説教「祭壇を築き、主の名を呼ぶ」

2019年7月14日 主日礼拝
聖書箇所:創世記12:5~6
説教:深谷春男牧師

先週の日曜日の午後に、栃木県の宇都宮の近く上三川(かみのかわ)教会で献堂式がありました。上三川は小さな田舎の町だったそうです。猪瀬ノブというお産婆さんが信仰を持って、御自分の田舎に帰って来られて、何とか神様の恵みをお伝えしたいと伝道を始めました。長い間、御家族を中心に礼拝を捧げて来られましたが、ついに立派な教会堂が立ち、司式の野口佳男先生や兄弟姉妹が喜びの礼拝を捧げておりました。会堂にお祝いの方々が溢れ、讃美と感謝の声がこだましておりました。近くの教会からも大勢の方々が来られ、お祝いをと言われて、次のような祝辞を述べさせていただきました。

「皆さん、今日は献堂式おめでとうございます!山室軍平先生が、イギリスの有名な詩人コールリッジの詩を紹介しております。「聖日礼拝は、1年に52回巡ってくる春である」。寒さに凍えるような試練の冬も、厳しい人の言葉や複雑な人間関係の中で疲れ果ててしまうような凍てつく悲しみの夜も、神の御前に出でて、神の愛の御言葉を聞き、神様の御慈顔を仰ぐ時に、それは春がやって来るような出来事、天国の窓が開き、天使の歌声と共に小鳥が歌い、恵みの花が咲き、命の泉がわきあふれる、人生に春がやって来るというのです。こちらの教会は上三川(かみのかわ)教会というすてきな御名前です。先ほどから「かみのかわ」「かみのかわ」というお祝いの言葉を聞きつつ、わたしは詩篇65:11に「神の川に水満ちたり」という聖句を思い起こしていました。天からの命の水である聖霊の満ちあふれた神の川教会として、いつも祝福に満ちた礼拝を捧げつつ歩んでください。「聖日礼拝は、1年に52回巡ってくる春です」。本当におめでとうございます!」

さて愛する兄弟姉妹。わたしどもは今、「一年に52回巡ってくる春」を実感しながら、恵みの礼拝をささげています。感謝で一杯です。

【テキストの解説】

先ほどお読みいただきましたイスラエル民族の父、アブラハムは、「信仰の父」とも呼ばれておりました。聖書の信仰は、まさにアブラハムから始まると言ってもよいでしょう。このアブラハムの生涯の特徴は、いつも祭壇を築いて歩んだことです。彼はいつも礼拝をささげ、神の御顔を仰ぎつつ歩みました。それは一言でいえば「呪いの世界を祝福に変える」大きな使命をもって登場したことでした。

先週、学びましたように、アブラハムの登場する前の聖書箇所、すなわち、創世記3章から11章では、人間の罪の本質が語られ、救いのなさが宣言されます。神はこの絶望的な人間の罪と死の世界に、神の救いの業を始められました。それは、信仰者アブラハムの選び、そして、神の民を形成すること、礼拝共同体の形成でした。

信仰の父、アブラハムは75才にして信仰の旅へと出立しました。妻のサライと甥のロトを連れて、今まで貯えた豊かな資産をも携えてカナン地方へと旅立ちました。当時、カナン地方(今のパレスチナ)はカナン人が住んでいました。彼はシケムの聖所、モレの樫の木まで来たときに、神の声を聞き、そこに祭壇を築き、天幕を張りました。シケムはパレスチナの要地です。東西の街道と南北の街道の交差する町でした。考古学からも紀元前19世紀にはかなりの街であったことが知られています。アブラハムは祭壇を築きつつ,

主の御名を呼びつつ歩みました。礼拝の民の原型がここにあります。

 

【メッセ-ジのポイント】

1)7 時に主はアブラムに現れて言われた、「わたしはあなたの子孫にこの地を与えます」。(7節a)

 神の言葉に導かれる生活を!  

アブラハムの新しい歩みは信仰の歩みでした。それは神を信ずる信仰生涯であり、神の導きに全幅の信頼をおいた生涯でした。6 節には「アブラムはその地を通ってシケムの所、モレのテレビンの木のもとに着いた。そのころカナンびとがその地にいた。」と記されます。初めはシケムに留まりました。

7節には、信仰の原点となる神の顕現と神の言葉が記されています。神は「モレのテレビンの木の下で、アブラハムに現れ、彼に御言葉を与えられたのでした。「あなたの子孫にこの地を与える」と。アブラハムはこの神の言葉、神の約束を信じて歩んだ。彼は神の言葉に深い信頼を置いたのでした。信仰の父としての旅路。それは平坦な道ではありませんでした。むしろ、それは、困難な、危険を伴う旅でした。しばしば、つまずき、倒れかかるような険しい旅路でもあり、疾風怒濤の日々もありました。しかし、彼の生涯はいつでも「主の御言葉」に導かれる歩みであり、御言葉に支えられての旅でした。祝福の生涯はみ言葉への信頼に始まるからです。

わたしたちの生涯もそうではないでしょうか?自分の進むべき道を求める時に、聖書を通して、礼拝を通して、神様の導きの言葉が語られます。試練のただ中にある時も神の深い慰めの言葉が語られます。ここぞ!という人生の絶体絶命の時には、神からの生涯忘れることのできない言葉が語られます。

アブラハムの生涯で言うなら、彼は信仰の出発で「祝福の基となる」との御言葉が当たられました(12:2)。厳しい荒野の旅で「あなたの子孫にこの土地を与える」との言葉が当たられます(12:7)。信仰義認の言葉が与えられました(15:6)。アブラムからアブラハムへ(諸民族の父)との名前が与えられました(17:5)。主の山に備えあり、アドナイエレの御言葉が与えられました(22:14)。

わたしも洗礼を受けて新しい人生に入る時 詩編23:4

試練のどん底で、もう、生きるのも嫌になっていた時に 詩編43:5

献身の決意の時に 詩編108:2

神学校での霊的な刷新の時に 創世記17:1

結婚の時に 申命記32:30

吉川派遣の時の聖句 使徒16:31

わたしの生涯を貫く最愛の聖句 詩編23:6

66歳の誕生日には、イザヤ書43:1~5

新宿西教会への赴任の時には、詩篇90:1が与えられました。

わたしどもの生涯、いつも神の言葉、聖書とともに、聖書に導かれる生涯でありたいと思います。

2)アブラムは彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた。(7節b)

  ⇒ まず祭壇(礼拝)を築け!

さらにここでは、アブラハムの生涯が、この神様からの呼び掛けに、応答した生涯であった事が記されます。すなわち、彼は、この語り掛けられた神に応答し、「祭壇を築いた」のです。これは神への礼拝の姿勢の表現です。どのような祭壇であったかは詳細には分かりません。しかし、彼は、祭壇を築き、主の名を呼びました。彼の信仰の生涯は、揺るぎない祭壇の建立に始まるのです。アブラハムの信仰の父としての生涯は「祭壇を築いた」というこの一語の中に、語り尽くされています。わたしどもも、日曜日の礼拝の祭壇を築きつつ歩みたい。また、できれば木曜日の祈祷会という祭壇も朝ごとの祈りの祭壇も整えて歩みましょう。

まさに、「聖日礼拝は、1年に52回巡ってくる春である」との告白はわたしたちの魂の奥底からの告白です。なぜなら、新約においても旧約においてもわたしどもの原点は「礼拝の民」であるからです。エリヤは、バアルの預言者とカルメル山上で戦いをした時に「壊れた祭壇を立て直して」霊の戦いに向かいました。(列王上18:30)

3)8 彼はそこからベテルの東の山に移って天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。そこに彼は主のために祭壇を築いて、主の名を呼んだ。

 ⇒ 天幕をしっかりと張れ!油断するな。         (8節)

アブラハムは天幕(テント)を張ったと記されます。これは彼と家族のための生活の場でした。アブラハムはその生涯を通して天幕(テント)に住みました。天幕は羊の皮で作られた質素なもので、移動するときには30分でたたみ、移動することができたといわれます。彼の生涯は、神様の導きに従う時に、いつでも動ける天幕がその住いでした。その天幕には、深い祈りと愛と信頼を宿したものだったと想像されます。そこには主の臨在と安らぎがありました。信仰の家庭はこの天幕で育まれました。

祝福された信仰の生活は「御言葉と祭壇と天幕」に象徴されます。

しかし、この世での天幕は、べテル(神の家=教会での礼拝等)とアイ(塵の塚=この世の罪の誘惑や栄華等)との間で張らねばならなかったと言われます。アブラハムはしっかりと天幕を張ります。カナン地方での生活は、実に象徴的でした。ユダヤの言葉では、ベテルは「神の家」、アイは「塵の塚」という意味です。アブラハムの生涯はテントの住まいです。西にべテル、東にアイの間にテントを張りました。わたしどもも、信仰生涯をこの世で送るときに、同じような体験をいたします。すなわち、べテル(神の家=教会での礼拝等)とアイ(塵の塚=この世の罪の誘惑、この世の栄華等)との間で生活するのです。いつでも、神の家(べテル)を忘れてはなりません。

信仰の父アブラハムの生涯は、「神のみ言葉への信頼」、「祭壇を築くこと」、「天幕をしっかりと張ること」でした。礼拝を生活の中心に位置づけ、安定した霊的な生涯を証しする生涯でありたいと思います。

【祈り】 天の御父。恵みの礼拝を心から感謝します。信仰の父、アブラハムが、行く所行く所でまず祭壇を築いて、主の名を呼びながら歩む姿を学びました。わたしどもも礼拝の民として歩ませてください。礼拝の中であなたの御言葉を聴くことができますように。祭壇が崩れないように、生活を整え、勝利の日々を歩めるように。また、べテルとアイの間の住まいがあります。ベテル(神の家)を忘れることなく、礼拝を、信仰の歩みを家庭生活の中心に据えて、あなたのもとに帰った時に「善かつ忠なる僕、よくやった」と言われる生涯を整えてください。主イエスの御名によって祈ります。アーメン