説教「アブラハムは主を信じた」

2019年8月11日 主日礼拝
聖書箇所:創世記15:6
説教:深谷春男牧師

ここ2回ほど、アブラハムの信仰について学んできました。信仰の父アブラハムの信仰を学ぶことは、とても大切なことでありますし、うれしい事であります。75歳で召命を受け、神の恵みの世界、祭壇を築いて礼拝を中心とした新しい人生へと歩み始めました。しかし、厳しい現実に直面し、エジプトに降ると言う挫折を経験。更に甥のロトとも別れ、ケダラオメルの軍隊に拉致された親族を助けます。今日の箇所では、彼は「信仰の義認」を受けるという、まさに「信仰の父」アブラハムの霊的な一段階を見ることになります。

ご存知のように宗教改革はマルチン・ルターの「神の義の発見」から始まりました。それは、新約聖書のロマ書とガラテヤ書の研究と旧約聖書の詩編の研究から始まりました。ロマ3:21~26とガラテヤ2:16にある「信仰義認」の信仰は、実は今日の聖書箇所、創世記15:6と深い関係があります。

 【テキストの位置と概略】

今日の箇所ではアブラムは「信仰の英雄」として立っています。信仰の父アブラムは、その信仰によって神に義とされたという箇所です。神はここで彼に子孫と土地の授与を宣言されました。全体の概略は次のようになります。

1節 神の幻の中での出現。「恐れるな」「我は汝の盾なり」と語られる。

2―3節 子供がないとのアブラハムの訴え。ダマスコのエリエゼルに言及。

4節 「あなたから生まれるものが跡を継ぐ」との神の宣言。

5節 神はアブラハムを外に連れ出し、星の数を数えさせる。

6節 アブラハムは主を信じ、信   仰義認の証印を受ける。

メッセージ・ポイント

1)主はアブラハムに、土地の授与をも約束する。  「アブラムよ恐れてはならない、あなたの受ける報いは、はなはだ大きいであろう」。

恐れるな。我は汝の盾なり!

「恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの報いは大きい」と。先日、ある方と話したことがありました。その人はエレベーターが弱いと言うのです。サンシャインのような高いところのエレベーターには乗れないそうです。「どうしてですか?」と聞きましたら、「地上、50階、60階という高さを考えるととても不安になります。もしも、エレベーターがガラス張りだったら60階の高さから下を見たら、身がすくんでしまうじゃないですか?」人間は、ちいさな、ちいさな存在です。ちょうど、地球の表面が、もし、オゾン層によって保護されなければ、赤外線で焼かれて、生物が存在できないように、神の守りの盾なくして存在し得ないものです。人は、この創造主との深い信頼関係なくして、こころの平安も喜びもないのです。「幻、ビジョン」はマハゼーというへブル語です。これは動詞の.ハーザー「霊的現象を見る」(出24:11)と同じ語源の言葉です。主は今朝わたしどもに語られます。「恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの報いは大きい」と。恐れることなく大胆に、信仰に堅くたって歩みたいものです。

「盾」(マゲン)は小楯のことで、敵の矢や剣をよけるために使用する武器です。詩編3:4等 などにもその使用の例が示されます。恐れるな!主こそ盾!と聖書は語っています。「なーるほど」と思いました。想像力が豊かなんですね。今日、神はアブラハムに語ったように私どもにも語っておられます。人間はいつも様々な不安や恐れの中で生きています。そのような不安や恐れは私どものクリスチャン生涯を萎縮させてしまいます。自分の主人にもしものことがあったら、うちの会社にもしものことがあったら、子供たちの生活にもしものことがあったら・・・。人間の生きている世界そのものが考えてみれば実に不確かなものなのです。地球そのものも全宇宙から見れば豆粒もないほどのものです。宇宙の中の小さな異変が起こることを考えただけでも、不安と恐れで一杯になってしまうのです。

この時に、アブラハムは何らかの恐れをもっていたようです。これは前の14章の記事にある強力な軍隊ケダラオメル軍の反撃を恐れたのかもしれません。あるいは別の事であったのかもしれません。神は幻のうちにアブラハムに臨んで語られました。

2 アブラムは言った、「主なる神よ、わたしには子がなく、わたしの家を継ぐ者はダマスコのエリエゼルであるのに、あなたはわたしに何をくださろうとするのですか」。(1―2節)わたしはあなたの盾である。1)1 これらの事の後、主の言葉が幻のうちにアブラムに臨んだ、

     

2)3 アブラムはまた言った、「あなたはわたしに子を賜わらないので、わたしの家に生れたしもべが、あとつぎとなるでしょう」。4 この時、主の言葉が彼に臨んだ、「この者はあなたのあとつぎとなるべきではありません。あなたの身から出る者があとつぎとなるべきです」。5 そして主は彼を外に連れ出して言われた、「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみなさい」。また彼に言われた、「あなたの子孫はあのようになるでしょう」。 (3-5節)

⇒ 天を仰ぎ、星を数えよ!        

神様はアブラハムの心に、ご自身の持たれる壮大なビジョンを焼きつけるためでしょうか、彼を戸外に導いて、「天の星を仰げ」と命じられました。そして、その星の数を「数える事ができるなら数えてみよ」と言われました。この出来事はアブラハムにとって生涯忘れる事のできない体験となり、自分の子孫を考える時に、夜空に輝く星のイメージがいつでも湧いてきたのだと思います。

「仰ぐ」は「じっと見る(ナバト)」という語で、ジーっと凝視することを意味しています。神様はしばしばその人を導くのに、美しいビジョンや象徴や夢でなされます。ヤコブには「はしごの夢」、ヨセフには「麦束の夢」と「太陽と月と11の星の夢」、モーセにとっては「燃える柴の幻」、ギデオンにとっては「湿った毛皮」とか「転がり込むパン」「壷とたいまつ」など、聖書はとてもユニークな興味深い象徴的な体験が盛り込まれております。新約聖書のパウロも、キリストに出会った「ダマスコ途上の体験」を使徒言行録で3度も語り、印象深いものです。          

以前、聖書研究祈祷会で、この箇所を語りました。何回も語って、夜の10時過ぎの集会の時に、目をつぶって祈っていると、アンドロメダ星雲のような宇宙の世界がパノラマのように広がり、心の内側に宇宙を抱くような、神様の恵みが宇宙大であるかの、深い恵みの世界を体験しました。                                            

6 アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた。(6節)  

 信仰義認の基本へ帰ろう!  

「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」 (6節)。この一句は聖書の中でも最も重要な聖句の一つです。特にプロテスタント教会にとっては、「信仰義認」の基本的な信仰告白に関係します(ロマ4:2、9:16、ガラ3:6、ヤコ2:23、ハバ2:4)。アブラハムは天を見上げ、星を数えるうちに天地万物を創造された神の全能の力に、目が開かれ、もう、高齢になり、実子を望み得ない現実にもかかわらず、主の約束成就を信じて「アーメン、主よ、信じます!」と告白しました。この信仰を主は喜んで、アブラハムを義と認められたのでした。「認めた」は「ハーシャーブ(思う、考える、認める)」は祭儀用語で祭司が供え物を認定する事を言う(レビ7:18)」。新約ではロギゾマイという言葉で翻訳されました。  神を信じると言うのは、神様との真実な交わりを言います。神との真実な交わりは、人格的な交わりを意味しております。アブラハムのように、召命ー礼拝の生活―挫折ー義認―聖化 という風に成長してゆきたいものです。信仰から信仰へ、恵みから恵みへ、栄光から栄光へ、力から力へ、勝利から勝利へと進みましょう。  「アブラハムは神を信じた」この一語は非常な重さを持っています。 聖書の中心と言われるロマ3:21~26などは、はっきりと「イエスキリストを信じる信仰によって義とされる(=救われる)」と語ります。さて、最初に言いましたが、マルチン・ルッターの宗教改革は、「聖書信仰」聖書は一体何と言っているのかという主題のもとに始まりました。当時のカトリック教会が、悪名高き「免罪符」(= 「贖宥状」と表現することが多くなりました)を売って、これを購入すればあなたの救いは確定すると語ったことに対して、ルターは「聖書が語る、『救い』とは、このように『贖宥状』を購入すれば与えられるというものではない。それは『信仰義認』というべき内容である。アブラハムが神を信じて義とされたように、わたしどもも、『神を信じて義とされること』である。」と語ったのでした。

「義」は「ツェダカー」で神殿の「入場許可式」の宣言(詩24:5、エゼキエル18:9)と関係します。そのような意味では、神に義とされるというのは、神の御前でその存在を認めていただくことで、礼拝堂へと入り、主に相まみゆることを許されると言う意味です。そのような意味では、「義とされる」は新約聖書風に考えれば、救われること、天国へ受け入れていただけることを意味しています。いわば「天国へのパスポート」というような意味になります。                       「信じる」は「アーマン」という語で、この語から「アーメン」という言葉が出ました。信仰とはまさに神の語られた言葉の真実を深く理解して、アーメンと応答して歩む生涯ですね。十字架も復活もまさにアーメンです。

【 祈り 】 天の御父。恵みの聖日を感謝します。今朝は創世記15章よりアブラハムの信仰を学びました。どのようなときにも「恐れるな。我は汝の盾なり!」の御言葉を覚えて、あらゆる困難、試練にも、恐れることなく、信頼し、平安の中に進ませてください。また、いつでも無から有を呼び出される全能の神を信じ、わたしどもの小さな心のうちにあなたの創造された宇宙大の広がりを与え、豊かな祝福の中を歩み行かせてください。何よりも、わたしどものために十字架にかかり、わたしどもの罪を身代わりに負い、贖いの業を全うしてくださり、罪と死の現実を、救いと永遠の命に入れて下さった恵みを感謝します。この暑い夏も「信仰義認の大道」を大胆に歩ませ、13日、14日の、「日本伝道の幻を語る会」の上にも、このアブラハムの信仰に立ち、日本にリバイバルを来らせて下さい!主イエスの聖名によって祈ります。アーメン