説教「ひとつにされて」-たいせつなあなたー

2019年6月30日 主日礼拝
聖書箇所:使徒行伝2:43~47
説教:深谷美歌子牧師

きょうはファミリーサンデーです。わたしたちの愛する家族が、今日、教会に来られて、神の家族ともされることを、心から祈っています。なぜ家族が慕わしいのでしょう?私の生まれ育った家庭は、牧師家庭でした。貧しい生活でしたが、子供の頃で、貧しい自覚がなく「こんなお芋いらない!」などと、ご飯の足しに入れてあるお芋を邪魔者扱いしたり、糊を持ってくるように学校で言われて、父がお米を潰して持たせようとしたことを怒ったりしていました。これぐらいのことはできるはずだとの思いが強かったのです。今思えばなんと悲しい思いをさせたのかと、身が縮む思いです。こんな子でも愛してくれました。

このごろある方のお母さんの思い出を読みました。「産んでくれと頼んだ訳ではない!」と父に当たりたいのを、母に当たった。もう一度会えるなら、お詫びを言いたいと書いていました。彼は低学年の時、通知表が1,2の評価が多かったが、私の子だから、決して頭が悪いわけはない。と言い続けてくれたお母さんのお蔭で、高校では上位10番以内にいつも入っていた。お父さんも優しくなったから、一緒に食事しよう、と上京して、3人で食事し、おとうさんの手前、おごらせて、そっと1万円置いて行った。その交わりがお母さんとの最後の時だった。とのことでした。それぞれに家族の思い出がありましょう、悲しい思い出も含めて。家族はありのままの自分を知っています。互いに赦しあい、愛し合って一つになれたら、そこが天国です。そして真の赦しと、愛は、イエス様からのみきます。教会こそ神の家族です。

きょう開かれた聖書の中には「一つになって」(口語訳では一団となって、一緒になって、心を一つにして)ということばが3回出てきます。

イエス様が昇天されるまでの40日間「神の国について話された」と書かれていましたが、一つになるということは、イエス様が求めていたことが起ったのではないでしょうか? 

【今日の説教箇所の概説】

1章14-15節 一団となって祈っていた。

43節 全ての人に恐れが生じ、使徒による奇跡が多く起こった。

44-45節 信者たちは一つになって財産を共有にし、必要に応じて分け合った。

46節  心を一つにして宮もうでをし、家でパンを裂き、・・食事を共にした。

47節 神を讃美し・・人に好意を寄せられ、主は救われるものを加えてくださった。(新共同訳一つにしてくださった。) 

【メッセージ・ポイント】

1)心を合わせ、一団となって祈っていた。       

1:14 彼らはみな、婦人たち、特にイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちと共に、心を合わせて、ひたすら祈をしていた。15 そのころ、百二十名ばかりの人々が、一団となって集まっていたが、ペテロはこれらの兄弟たちの中に立って言った、(1章14・15節)

聖霊降臨のできごとは、主の約束を待ち望んで祈っていた弟子たちの上に起りました。W・Hウィリモンは『ある意味で、祈りは教会が神にその約束を守らせようとする大胆な、不遜でさえある試みである。・・・こうして祈りとは、神はその約束に忠実であるという信頼、神がご自身に真実であるという信頼から生まれた、大胆さなのである。』と書いています。主は天に帰られる前に、「父が与える聖霊があなた方に臨むまでは都にとどまっていなさい。」と言われました。彼らは待っている間、一つになって祈っていました。復活の主に出会いましたが、彼らはまだ力がありませんでした。そこで、求めよとの言葉に従って求めたのでした。

神は求めるものに聖霊をくださる。と約束されています。この約束を握りしめ、信頼し、祈る。これは神様を揺すぶるようなことです。「神様あなた様が約束されたのです。どうぞ聖霊様をください。」と祈ろうではありませんか。 今はすでに、あの初めのペンテコステにおいて、『終わりの時にわたしの霊をすべての人に注ぐ。』といわれたことが成就した時代です。2章1節の「五旬節の日が来て」という言葉は「満ちて」と訳され得る言葉です。神様の時があの時に満ちたので、すでに聖霊様はすべての人に注がれています。 一つになって求めたということは、イエス様が期待していたことだったのではないでしょうか?母マリヤとイエスの兄弟たちと共にとあります。イエス様の活動を引き留めようとしたこともある肉の家族が、今や一つになって聖霊を求めて祈っていました。 その時、聖霊がくだられたのでした。

今聖霊は全ての人に注がれていると言いましたが、心を開かなければ受け取れません。私達も心を一つにして、聖霊様が全ての人に触れてくださるように祈りましょう。

2)信者たちはみな一つになって  

 42 そして一同はひたすら、使徒たちの教を守り、信徒の交わりをなし、共にパンをさき、祈をしていた。43 みんなの者におそれの念が生じ、多くの奇跡としるしとが、使徒たちによって、次々に行われた。44 信者たちはみな一緒にいて、いっさいの物を共有にし、45 資産や持ち物を売っては、必要に応じてみんなの者に分け与えた。   (42-45節)

聖霊の降臨はペテロたちを力付け、大胆にイエス様のことを語りました。

その結果は前回の学びの通りで悔い改めバプテスマを受けた人々が3000人も起こされました。使徒によって、奇跡が次々行われ、目覚ましい神の業が現れました。そして、信徒は一つになって持ち物まで共有にし、必要に応じて分け与えられました。これは自発的な行為でした。アナニヤとサッピラが「全部です」と土地の代金をごまかして持ってきた時、「聖霊を欺いた。売らずにもっていても売ってもあなたの自由になったはずではないか。」と言っているからです。

罪の赦しを得るための悔い改めとイエスキリストの名によるバプテスマを受け、聖霊に満たされたとき、教会が生まれ、それぞれが持てるものをもって愛し合う神の国が生まれたのでした。

3)日々心を一つにして 食事を共にし   

 46 そして日々心を一つにして、絶えず宮もうでをなし、家ではパンをさき、よろこびと、まごころとをもって、食事を共にし、47 神をさんびし、すべての人に好意を持たれていた。そして主は、救われる者を日々仲間に加えて下さったのである。    (46,47節)

これまで、聖霊様が来られたのは、信仰者の確信のためであったと思ってきました。この度、学びながら、目的は教会であったと分かりました。すべてのものを共有にし、ひたすら神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、食事を一緒にし、神を讃美したとあります。

全ての表現は、「食事を一緒にした。」にかかっているのだそうです。

家族は食事を共にするものですね。神の国は神の家族、「食事を一緒にする」ものです。しかしこの最初のあり様は、エルサレム教会だけだったらしいです。再臨がすぐにも起こると思っていたので、このようにしたのではないかと推測している方もあります。でも今の教会も原則は変わりません。それぞれの生活の場から、教会に集い神を礼拝し、讃美を捧げ、御言葉に生かされ、赦しを頂き、愛し合い、祈り合い、捧げものをささげます。ここではだれひとり欠けてはならないのです。誰が偉い、誰は必要ないという世界ではありません。家族ですから。

ここを学んでいて、ある方が、御業が進まないのは、なまぬるいからだと書いていて、あーと思いました。ラオデキヤの教会は、「なまぬるいので吐き出そう。」と言われています。でも自分の力ではできません。聖霊様により頼みましょう。互いに赦され合って。ひとつにされますように。

テモテへの手紙の2章1節に「まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とを全ての人々のために捧げなさい。」とあります。

最初の教会がひとつになって祈っていた時に聖霊が降ったことを見ました。初代教会が救われる人が加えられたのは、神の国がそこにあったからでしょう。心を一つにして祈り求められるようにまず祈りましょう。

老いも若きもお金持ちも、貧乏人も、秀才も、そうでない人も神の家族として礼拝し、食事を共にする神の国、教会が広がって行かれますように。

祈り

神様、一つになって祈っていた時、聖霊様がきてくださいました。人々が悔い改めて、バプテスマを受け、聖霊の注ぎを受け、それぞれの持てるものを出し合って、ひとつにされました。今この原則に生かしてください。互いに祈り合い聖霊様の助けを与えて、愛し合うものとしてください。 御名によって祈ります。アーメン