節) 

⇒ 主のみ顔を求めよ!

さて、このきびしい訓練の時を、イスラエルの民はどのように乗り越えて行ったのでしょうか?今日の聖句は、わたしたちにその信仰を教えています。主は荒野の中で苦しむモーセとその民に、「わたしの顔(直訳)が共に行く」と約束されました。直訳は「わたしの顔が共に行く」です。「顔(ぺーン)」という単語が使われいろいろな翻訳があります。

口語訳では「わたし自身が、共に行く」と訳されています。

「わたしの顔が行くであろう」(関根正雄訳)

英語では My presence will go with you.(RSV,KJV)

「わが臨在汝と共に行くべし」とも訳し得る言葉です。

塩屋の神学校で導きをされた小島伊助先生は、神学校の卒業式でこの箇所から卒業生を送り出す説教されたのが小島伊助全集に載っております。まさに伝道者の生涯は、主の御顔を仰ぎ続ける生涯であります。                            「インマヌエル綜合伝道団」の創始者、蔦田二雄師の体験は有名です。昭和17年のホーリネス弾圧の時に投獄された時に、「主の臨在」だけは、どんな暴力をもってしても取り上げることはできない。彼は獄中で「インマヌエル綜合伝道団」を作るという、神からの幻を頂きました。

疲れ果てた荒野での厳しい一日の終わりに、主の温顔を拝することは、彼らの慰めであり、命であったのだと思います。

この言葉は、わたしも1985年、特別の祈りの時を持った時に与えられた聖句として忘れる事ができません。当時、首都圏キリスト教大会の青年部で青年大会を計画し、1000人ほど入る青山学院の講堂を借りることにしました。ここを満堂にしようと、10日間の断食祈祷をしたことがあるのです。その時、最後の日の聖書日課がこの出エジプト33章でした。忘れることが出来ません。結果は豊かな祝福を頂き、主の臨在の集会となりました。

ホーリネス教団の物部赳夫(ものべ たけお1893~1930)先生は日本ホーリネス教会ブラジル宣教師で、ブラジル福音ホーリネス教団の生みの親とされている先生です。 先生は長野県塩尻市の万福寺の住職の次男として生まれ、当時の国鉄に就職。1915年、同僚の死を通して、求道を始め、同県上諏訪町の福音伝道館に通い、高橋俊三師に導かれて、中田重治師より洗礼を受け、1917年に献身を決意。柏木聖書学院に入学。小樽教会、品川教会で牧会伝道。 1925年にブラジル伝道を決意し、ブラジルのサントス、サンパウロ、パラナ、ミナスなど12箇所に伝道の拠点を作られた方です。先生のブラジル宣教の証しの本の表題は、「わたしが共に行く」でした。これは、さまざまな困難にあたるわたしどもへの最善のメッセージでもあります。

ウェスレーの辞世の句。「もっとも良きことは神われらと共にいますことなり」もまた、主のみ顔を仰ぐ生涯を教えています。

3)17 主はモーセに言われた、「あなたはわたしの前に恵みを得、またわたしは名をもってあなたを知るから、あなたの言ったこの事をもするであろう」。 (17節)

主との親しみを求めよ!            

権力のある王が、親しい友人は個人名で呼んで、共に政策を相談することがあります。ここでは、創造者にして絶対的主権者である主が、その僕モーセをその名で呼び出しておられます。主はわたしどもと親しい交わりを持とうと願っておられます。主はアブラハムを友と呼ばれました。主イエスも弟子たちを友と呼ばれました(ヨハネ15章)。主は、あなたを名指しで呼ばれ、交わりを持とうとしておられます。また、主の御再臨の時にはその名で呼ばれることでありましょう。詩編25:14に「主は奥義を示す」とあります。これは「主の親しみ(ソード・アドナイ)という言葉で実に味わい深い聖句です。神ご自身が、共にいて、従うわたしどもを支え、助けてくださるのです。

この聖書箇所には人間の罪意深さと共に、神の栄光が豊かに現れる非常に味わいの深い霊的な内容になっています。

【 祈 り 】  主よ、わたしどもの生涯には、厳しい状況と思われるような時もしばしばあります。しかし、そのような時には、いつでも、あなたの好意と慈顔とを仰ぎ望んで歩みます。あなたはわたしどもを名指しで呼んでくださいます。こんなに破れだらけのわたしどもですが、あなたは、わたしどもを特別の存在として見て下さいます。主よ、あなたのご慈顔を慰めと平安の源として歩むことができるように導いてください。「わが臨在 汝とともに行くべし!」と導いてください。主イエスの御名によって祈ります。 アーメン