説教「万軍の主、共におられる」

2019年6月23日 主日礼拝
聖書箇所:詩篇46
説教:深谷春男牧師

先週はチャペルシアターで中村啓子さんの朗読と渡辺康子さんのバイオリンで本当に素晴らしい時を持ちました。担当された「ぶどうの実」のスタッフの皆さんに感謝を表したいと思います。それにしても先週は、三浦綾子さんの「道ありき」「氷点」の朗読テープを聞きながら、今さらながら、三浦文学に感動しました。主の十字架の贖いによって、救われるのでなければ、どんなにすばらしく、この世でエリートとして働いたとしてもすべては空しいこと、神様の救いの真実を再確認し、週報のコラムにも書かせていただきました。

さて、今日は、6月24日です。ホーリネス群の弾圧記念聖会が持たれます。1942年(昭和17)6月26日、早朝、旧ホーリネス教会系(日本基督教団第6部=聖教会と第9部=きよめ教会、東洋宣教会)の主だった教会に特高刑事が押し入り、治安維持法違反容疑による一斉検挙がおこなわれました。これらの検挙は3次におよび朝鮮半島や満州国も入れるとその数は牧師134名。昭和18年4月8日の日本基督教団第6部への「宗教結社禁止令」が通告された際の理由は、1)神宮に対する不敬 2)天皇に対する不敬 3)国体変革を企図せる罪 となっていました。我らの先輩方はこれらの不当な検挙、拘束、投獄、拷問等によって辛酸を味わい、獄死した小山宗祐師、菅野鋭(とし)師、斉藤保太郎師、辻啓蔵師、小出朋治師、そして出獄後死亡した方は、竹入高師、池田長十郎師、佐野明治師、多くの方々が、主イエスへの信仰の忠誠を全うし、厳しい霊の戦いを戦い抜きました。終末的な色合の濃い今日、彼らの壮絶なる戦いを思い起こし、その信仰に学びたいと思います。

【 詩篇第46篇の概略と区分 】

さて、詩篇46篇は、ルッターの愛唱の詩として名高いものです。1517年10月31日、宗教改革者のマルチン・ルッターが、ヴィッテンベルグの城門に95箇条の提題を掲げ、ついに宗教改革の火蓋が切られました。この詩編は「宗教改革の鬨の声(War Cry)」とも呼ばれます。この詩は大変堂々としたものであり、ドイツの旧約学者のキッテルは「かつて歌われた最も壮大な信仰の歌である」と言ったというものです。預言者イザヤの影響を受けたと思える預言者的詩人の霊感あふるる詩です。この詩の堂々たる調子は「創造、歴史、終末」というような広大なスケールがテーマとなっていること、また神が三人称で描かれ、その叙述には多くの名詞が使用されていることによると言われます。A ・バイザーによれば以下のような構造になっています。

1―   3節  創造:神の創造の世界が原始の大海に飲み込まれるような激動のさま

4―   8節  歴史:神のいます都の平安と諸国民の騒乱と戦争。

9― 11節  終末:神の驚くべきみ業としての平和。全世界での神礼拝。

【メッセージのポイント】                                           

1)1 神はわれらの避け所また力である。

悩める時のいと近き助けである。

2 このゆえに、たとい地は変り、山は海の真中に移るとも、

われらは恐れない。

3 たといその水は鳴りとどろき、あわだつとも、

そのさわぎによって山は震え動くとも、

われらは恐れない。〔セラ         (1~3節)

⇒ 混沌のただ中にあっても恐れるな!

第一部(1~3節)には大激動の時代が描かれます。大地が破壊され、不動と思われていた山々が海の真中に飛び込むような、また、原始の大海が泡立って怪物のようになり轟く様が歌われています。天地創造の際に神の秩序によって支配された「混沌」が勢いを盛り返し、人間の世界を飲み込もうとする姿をここに見ることができます。ちょうど、ビデオを逆回しにしたような、つまり、創世記1章の混沌から秩序へと言う歩みではなく、秩序から混沌へ、創造から破壊へと世界が動いているように感じられたのです。

しかし、この驚天動地の現実のただ中で、この詩人は「恐れない」(3節)と断言します。神が共におられるからです。神は「現場におられる神」(矢内原忠雄)だからです。

現代は、激動の時代です。人間の物質面でも、精神面でも、大激動が起こっている時代です。2011年3月11日の東日本大震災を例に挙げるまでもなく21世紀に入って、猛暑や大きな台風被害、異常気象や、地震の報道に驚かされます。また、相次ぐ戦争とテロのニュース。精神界の混迷はわれらの想像を超えています。21世紀は激動の時代です。目を覚まして知らねばなりません。

今日も午後3時から更生教会で「ホ群首都圏弾圧記念聖会」が開催されます。お時間のある方はぜひ、ご参加下さい。

伊藤馨師の証し:伊藤馨という先生がおられました。先生は札幌で長い間伝道されましたが、1942(昭和17)年6月26日の東条英機軍事内閣のもと、治安維持法違反で検挙、投獄されました。激寒の北海道はマイナス数十度になります。凍傷と戦った先生の投獄の証しは以下のようなものです。

「凍傷のために鼻は大福のように大きく紫に膨れあがり、やがて黒くなった。4月には雪解けがするように、わたしのからだが崩れだし、腐れだし、その臭気に悩んだ。両足の指、くるぶし、ひじ、耳、そして腰へと来た。手足は崩れて肉が出る。血がだらだらと出る日があり、足の親指は腐れて骨まで、ついに切断せねばならぬと医師が考えねばならないほどになった」

と先生は後で記しています。しかし、多くの方々の祈りに支えられて、奇跡的に癒され、終戦を迎えられました。先生の獄中記は「恩寵あふるる記」と題されました。この詩人の様に「現場におられる神」への信仰が、地獄のような現実を「恩寵あふるる世界」へと変えて行ったのです。 

2)4 一つの川がある。

その流れは神の都を喜ばせ、いと高き者の聖なるすまいを喜ばせる。

5 神がその中におられるので、都はゆるがない。

神は朝はやく、これを助けられる。

6 もろもろの民は騒ぎたち、もろもろの国は揺れ動く、

神がその声を出されると地は溶ける。         (4~6節)

  ⇒ 臨在不動の信仰を!

第二部(4―7節)は場面が急に変り、静かな、静かな川の流れ、朝もやたなびく清い神の都の描写で始まります。疾風怒涛、轟音とともにこの世を飲み込もうとする激動の現実を描写する第一部とは対称的に、神の平安と守りの清らかな神の都の世界が歌われます。口語訳聖書ではこのように訳されました。「一つの川がある。その流れは神の都を喜ばせ、いと高き者の聖なるすまいを喜ばせる。神がその中におられるので、都はゆるがない。神は朝はやく、これを助けられる。」これが詩人の魂の現実であり、神の平安のある所、聖霊の恵みに憩う救われた者の霊的な現実なのです。

山崎鷲夫師編集の「戦時下ホーリネス弾圧の証言」には多くの方々の投獄の体験が記されています。中でも淀橋教会の小原鈴子先生の証しはすばらしいものです。御主人の小原十三司師が投獄されて、70日目にようやく面会が許され、面会室であった時の証しです。

「留守になりましてからちょうど70日目に調べ室で面会が許されました。主人のおりました留置所は昼もすすけた高窓から薄暗い電灯が陰気な光を投げており、いきれ臭い耐え難い臭気が流れ出ています。時には三畳間に一六人も詰め込まれ、横にもなれないという所、その所に40日も居続けた主人を見るのですから、どんな疲れた姿であろうかと一種の恐れをもっておりましたが、一目見ました時、一切の杞憂は拭い去られ、「神共にいます」山から下りてきたモーセの顔の輝きを想像するものが漂っておりました。……略……」。

激しい試練の中にも、主の臨在のある所は常に不動の信仰があり、勝利に満ちているのです。ハレルヤ。

3)8 来て、主のみわざを見よ、主は驚くべきことを地に行われた。

9 主は地のはてまでも戦いをやめさせ、

弓を折り、やりを断ち、戦車を火で焼かれる。

10 「静まって、わたしこそ神であることを知れ。

わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、

全地にあがめられる」。      (8~10節)

 ⇒ 歴史の完成と全世界での礼拝!

第三部の8―11節では詩人は終末に起こる神の歴史支配の完成を歌っています。やがて、神の驚くべき救いのみ業が到来します。神は戦争を止めさせ、弓を折り、槍を断ち、戦車を火で焼かれる。「静まって、わたしこそ神であることを知れ!」と語られます。人間の画策をやめて、主に祈り、真実な礼拝をささげる事をこの詩は教えています。歴史の完成は神礼拝で終わるのです。天地創造の神のみ業は、人間の歴史を貫き、世の終末に至りますが、その全てが神賛美であり、その最後は栄光の神への礼拝で終わるのです。

兄弟姉妹!わたしどもも告白します。原始の混沌を支配して恵みの世界を創造された神が、混沌の現実を聖霊の流れの中で潔め分かち、終末の歴史の完成へと導かれる。「神はわが避けどころ、また力、悩める時のいと近き助け」。「神その中にいませば都は動かじ!」。「万軍の主共にいます!」と。 

【 祈り 】この世界の創造者、歴史の導き手、終末において礼拝されるべき父なる御神。今朝は、詩篇46篇を学びえました。詩人のように、わたしどもにも、揺るがない信仰を与えてください。原始の混沌を支配して恵みの世界を創造されたあなたがおられること、あなたがこの混沌の現実を聖霊の流れの中で清め分かたれること、終末の歴史の完成は、何よりもあなたを礼拝することだと学びました。「神、その中にいませば都はうごかじ」、「万軍の主はわれらと共にいます」と。マルチン・ルターのように、雄々しい戦いをされた先輩達のように、この世の惑わしや誘惑に負けることなく、主の栄光のために大胆に歩ませてください。われらのために十字架にかかり、罪を贖い、死を克服したもうた勝利の主イエスの御名によって祈ります。アーメン。