説教「ただ聖霊が降るとき」

2019年6月9日 主日礼拝
聖書箇所:使徒1:8、使徒2:1~4
説教:深谷春男牧師

今日はペンテコステ礼拝です。

教会には3つの大きな祝日があります。一つはクリスマス、一つはイースター、もう一つはペンテコステです。クリスマスは主イエス様の誕生を祝い、イースターは主イエスの十字架と復活を祝います。そしてペンテコステは、主イエスの弟子たちが上からの力を受けて伝道へと出て行った教会の誕生日です。

 【聖書テキストの概説】

主イエスの十字架にかかられた後、弟子たちは、ユダヤ人を恐れて部屋に隠れておりました。主イエスを殺したローマの兵隊やユダヤ人がやってきて自分たちを殺しはしないかと戦々恐々だったのです。ところが、この不信仰と臆病の霊につかれたような弟子たちが、突然、大きく変えられました。弟子たちは、エルサレムの二階座敷でこの力を受けるべく祈っておりました。そして、彼らは大きな体験をし、人生が一変してしまいました。これがペンテコステの出来事でした。「8 ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」(使徒1:8)とあるように、彼らは力を受けました。「聖霊の降臨という力」です。弟子たちが主イエスと最後の晩餐をしていた二階座敷で、ひたすら祈っているところに、天から聖霊なる神様が降臨され、弟子たちは信仰と愛に燃えて世界宣教へと旅立ちました。救いの確信を得たのは「聖霊の降臨」からでした。聖霊に満たされて人生は変わるのです。ハレルヤ

 

【メッセージのポイント】

1)8 ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。(8節)

⇒ 聖霊が下ると力を受ける!

復活の主イエス様の言葉を今日は頂きます。それは使徒言行録1:8の一節

です。そこにはこう書かれております。「聖霊なる神様が弟子たちに降ると弟

子たちは、力を受ける」と。信仰の内側からくる天来の力ですね。

その時まで、弟子たちは、主イエス様の十字架の出来事を見ました。また

復活の主に出会いました。彼らは人間の世界の一番深い問題が、罪と死である

と知らされておりました。そして、主イエスがその解決として十字架と復活の

福音を成就してくださったこともなんとなく分かっておりました。しかし、彼

らの「力」とはなっていなかったのです。ルカ福音書の最後の部分を読みます

とこう記されます。

44 それから彼らに対して言われた、「わたしが以前あなたがたと一緒にいた時分に話して聞かせた言葉は、こうであった。すなわち、モーセの律法と預言書と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する」。45 そこでイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて46 言われた、「こう、しるしてある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。47 そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。48 あなたがたは、これらの事の証人である。49 見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい」。

ここには、復活の主イエスの言葉が記されます。旧約聖書に記された出来事はすべて実現する。それは「主イエスの十字架と復活、そして聖霊の降臨である」。この福音に立つときに、「47 そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。48 あなたがたは、これらの事の証人である。49 見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい」と語られたのです。

「上からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」という言葉に、注目しましょう。十字架を知り、復活の主に出会っても、十分ではなかった。ペンテコステの出来事は「上からの力の付与」だったことが分かります。

「上から」という言葉は象徴的です。聖霊なる神様が臨まれる時、人は天

の世界が開けるのを経験するからです。かつて井上金子師から聞いたお証し。あるおじいさんがどうしても信仰がわからない。その内に危篤状態になり、クリスチャンの娘もついにサジを投げ「聖霊によらなくちゃわからないよ!」と突っ張ねた。ところがこのおじいちゃんは危篤状態になった時にず-っと「聖霊やらという方をお与え下さい、聖霊やらという方をお与え下さい」と祈り続けた。ある夜、深く眠った時に夢を見た。天国の夢。碧玉の城壁、純金の町、水晶のような川・・彼は教会に2回しか行ったことのがなかったのにはっきりと信仰がわかり、救われたとのことでした。聖霊なる神様により頼む謙遜さはは「罪と義と裁きについて、世の人の目を開く」(ヨハネ16:8)のです。

聖霊によらねば、イエスは主なりと言いうことはできません。(1コリ12:3)

 

2)、8 ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。(8節)

 ⇒ キリストの証人となる!

聖霊が降ると、霊的な目が開かれ十字架と復活の救いの確信がやってきます。

以前、天門教会の週報を見たことがあります。コラムがありまして、そこに、「わたしのペンテコステ」という一宮政吉先生の文章が載っておりました。一宮政吉先生は、16歳の時に、礼拝をしていた時、がぜん霊的に目覚めました。そして、主イエス様の十字架の意味、復活、再臨、永遠の命までの聖書の主題がはっきりとわかるようになったというのです。この霊的覚醒を「わたしのペンテコステ」と表現していました。このような、「わたしのペンテコステ」というようなものを証しできる人は幸いな人だと思います。

わたしの先輩のある兄弟もこのようなことを語られました。「自分は会社を経営していて、調子の良い時には本当にルンルン気分だったのですが、ある時、会社が不渡りを食って、大変なところに落ち込んでしまいました。厳しい日が何日も続き、わたしはある夜、帰りの車の中で涙が止まらなくなってしまいました。神様の前に泣いて、『神様、あなたがわたしたちの会社の社長です。どうか助けてください!』と祈りました。その時に魂の深いところから恵みが湧いてきて、喜びに満たされた経験を持っております。あれが、わたしのペンテコステでしたね。」彼の証しも「わたしのペンテコステ」と語っておられました。信仰の確信が来るのですね。

わたしのペンテコステ

わたしが信仰に導かれたのは、中学の恩師、クリスチャンの渡邊正夫先生の体当たりの愛のお蔭でした。13歳から主イエス様を信じる思いが芽生えました。高校生のころは聖書と共に倉田百三の「愛と認識との出発」や「月刊キリスト」「信徒の友」や内村鑑三など読んでいました。上京してからは、関口のカテドラルとか、大田区千鳥町の町内会事務所での開拓伝道の集会などにも行きました。でも、心の深いところではどうしても納得ゆかないことも多かったのです。19歳のころ、ある夏の礼拝で砕かれて、涙が流れて止まらなくなってしまいました。それから、数日後、圧倒的な神様に触れられる経験をしました。それらのいくつかの経験を経て、わたしは練馬に越してきたときに、練馬開進教会で洗礼を受けました。洗礼の夜の喜びは言葉では表すことのできないほどの体験でした。わたしはその夜、献身の祈りをささげました。しかし、70年の安保闘争とか自分個人の内的葛藤、疾風怒濤の4年間を過ぎ22歳で神学校に入りました。 心を神様に向け、聖書を読み、祈り始め、深い霊的な体験を頂き、少しづつ、天の世界に霊の目の開かれ、今の聖霊に満たされた生涯へと導かれました。多くの方々の祈りと神様の忍耐に感謝し3)、8 ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。(8節)

⇒ エルサレムからはじまり、地の果てまで、主の証人となる!

ここで言われているのは、豊かな愛と命の宣教の業は、「エルサレム、ユダヤ、サマリヤの全土、さらに地の果てまで」という風に地域が述べられています。最初はエルサレム。これは弟子たちのいたユダヤの首都、中心地です。そしてユダヤ。これはエルサレムを含む更に広い地方。そしてサマリヤ。これは北方に広がる遠い地域。最後は地の果てまでと、世界中、人間の住むところ、世界中が福音で満たされる、そのために証し人なのだ、と語られます。これは新宿西教会で言えば、「福音は、新宿の地で語られ、東京で、関東、本州、日本全土で、更に全世界に向けて、キリストの証し人として遣わされてゆくと言うことになります。またそれは、あなたの身近な両親や子供達、兄弟姉妹、身近なものたちに愛と救いの最高のものを証しし伝えなさい。そして更に、おじいちゃんおばあちゃん、孫や曾孫、甥や姪や会社の同僚、学校の同級生、身近な者たちに福音を伝えなさい。愛する身近な人たちのために「時間と感動を共有し」、「あなたも家族も救われる」ために祈り労すると言うのです。

「聖霊によるバプテスマ」。BFバックストン先生は、それは、クリスチャン生涯の戴冠式のようなものだと語りました。信仰の完成の姿です。

ペンテコステ!これは、聖書の世界を知り、体験し、神の愛と信仰の恵みの世界に身をゆだねることです。神御自身の信仰の世界、愛の世界に、全てゆだね、明け渡し、神ご自身の命の中にどっぷりとバプテスマ(=漬けるがもともとの意味)される事を意味します。神の愛と恵みと信仰!

ある集会で、韓国のエバンジェリストの話を聞きました。教会にすばらしいリバイバル(霊的復興)が起こるためには、ひとつの教会に《5人の聖霊の器・信仰に燃えた人》が必要との事でした。5人の聖霊に主権を明け渡し、祈りに献身し、聖書信仰に立って歩む聖霊の人がいると、その教会は必ずリバイバルが起こると世界中を見て来て体験したと言うのです。チャレンジを受けました。聖霊と信仰に満たされた器となって。日本中に福音を満たしましょう!

 

【祈り】 主よ、わたしどもを聖霊に満たしてください。そして、霊的な力を与え、御言葉と祈りによって、あなたの十字架と復活の証人としてください。われらの愛する家族親族、身近な愛する方々に証ししながら、地の果てに至るまでの証し人としてください。新宿西教会に、また教会の兄弟姉妹の一人一人を、信仰と愛と命に満たしてください。主の御名によって祈ります。アーメンます。ハレルヤ