説教「ダビデ新生の経験」

2019年6月2日 主日礼拝
聖書箇所:詩篇51篇
説教:深谷春男牧師

シャロームマンションに住むフィンランドから来られた姉妹と5月30日に話しましたら、「フィンランドは今日はお休みの日なのです」とのことでした。「国民の休日?」と聞きましたら、「ascension day(昇天祭)です」と言われました。キリストの昇天の日は祝日なのだそうです。教会暦で言えば今年は4月21日(日)がイースター。5月30日(木)が昇天日。そして6月9日(日)がペンテコステとなります。昇天日から6月8日までの10日間は、聖霊降臨を待つ、祈りの日として、心に覚えたいと思います。 

【詩篇第51篇の概略と区分 】 本詩は7つの悔い改めの詩(6、32、38、51、102、130、143篇)の第4番目の詩で、詩篇の中でも最も有名な詩篇です。特に3―4節は「罪と赦しに関わるヘブライ語彙の宝庫」(シュツールミュラー)とも言われ、新約聖書のロマ書等と深い関係のある詩篇です。全体の区分は以下のようになります。

表題:ダビデがバト・シェバと通じ、預言者ナタンが来た時に。

1― 2節 導入:神の憐れみと罪の清めを求める。

3― 6節 罪の告白:わたしの罪は常にわが前に。母の胎内から罪に染む。

7―9節  罪の赦しときよめを求める: 雪よりも白くなし給え。

10―12節 霊的刷新への祈り:新しく確かな霊、聖なる霊、自由の霊を。

13―17節 感謝の誓い:証しと賛美の誓い、いけにえは砕けた悔いた心。

18―19節 典礼的付加:エルサレムの城壁の再建への祈り。

 

【メッセージのポイント】

1)3 わたしは自分のとがを知っています。

わたしの罪はいつもわたしの前にあります。

4 わたしはあなたにむかい、ただあなたに罪を犯し、

あなたの前に悪い事を行いました。

それゆえ、あなたが宣告をお与えになるときは正しく、

あなたが人をさばかれるときは誤りがありません。(3、4節)

  ⇒  信仰は「認罪の意識」に始まる!

人間の生涯には誰でも、「あのこと!」と思い起こすような「罪の思い出」があるのではないでしょうか?旧約のイスラエルの王、救国の英雄であったダビデも、その生涯に一つの汚点がありました。即ち、バト・シェバとの姦淫事件です。彼はこの事件を起して、その罪を隠そうとしてバト・シェバの夫、忠実な自分の部下であったウリヤを謀殺しました。彼は姦淫、殺人、偽証の罪を重ねたことになります。

しかし、ここで注目したいのは「あなたにむかい、ただあなたに罪を犯し」と告白していることです。罪とは本質的に神との関係のことです。この深い罪意識が福音の発見には不可欠のものです。

 

2)、1 神よ、あなたのいつくしみによって、

わたしをあわれみ、

あなたの豊かなあわれみによって、

わたしのもろもろのとがをぬぐい去ってください。

2 わたしの不義をことごとく洗い去り、

わたしの罪からわたしを清めてください。(1、2節)

  ⇒  信仰とは「罪の赦し」の体験である!

「福音は、罪の赦しの体験です」。キリスト教信仰は十字架の主イエスを見上げ、自分のためになされた身代わりの業、贖罪の御業を信じることです。神の子羊、主イエスの十字架の血潮による以外に救いはありません。これは信仰生涯の出発に当たる新生の体験です。パウロの体験も、アウグスチヌスの体験も、ルッターの体験も、罪の許しという体験でした。日本基督教団の信仰告白も、この深い罪の赦しという福音が根幹を成しています。

 

3)、7 ヒソプをもって、わたしを清めてください、

わたしは清くなるでしょう。

わたしを洗ってください、

わたしは雪よりも白くなるでしょう。(7節)

  ⇒  信仰は「罪のきよめ」の体験である!

詩人は預言者ナタンに指摘されて、自分の罪を直視した時、神の御前に罪を告白し、「雪よりも白くしてください」と祈っています。「雪よりも白く」とは何という大胆な信仰でしょう。しかし、これは信仰者の偽らざる祈りです。「御子イエスの血、すべての罪よりわれらを清む」(Ⅰヨハネ1:7)。昔は汚れをヒソプという植物で清める儀式を行ないました。しかし、今は主イエスの十字架で流された血潮によって我等は罪許され、潔められていくのです。「たといあなたがたの罪が緋のように赤くあっても雪のように白くなるのだ」(イザヤ1:18)との告白のとおりです。

 

4)、10 神よ、わたしのために清い心をつくり、

わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください。

11 わたしをみ前から捨てないでください。

あなたの聖なる霊をわたしから取らないでください。

12 あなたの救の喜びをわたしに返し、

自由の霊をもって、わたしをささえてください。(10~12節)

⇒ 福音とは「聖霊によって新しくされること」である!

  ここには神の霊(ルーアッハ)によって新しくされるという信仰が表明されています。「新しく正しい霊」、「あなたの聖なる霊」、「自由の霊」の満たしによる新しい人生、聖霊による人生の変革を求めています。「清い心をつくり」の「つくり=創造」は「バーラー」という創世記1章の天地創造の際に使われた言葉が使用されます。この語は神のみが主語となります。即ち、「神よ、わたしの罪を赦し、わたしの内に清い心を創造し、神の霊によって、まったく新しい人生を作ってください」という祈りがここにはあります。

 

5)、17 神の受けられるいけにえは砕けた魂です。

神よ、あなたは砕けた悔いた心を

かろしめられません。       (17節)

  ⇒  信仰とは「砕けし、悔いし心」を持つことである!

  この詩の最後は「真のいけにえは動物犠牲でなく、砕けた魂、悔いた心」なのだと宣言して締めくくっています。わたしどもに大切なのは自分の義に頼らず、砕かれた心で主の御前に立つこと。硬い自我が砕かれ、主権を主に明け渡すことを意味します。

 

わたしどもプロテスタント教会の原点は、マルチン・ルッターの宗教改革です。それは「福音の再発見」と呼ばれるできごとです。

マルチン・ルターの生涯を北森嘉蔵先生や多くの先生方の書物からまとめてみます。マルティン・ルッター(1483-1546)の父、ハンス・ルッターは坑夫から身を起した坑山の所有者で、息子のマルティンにだけは最高の教育を授けたいと願い、まず、マンスフェルトのラテン語学校に入れ、最後に、名門のエルフルト大学の文学部に入れました。この父が極めて厳格な性格で後のルッターの裁き主なる神のイメージはこの父から来ているとも言われています。彼は大学卒業間近に大きな経験をしました。彼の同級生ヒエロニムス・ブンツが試験中に急性肋膜炎で急死したのです。若い友人の死は彼にとって大変なショックでした。彼は、やがて専門の法学部に入学しました。しかし、その直後、再び深刻な体験をします。雷雨の中で雷に撃たれる危険にさらされて、死に直面させられたのです。そこで彼は、「もし命を助けてくれるならば修道士になります」と誓いをしてしまった。嵐は無事に去って行きました。彼は約束通り修道士になる決心をし、アウグスチヌス修道院に入りました。1507年に司祭となり翌年ヴィッテンベルク大学の講師となり、初め哲学と聖書の講義をし、アウグスチヌスの研究を始めました。

1512年神学博士となり、 ヴィッテンベルク大学神学部の教授となりました。このころに有名な《塔の体験》をしました。《塔の体験》とはルッターの研究室でもあった塔の中で与えられた霊的な一大転換のことです。それは『聖書の再発見』とも『福音の再発見』『神の義の再発見』とも言われています。この体験が歴史を覆すような宗教改革へとつながって行きます。ルッターは、詩編、ロマ書、と大学での講義を続けながら聖書の教えている『救い』を再発見していったのでした。

学びの結論は、『人は主イエス・キリストを信じる信仰によって救われる』という信仰義認の教えでした。ルッターは非常に優秀な人物であり、修道院に行っても24才で大学の講義を受け持ち、27才で修道会の命を受けてローマに旅し、29才で神学博士となり、その地方の11の修道院の監督となった程の人物です。多くの修道僧に自分自身の内面を厳密に観察することを教えていたルッターにとって、自分の内の「自己中心」の思いから逃れようと努力を重ねましたが、断食も徹夜も彼の心を満足させ得ませんでした。このような苦悶の中で彼が嫌った言葉は『義』という言葉でした。『神の義』は彼を攻める神の律法のムチのようにしか理解できなかったのです。しかし、彼が詩編の研究から始まって、ロマ書へと研究が進むにつれて彼の『神の義』の理解が深まり、彼が最初に考えていたのとは全く逆であることが分かりました。即ち、神の義とは人を裁き罪人を罪あるものとする『義』ではなく、むしろ、罪あるどうしようもない人間を『義と認めてくれる』という神の与える『恵み』であることが分かったのです。そして、1517年10月31日、万聖節の直前、ヴィッテンベルクの城教会に行き95箇条からなる貼り紙を出し、免罪符を否とし、宗教改革の火蓋を切ったのでした。

わたしどもの生涯も同じです。救いは自分の立派さからくる神のご褒美ではありません。自分の破れを知り、主の御前に砕けた悔いる心の者に与えられる神の一方的な恩恵なのです。そこには深い罪の認識と、罪深い自分への神の恩寵認識があります。この「十字架の福音」が、ロマ書をはじめとするパウロの福音の中心であり、アウグスチヌス、ルッター、カルヴァン、ウェスレーの体験となり、わたしたちの新宿西教会の原点ともなります。「十字架の血にて贖われたり!」の原点をしっかり自分のものとしましょう。 

【 祈 り 】 主よ、今日は詩篇51篇を通して、救いの原点を学びました。自分の罪を認め、罪の赦しと潔めを経験し、砕けた、悔いた心で主の御前に出て、すべてを主に明渡し、聖霊なる神様によって満たされるものとならせてください。十字架の贖いと聖霊の満たしを勝利の原点とならせてください。主の御名によって祈ります。アーメン!