説教「上を向いて歩こう」

2019年9月29日 ファミリーサンデー礼拝
聖書箇所:創世記28:16~22
説教:深谷春男牧師

「上を向いて歩こう!」。今回の説教題は、ファミリーサンディということで、いつもと違った感じで付けさせていただきました。坂本九ちゃんのこの歌は1962年の大ヒット曲でしたね。ネットで調べてみたら、出てくるわ、出てくるは・・・・。いやになるほど、いろんな情報が書き込まれておりました。この曲がつくられたのは1961年7月。坂本九ちゃんのデビューの時に、ぶっつけ本番で、2時間前に手渡されて、歌った歌だとか。作詞が永六輔さん、作曲が中村八大さん、歌ったのが坂本九さん。「6」「8」「9」と数字が続いていますね。1961年はわたしは11歳。小学校5年生か6年生の頃ですね。「うへをむ~ひて、あ~るこほ~ほ~。」なんて言う歌いまわしでしたね。何かで、夜遅く、ひとりで夜道を歩く時、「涙がこぼれないように・・思い出す、春の日。一人ぼっちの夜~」。懐かしい小学生のころから、中学生の頃など思い起こしておりました。この歌は、とても豊かな内容を持っていますね。 

【テキストの解説】

今日、お読みしました聖書の箇所、創世記28章は、イスラエル民族の先祖となったヤコブという人が、真の神様に出会うと言う場面です。わたしはこのあたりの「ヤコブ物語」が大好きな個所で、18歳の時に初めて聖書を読み始めた時から、「天のはしごの夢」とか、「天使との相撲」とかが心に残っております。

ヤコブの生涯は、まさに民族の象徴でありましたね。彼は人を『おしのける者』(ヤコブにはこの意味がある)と言う名前でした。彼は人間の知恵の限りを尽くして、お兄さんのエサウから財産の相続権を奪いました。レンズ豆一杯で現在で言えば、数億、数10億の巨額な財産の相続権を手に入れました。「レンズ豆」はお汁粉のようなもの、あるいはコーヒー豆のような飲み物だったと想像されます。だます方もだます方だが、だまされる方もだまされる方です。へブライ書では「エサウのように不品行な俗悪な者になるな」(12:16)と言われています。そして年老いた父をだまして『祝福』を奪い、最後には兄の激怒を買い、殺されそうになってハランの町にまで逃げるはめになりました。この28章は聖書の傑作で、多くの聖書の中心主題が描かれるので、いくつかポイントを絞って考えてみたいと思います。 

【メッセージのポイント】

1)10 さてヤコブはベエルシバを立って、ハランへ向かったが、11 一つの所に着いた時、日が暮れたので、そこに一夜を過ごし、その所の石を取ってまくらとし、そこに伏して寝た。(10,11節)

⇒石の枕    人生の苦難

こには「石の枕」というメッセージがあります。ある地点に着いた時、もう旅の空もとっぷりとくれ、彼は野宿することとなりました。硬い、冷たい石を枕にして寝ました。「石の枕」とは絶望の一つの表現ですね。

改めて考えてみますと、イスラエル民族の歴史は苦難の歴史です。彼らはしばしば石を枕にするような苦難を受けました。エジプトでの奴隷生活、アッスリアの支配、バビロンへの捕囚、ペルシャ、ギリシャの支配下での苦しい生活、そしてロ-マの支配。彼らは先祖ヤコブの石を枕にする姿と、自分の苦しみに満ちた生涯を重ねあわせて見ていました。

皆さんは石を枕にしたことがありますでしょうか?私は自分の生涯を考えると、実に多くの石の枕の時があったことかと思います。小学生の3,4年の頃にいじめに会いました。中学生のころや高校生のころ自分の惨めさ、罪深さに失望していました。高校を卒業してからは、浪人に継ぐ浪人でした。4浪までやりました。石の枕のような青春でした。

「上を向いて歩こう」の曲が、朝鮮戦争で孤児となった少女を題材に描いた映画のバックミュージックに用いられたという内容が記されていました。それを読んだ時に、ああ、いつの時代にも、悲しくて、淋しくて、「涙がこぼれないように」上を向いて歩いていた人々がいた、と思いました。

2) 時に彼は夢をみた。一つのはしごが地の上に立っていて、その頂は天に達し、神の使たちがそれを上り下りしているのを見た。(12節 )

さかさはしごの夢

彼の見た夢は「はしご=スラム=階段」の夢でした。天から地へとはしごが伸びており、神の使いが上りおりしていました。普通のはしごは地から天に向けてかけられるものです。しかし『神のはしご』は天から地へと向かうのです。ある旧約学者の説によるとこれは「さかさはしご」であると言います。絶望の石を枕とするわれらの現実に、主は天から『さかさはしご』をかけられた。天の高みから、われらの地の低さまで降られる神の姿がここには描かれます。それは『地獄の一丁目までも出張する神』(北森嘉蔵)の姿なのです。

これは新約聖書の主イエスキリストの十字架を指し示すできごとです。ヨハネ1章の終わりで、主イエスのもとにやってきたナタナエルに主イエスは、「人の子の上に、み使いが上り下りするのを見るであろう」と言われました。主イエスこそ天と地をつなぐ神からのはしごだったのです。神様の豊かな祝福は、主イエスの十字架の贖いとなり、復活となって、わたしどもの生涯を新たに変える神のはしごとなったのでした。

3)15 わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰るであろう。わたしは決してあなたを捨てず、あなたに語った事を行うであろう」。

⇒ わたしはあなたと共にいる!     神の臨在

この「ヤコブ物語」の中心にあるのはこの15節の「わたしはあなたと共にいる」と言うメッセージだと思います。「わたしはあなたと共にいてあなたを守る。わたしは決してあなたを捨てない!」と、神様はヤコブに語られました。この「神の臨在」と言う主題は聖書のあらゆるところに出てきます。アブラハムの物語、イサクの物語、ヤコブの物語、ヨセフの物語、モーセの物語すべてに出てきます。イザヤの預言にも「インマヌエル物語」が出てきて、新約の主イエス様の記事にも出てきます。主イエスの名前がインマヌエルでもあります。

今年の9月5日に、東京神学大学の学長、大住雄一先生が召されました。主にある交わりの中で、一番強烈だったのは、旧約学の大住先生が、詩篇23篇の主題が、「主の臨在である」との教えでした。この詩篇の中心が、「げにあなたがわたしと共におられる(キー アッター イマディ)」という言葉を中心に、構成されているというメッセージでした。わたしたちの人生は、過去も、未来も、現在も、主の深い臨在と愛に支えられていると言う信仰です。

4)16 ヤコブは眠りからさめて言った、「まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった」。17 そして彼は恐れて言った、「これはなんという恐るべき所だろう。これは神の家である。これは天の門だ」。

⇒ ここは天の門だ。神の家だ!

ヤコブは叫びました「ここはなんと言う驚くべきところだろう。ここは神の家だ。天の門だ!」と。ヤコブはイスラエル民族の先祖となった人です。「ここは天国の入り口だ!」(リビングバイブル訳)と叫んだのです。ヤコブは「天国の入り口」を発見したのです。

わたしは礼拝堂のことを考えると、このヤコブの出来事、創世記28章の物語をいつも思い起こします。ヤコブはこの時に40歳になっていました。おじいちゃんのアブラハム、お父さんのイサクと続いた信仰の家系です。彼は小さいときから、礼拝に出席していたのに違いないのです。でも、彼はようやく、40歳にして、神様の世界に目覚め、そして叫んだのです。「ここは天国の門だ、天国の入り口だ!」と。

わたしは2005年の赤羽教会の献堂式の時にこの所から、説教しました。礼拝堂とはまさに「ここは何という恐るべきところだろう。ここは神の家、天国の入り口だ!」というヤコブの驚きの体験を、追体験する所です。驚きの体験、臨在の体験、深い恩寵の体験をする所ですと語りました。上をむいて歩くとは、礼拝で、天のお父様の御顔を見上げつつ歩むことではないでしょうか。

5)18 ヤコブは朝はやく起きて、まくらとしていた石を取り、それを立てて柱とし、その頂に油を注いで、19 その所の名をベテルと名づけた。その町の名は初めはルズといった。20 ヤコブは誓いを立てて言った、「神がわたしと共にいまし、わたしの行くこの道でわたしを守り、食べるパンと着る着物を賜い、21 安らかに父の家に帰らせてくださるなら、主をわたしの神といたしましょう。22 またわたしが柱に立てたこの石を神の家といたしましょう。そしてあなたがくださるすべての物の十分の一を、わたしは必ずあなたにささげます」。     (18~22節)

 ⇒ 十分の一献金の誓約

20節でヤコブは、眠りからさめて、枕の石を取ってその頂きに油を注ぎ、そこで神様に誓いを立てて、神様と契約を結びました。

「神様、わたしは今、無一文です。兄に殺されそうになって何一つ持たずに逃げているところです。これから行く母の兄、ラバンおじさんのもとに行きます。わたしの過去は真っ暗!罪だらけです。わたしの将来も五里霧中、霧に閉ざされて何も見えません。しかし、あなたが共におられ、わたしの行くこの波乱に満ちた人生で、わたしを守ってくださり、食べるパンと着る着物を賜い、安らかに父の家に帰らせてくださるなら、主よ、わたしはあなたをわたしの神といたしましょう。またわたしが柱に立てたこの石を神の家、べテルとして礼拝所を建てましょう。そしてあなたがくださるすべての物の十分の一を、わたしは必ずあなたにささげます」。

森山諭先生は、これは自己中心の契約だ!と書いています。でも、わたしは大変、賢い、聖書的な内容を含んでいると思います。「天上の神様がわたしを守ってくださるなら、地上の生活も関心を持ってくださることでしょう。わたしは自分の具体的な生活を、あなたへの信仰で満たします。わたしの歩みの祝福となってください!」これが、石を枕にした、ぎりぎりのヤコブの祈りだったのでしょう。上を見上げる生涯は、地上でも豊かな実を結ぶのです。

【祈り】 主よ、今日は「上を向いて歩こう!」ということを学びました。わたしたちは、この世で生きておりますので、様々な問題で一杯になり、下を向いてしまいます。自分自身の醜さや、自分の弱さや人間の限界。石を枕にするところまで落ちてしまうこともあります。でも、そのような時に、天を見上げて歩むことが出来ますように。あなたの御顔を見ることが出来ますように!特にあなたがわたしたちを愛し導いておられる「救いのはしご」、「主イエスの十字架の恵み」を知ることが出来ますように。また、あなたの臨在を知り、礼拝であなたを拝し、あなたの言葉を聞くことが出来ますように。あなたの顔を見、臨在に触れ、あなたの贖いの恵み、あなたの歴史計画を知り、豊かな実を結ぶ人生としてください。主イエスの御名によって祈ります。アーメン。