説教「苦しみに遭ったことは」

2019年6月16日 主日礼拝
聖書箇所:詩編119:65~72
説教:深谷春男牧師

なんぢは善にして 善をおこなひたまふ 68節 (文語訳聖書) 

クリスチャンの生涯は「恵みと慈しみがいつも私を追う」(詩篇23:6)の告白のとおりです。毎日、どのようなところを通っても、神の「最善と最愛」を信じて歩むのです。詩篇23篇6節によれば「最善」と「最愛」は、迷いやすい羊を迷わないように導く二匹のシェパードのようだと語ります。やさしく力強い天使のような「最善」と「最愛」に守られた人生です。

以前、詩篇103篇を学びました。そこには4回にわたって、「慈しみ」という言葉がでてきました。詩篇103篇は、そのような意味で「神の慈愛(ヘセド)の詩」であるということができると思います。神の慈愛が、個人の生涯にも、民族の歩みにも、全人類の歩みにも、全宇宙の被造物に至るまで満ちているのだということを学びました。

さて、今日はもう一人の天使、「恵み=最善(トーブ)」ということを共に詩篇119篇65~72節の箇所より学びたいと願っています。わたしたちの天のお父様、天地の造り主にして全能なる神様は、「善なるお方」なのだと聖書はいたるところで語っております。神様は「最善以外の何ごともなさらない!」という信仰の告白は聖書全体の告白なのです。一年間の歩みを振り返り、あるいは一週間の歩みを振り返り、神様の恵みを捜します。すると、心の内側に感謝がふつふつと沸き上がってきます。時には、悲しみを通過することもあります。しかし、主の最善と最愛の摂理の御手にやすらうときに、わたしどもは生きる力を得るのです。主は最善!なのです。

【今日の聖書の概説】

詩篇119篇は聖書では一番長い章です。この詩は日本風に言えば「いろは歌」でヘブル語のアルファベットに従って歌われている技巧的な詩です。しかも8節ずつまとまりをなし、1ー8節はすべて「アレフ」(=英語のA)から始まり、9ー16節はすべて「べス」(=英語のB)から始まると言う具合に。ヘブル文字は22文字あるため節は22×8=176節にも至る長大な詩です。

65節からは「テス」と言う文字(英語で言えばT)が各節の最初にきます。特にこの箇所は「トーブ(=最善・最高)」という語が6回も出てきますし、5回は各節の冒頭に来ています。

《神の計画は最善》65節、

《神の知識は最善》66節、

《神の本質は最善》68節、

《神の御業は最善》68節、

《挫折経験さえも神にあって最善》71節、

《神のみ言葉は最善》72 節。

ユダヤ人が「T」という文字から連想したのは「善」という文字でした。視点を変えてみれば、彼らは試練の中にあったからこそ、神の「最善」を信じて生きたのでしょう。この聖書箇所は実に「神の最善の詩篇」なのです。

 

【メッセージのポイント】

1) 65 主よ、あなたはみ言葉にしたがって

しもべをよくあしらわれました。      (65節)

⇒ 最善をなし給うた、わたしの人生に! 《神の計画は善》

   直訳は「善を あなたは行った(完了形) 」です。詩人は自分の人生を振り返って今、告白するのです。「あなたのわたしに対するご計画は最善のものでした。主よ、感謝します」。ここには深い人生肯定があります。この詩人の生涯は、ほかの箇所を見ますと、安易なものではありませんでした。いやむしろ、苦難に満ちたものであったようです。しかし、詩人は「神の摂理のみ業、神の歴史支配」を知っているのです。苦難に満ちた人生であったが、神の愛と真実に導かれた人生であった、最高の人生であったと、回顧しているのです。わたしどもも、自分の人生の最後に「最高の人生でした!」と主に感謝をささげる者でありたい。 

2) 68 あなたは善にして善を行われます。

あなたの定めをわたしに教えてください。  (68節)

⇒ あなたは善にして、善をなされる!《神の本質は善、その御業は善》この聖句は神様のご性質を良く言い表していると思います。われらの神は全能の神、聖なるお方、天地の造り主、歴史を導く主権者にして、世の終末の審判者です。わたしどもはこのお方の前に、深い畏れの念とへりくだりを持たねばなりません。しかし、ここでは特に、この主は「トーブ(=善)なるお方」であると繰り返し語っています。「トーブ」という言葉は旧約聖書には実に数多く記されています。創世記1章の天地創造の記事に、神の創造の業が「良かった」「良かった」「はなはだ良かった」というのはこの「トーブ」という言葉です。詩編23:6の「恵みと慈しみが追ってくる」というのも恵みは「トーブ」である。また、詩編103:5での「良きもので満ちたらせる」の良き物はこの「トーブ」が使用されています。また新約聖書のロマ8:28「全てのこと相働きて益となる」の「益」もへブル語訳は「トーブ」となっています。天のお父様は良き物で満ちておられる最善の方です。

もしも、われらの天のお父様が、いつもイライラして神経質に怒り散らしたり、ネチネチと人間を痛めつけるお方であるなら、誰一人本当の信仰を持つことはできないでしょう。でも、時々、神様に対して誤った観念を持っておられる方がおられます。

わたしが牧師になったときに、ある方がこのように語られました。「先生、わたしは神様を信じていますが、神様が怖くてなりません。神様はわたしをいつも見ていて、わたしの悪いところを直そうと、試練を与えられることを考えると、わたしは信仰を持てません」。これは彼女のお母様が、彼女を信仰に導こうとされて、小さなときに神様を、悪いところを暴き立てる警察官か何かのように語ったことが原因があるのではないかと思います。彼女はついに主を受け入れ、洗礼に至りませんでした。

神様は善にして善を行いたもう!この神様への告白はわたしはとても大事だと思います。自分に試練を与え、厳しいばかりのお方を信じる気にはなれないからです。神様はすばらしいお方です。本質は善であり、その行いは善。恵みあふるるお方なのです。主イエス様の御性質そのままのお方です。 

3) 71 苦しみにあったことは、わたしに良い事です。

これによってわたしはあなたのおきてを

学ぶことができました。           (71節)

⇒わたしにとって苦しみにあった事も善! 《挫折経験さえも善》 

  ここには詩人が「苦しみにあった」ことも神の最善の中にあったと告白しています。「苦しみ」の体験。それはそれを経験している当座は、嬉しいものではありません。しかし、神の不思議な歴史支配の恵み中で、全てが最善に変えられて行くのです。挫折と失意の体験が、不思議な神の慈しみの御手によって、最善とされたと詩人は告白し、賛美を捧げています。こう告白する時に詩人の心の傷はすでに癒されているのです。

群馬県桐生の泉町教会で礼拝の説教と午後の学び会の奉仕をしたことがあります。かつて奥国二先生が、40年牧会された所で懐かしさを覚えました。1983年4月23日の赤羽教会の週報に奥国二師の説教があるので載せます。 

「受洗70年の祝福」  奥国二牧師

私は彼をただひとりであった時に召し、

彼を祝福してその子孫を増し加えた。  ― イザヤ51:2 -

◇わたしは今年92歳。子供や孫が30数人。それぞれ牧師になったり牧師の奥さんになったり、今、神様の恵みを思うと感謝に耐えません。

◇わたしの人生は神様の祝福の中にありましたが、最大の試練は30代の終わり妻に先立たれたときでした。子供5人、居候2人をかかえた貧乏牧師。心身ともに支えの妻が召されては呆然として祈りの言葉も出ませんでした。そのとき与えられたみ言葉は「あなたは善にして善をおこなわれる」(詩119:68)でした。「こんなに苦しんでいるに、神様は善を行っておられるのですか?わたしには分かりません!」。するとまたみ言葉が来た「汝今は知らず、後にて知るべし」(ヨハネ13:7)。わたしはこのみ言葉に励まされて立ち上がった。「苦しみに会いたりしは我に良きことなり。これによりて我、汝のおきてを学びえたり」(詩119:71)とあります。

◇神様は最善以外の何ものをもなされない。恵みの主はほむべきかな!!

また、その日のコラム「明日を開く命の言」にはこうあります。

奥国二師は今年92歳・・。青年の頃結核を患い、「死んだらどうなるのか?」ということばかり考えていたのだという。しかし、主の福音に触れて、魂ばかりか肉体も癒され、強められた。「主を信じて以来70年、信仰生涯中、一度も医者にかからず、薬を飲まず・・」。三人の医者がさじを投げたかつての弱々しい結核青年が92歳になって、今、堂々と輝きに満ちて希望の福音を語る。驚き。主は癒し主。ハレルヤ! 

【祈祷】 天のお父様。「善にして善を行い給う」あなたのゆえに感謝します。苦しみのただ中にあるときにも、試練のただ中にある時も、あなたを見上げ、神の歴史支配に信頼を寄せつつ感謝と平安の道を歩みます。この一週間も信仰の道を大胆に歩みます。「善にして、善を行なわれる」あなた御自身の御手を仰ぎつつ歩ませて下さい。御名によって祈ります。アーメン