説教「大宣教命令」

2019年5月19日 主日礼拝
聖書箇所:マタイ28:18~20
説教:深谷春男牧師

今日は「復活節第五主日礼拝」と週報に記しています。6月9日(日)がペンテコステ礼拝ですが、その前の50日は「復活節」と呼ばれてきました。教会の玄関には「イースターおめでとう!」のポスターが貼ってあります。赤い字のポスターで、とてもよく目立ちますので、そのまま使わしていただいてます。その下に5月19日(日)10:30~12:00 メッセージ「大宣教命令」と記してあります。今日は、復活の主イエスから使命を受けて、出て行った弟子たちの原点、「大宣教命令」を共に読んで、教会の使命を再確認する時といたしましょう。

テキストの概略

さて、この聖書箇所は、11人の弟子が、復活された主イエスが行くように命じられた山に登ったところから始められます。彼らは主イエスに出会い、そこでひれ伏しました。しかし疑う人もいたと記されています。そこで主イエスは、彼らに近寄ってきて、次の3つのことを言われました。

 

第1は、復活の主の権威主張です(18節)。

第2は、復活の主の命令です(19-20a節)。

第3は、復活の主の約束です(20b節)。

 

ここは実に、マタイ福音書の締めくくりとしてふさわしい、すばらしい内容の込められた箇所です。ここからわたしどもの歩むべき道を学んでみましょう。

 

【メッセージのポイント】

1)18 イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。   (18節)

⇒ 一切の権能を授かった主イエスを信じよう。

第1は、復活の主の権威主張です。

マタイ福音書では、山に登るということがたくさん出てきます。主イエスはマタイ5章で「山上の説教」を語られました。山に登ってデカポリスの病人を癒し、4千人を養いました(15章)。霊的な変貌が起こったのも、まさに「山上の変貌」だったのです。いつも山の上で栄光を表された主イエスは、復活の後もその後自身の栄光を山上で表されました。

ユダヤ人は、厳密な意味での宇宙や世界を表す言葉がありません。彼らはそれを「天と地」と両極端の対句で表しました。「善と悪を知る実」「出ずるいるとを守る」等の表現があります。「天と地」の一切の権威を授けられたとは、そういう意味で、全被造物を意味する言葉です。主イエスは全被造物の上にあって全ての権威を与えられた存在となりました。

フィリピ2章6-11節にも同じような聖句があります。「6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。9 このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。10 こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、11 すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」

 

2)19 それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、20 あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。(19-20a節)

⇒ すべての民をわたしの弟子にしなさい !

さて、今日の主題の第2は、復活の主の命令です(19-20a節)。

主イエス様は、復活された後に、お弟子たちお命じになられました。19-20節の聖句は『大宣教命令』と言われる、非常に大事なものです。

この部分には動詞が4つ出てきます。

「行きなさい」、       「弟子にしなさい」、

「洗礼を授けなさい」、   「教えなさい」 の4つです。

でも、厳密な意味では、主動詞は1つで、あとの4つは分詞形で表現されています。その主動詞とは『弟子にしなさい』と言う言葉です。一番の中心の命令は、「弟子にしなさい」という言葉です。ですから、もうすこし厳密に訳すと「全ての民を弟子にしなさい。出て行きつつ、バプテスマを施しつつ、教えつつ」となります。クリスチャンの生き方は、このところから見ると、自分が主の弟子となり、造りかえられ、他者を主の弟子と造りかえてゆく生涯であるということになります。

先日、Torch という集会に出ました。月曜日の夜に文京区シビックホールに1400人が集まりました。大変、熱のこもった集会で、ライトDeナイトなどが参加。最後にメッセンジャーがすばらしいメッセージをしました。その話の中で会衆にチャレンジをしました。「あなたはキリストのファンです?それとも弟子ですか?」。

わたしはそれを聞いて1980年代の、「青年宣教大会」を思い出しました。あのころわたしも30代でした。会場は御殿場東山荘。あそこで守部さんや岸義紘先生、大川従道先生、田中信生先生、多胡元喜さんなどと出会い、多い時には1000人近くの青年たちが、集まった集会でした。そこで語られた宣教大会のメッセージも「主の弟子となれ」というメッセージでした。

 

それならいったい「弟子」とはどのような人なのでしょうか?

 

主の弟子① 洗礼を受けて、主イエスにしっかりとつく人

彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、(19節b)と言われています。主の弟子になることのひとつは「父と子と聖霊の名によって洗礼を受ける」ことです。バプテスマを施しつつ弟子とせよと命じられています。厳密に訳せば「父と子と聖霊の名の中へと(into)バプテスマせよ」となっています。これは式としてのバプテスマはもちろんのことですが、更には、主イエス様の恵みに満たされ、その恵みの中に漬けられて、キリストの命を生きる人のことです。15日、加藤輝夫兄も病床で洗礼の恵みに与りました。秋葉姉は、自分が救われた時から、「父にも同じ救いを与えてください。」と思ったそうです。わたしも自分の洗礼を受けた時は、人生の最善の時!でした。「生きるはキリスト、死ぬるは益なり」。キリストの恵みに生きる喜びの生涯のことです。ハレルヤ

 

主の弟子② 聖書をよく学び、教えることのできる人。

あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。(20a節)と語られています。主の弟子の特徴の第2は「主イエスから良く教えられ、良く学び、また、他者に教えることのできる人」のことです。動物の世界や人間の世界でも、成人になった印のひとつは子供を生むことの出来ることではないでしょうか。クリスチャンも同じで、真のクリスチャンは自分が救われたのをはっきりと理解し、まわりの友人や家族に伝え、その伝えられた者が更に、他者に伝えるという方法です。現在多くの教会ではこれらの「弟子となる学び」を整えて、成熟したクリスチャンとして聖書を霊的に黙想しながら歩む手助けをしています。復活の主は成熟したクリスチャンを求めておられるのです。

 

主の弟子③ 積極的に、伝道に出てゆく人。

「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」(19節a)、とあります。ここでは、更に主は、出て行きつつ弟子にしなさいと語られています。ここに積極的な生き方をするクリスチャンの人生観がありま す。弟子達はじっとしていないで外に伝道に出てゆきました。教会の歴史はこの宣教の歴史です。

 

3) 見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(20b節)

⇒ 見よ!わたしは共にいる、再臨の朝まで!

さて、今日の第3は、復活の主の約束についてです(20b節)。

「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と語ってくださっています。「見よ!」があるのです。主の弟子として、世界宣教の大きなビジョンを前にすると、わたしどもは世界の大きさと自分自身の小ささに萎縮して出てゆけないのです。主はそのようなわたしどもに注意を促すかのように、「見なさい」とご自分を指し示しております。主イエスの臨在こそ、わたしどもの支えであり、助けなのです。

特に、マタイによる福音書は、その第1章に、主イエスの名前が「インマヌエル」と呼ばれると説明があり、神御自身が来て、地上の生涯を歩んでくださったことをから始まりました。マタイ福音書のほぼ中央の18章でも、「主が共にいてくださる」こと、「二人三人が一緒にいるところにはわたしも共にいる」との約束があり、この福音書の、最後の部分でも「見よ、わたしはあなたがたと共にいる」と主は語られます。

臨在の主を仰ぐ生涯!試練のときも、悲しみのときも、不安のときも、あるいはこの世のことに絶望するときも、この地上を去って御国に行く時にも、共なる主を仰ぐのです。栄光の主を仰ぐのです。「わが臨在汝と共に行くべし!」(出エジプト33:14)。これが勝利の中に歩む秘訣です。ハレルヤ

 

祈 り 】   わたしたちの救い主、教会の頭にして、天と地の一切の権能を受けた主イエスキリストの父なる御神よ。この朝もわたしどもを御前に引いてくださり、恵みの礼拝を心から感謝します。今日は、マタイ福音書の最後の部分、復活の主イエスの全世界への恵みの御言葉、「大宣教命令」を共に学びました。今、復活された主から恵みをいただきます。どうぞ、霊の目を開いて、復活の主イエスに与えられた権威に目を開くことができますように。また、主の弟子として成長させていただけますように。ここから出て行き、父と子と聖霊の名によってバプテスマを施し、聖書の指し示す真理を学び続ける忠実な弟子としてください。また、この一年、臨在の主イエスをいつも心に留めて歩む恵みのあふるる1年としてください。罪の赦しと永遠の命を与えてくださった愛する主イエスの御名によって祈ります。アーメン