説教「信仰の一致を求めて」

2019年9月22日 修養会主日礼拝
聖書箇所:ピリピ2:1~5
説教:深谷春男牧師

今日はわたしどもの教会では「一日教会修養会」の時を持ちます。昔は、都会の喧騒から離れ、静かな大自然の中で、神様の懐に抱かれるような体験として、一泊して、御言葉を聞き、また主にある神の家族の親しさを深める時としました。今年は、教会の中ですが、すばらしい修養会の一日としましょう。

【今日の聖書箇所の概説と内容区分】

さて、今日示されている箇所は、ピリピ書2章です。2章全体は以下のようにまとめることができます。

1~ 5節 パウロの信仰と情愛のこもった一致の勧め

6~ 8節 キリストの「謙卑の姿」

9~11節 キリストの「高くされる姿」

12~14節 主に従順になり、救いの達成に務めよ。

15~18節 不平不満から解放され、星のように輝くクリスチャン。

19~24節 テモテ、確かなキリストの証し人。

25~26節 エパフロディト、兄弟、協力者、戦友。

27~30節 エパフロディト、キリストの業のため命を懸ける。

これらのどの箇所をとっても、深い信仰の味わいのある言葉で、わたしたちの信仰生涯を、深く考える導きとなります。 

【メッセージのポイント】

1)1 そこで、あなたがたに、キリストによる勧め、愛の励まし、御霊の交わり、熱愛とあわれみとが、いくらかでもあるなら、     (1節)

⇒ キリストによる勧め、アガペーの愛、御霊の交わり、憐みの心!  使徒パウロは、このピリピ信徒への手紙を通して、ピリピの教会の兄弟姉妹に心からの愛情と感謝の思いを込めて、優しく語りかけてきました。そして、前回学んだ1章27節からは、「キリストの福音にふさわしく生きよう」という勧めを語り、そのためには「27bあなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、28 どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはない」と、ひとつ心で歩むことの大切さを語っておられました。そして今日の箇所では、更に一歩進んで、ピリピの教会に語るべきことを示されたようです。ひとつ心で歩むことにピリピ教会に課題があることを示されたのでしょう。

もとより、彼はピリピの教会員を心から愛し、信頼していましたので、彼らを叱りつけているのではありません。彼らは、福音から大きくずれてしまったガラテヤの教会とは違い、純情な信者たちで、パウロの教えに従っていた愛すべき人々です。そのような意味で厳しく勧める必要はなかったようです。ただ彼らの間に、相互間の良き理解、信仰と愛、協力があるようにとパウロは訴えています。

新約学者の松本卓夫先生はここをこのように説明しています。

「これはなんという真実のこもった、しかも、深みがあり、霊味豊かな、いかにも、愛情あふれる牧者らしいことばであることか。これは、パウロの書き記した数々の手紙の中で特に私共の心に深くしみる愛のことばです。」

パウロはこの1節で、4つの項目を語っています。それも、非常に、慎重な、そしてことの重要性を強調した表現です。

愛情と信頼に満ちた言葉で、ここではその4つの言葉を中心に考えてみたいと思います。

まず、「そこで、あなたがたに、・・・いくらかでも、あるなら」と語られますが、これは「あるかどうかわからない」という言葉ではありません。「そこで、あなたがたに、キリストによる勧め、愛の励まし、御霊の交わり、熱愛とあわれみ」が、あなた方の中にあるはずです。わたしはそれに基づいて、あなた方に訴えまた、お願いします、と言っているのです。 

「キリストによる勧め(エン クリストー パラクレーシス)」とは、「キリストの中に」という言葉と「慰め・励ます」というパラクレーシスという言葉で成り立っています。その意味は、キリストを信じ救われ、キリストのそば近くへと呼び寄せられて、親しく教えを受けているという意味の言葉です。パラクレーシスは、そば近くに呼び給うという意味です。

「愛の励まし(パラムシオン アガペー)」とは、神の愛が与える慰めという意味です。パラクレーシスもパラムシオンも、同じような用語で、「そば近くに呼び寄せ、真近かで語る」という言葉で、神様が毎日の生活の中で祈りを通し、生活を通してなされる「親しい愛の語りかけ」を意味しています。

「御霊による交わり(コイノニア プニューマトス)」とは、聖霊によるまじわり、豊かな愛の共同体を意味します。キリストを信じ受け入れた者は、皆、深い霊的な体験をしているはずですから、その霊的な体験によって深められて信仰に基づく交わりに訴えてお願いします、という意味です。

「慈しみや憐れみの心(スプランクナ ・ オイクチルモイ)」。スプランクナとは、内臓(心臓、肺臓、肝臓 等)を意味する語で、人間の深い情緒を表わす語です。この語は1:8でも用いられ、口語訳では「熱愛」と訳されていました。ここでは神の熱愛、1:8ではパウロの熱愛の意味で使用されています。

さあ、これらの4つの言葉、濃縮してあるのでその内容の真意を把握するには少し、解説が必要なようです。丁寧に表現すると、次のようになります。

「そこで、わたしはあなたがたにお願いします。それは、あなた方がすでに、すばらしい主の救いと、聖霊の導きによる霊的な祝福とを知っている者だからです。あなた方のキリストを信じた時の救いの喜びと毎日の生活の中で体験するキリストの臨在による慰め、また神様のアガペーの愛を通して示された恩寵の豊かさと神のそば近く呼び寄せられた驚くべき恵み体験、ぺンテコステ以来経験した聖霊様によるところの愛と慰めの共同体としての教会の交わり、また、わたしたちが経験した聖霊なる神の内住からくる霊的な成長の数々、このような愚かな者のために涙を流し、血を流されたというあの内臓が痛むまでの熱愛と深い憐み・・。そのような体験をされたあなた方は、神様の愛もキリスト様の愛も聖霊様の愛も知っておられるので、わたしはお願いします。その、神様から受けた御恩寵を、教会の交わりに生かしてください。あなたの友にその愛で接してください。毎日、出会うあなたの隣人にその愛を注いでください。あなたを冷たい目で見るあの人に、また、ひょんなことでいがみ合ってしまって心が通わなくなっているあの人に、今、主の和解と愛を注いでください。その相手の方も、キリストの救いを知っている方なのですから・・・2 同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。」

という意味になります。

使徒パウロは、ピリピの教会員の間に、意見や行動の分裂の現れているのを伝え聞き、心から憂えて、この手紙を書いたようです。ピリピの教会は分裂には至りませんでしたが、パウロは丁寧に、そのよう不幸に陥らないように切実な、お願いの手紙を書いたのでした。

2)2 どうか同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、一つ思いになって、わたしの喜びを満たしてほしい。3 何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。4 おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。(2~4節) 

⇒ 相手を自分より優れた者と考えよ! パウロの勧めは、1節で見たように、大変深い、そして、救いの体験、また、日常のイエス様との深い臨在体験。霊的な恵みの経験を背景にしてのことばであることを学びました。「教会の一致」はこのような霊的な体験を背景としています。そして、それは、主イエスの「愛と謙遜」にあるとパウロは語ります。「何事も利己心や虚栄からするのでなく、へり下って」とあります。自分の姿を偏見を取り除いて、主の目から見ると、わたしどもは自分の罪と愚かさに唖然としてしまいます。更に「へりくだる」とは「他者を自分より優れた者と考えること」だとパウロは語ります。

以前、「首都圏キリスト教大会」という大会が青山学院の講堂を通して何度か開催されました、ある年の講師は、滝元明先生でした。先生の説教は「幸福になる道」という印象的な講演でした。誰でも幸福になる道があります。それは「謙遜になる事」です。自分が青年の時に大人を馬鹿にしていた時に、皆から嫌われていたこと。キリストに出会って、真の謙遜を学んだことが語られました。多くの方々が主イエスを心に迎えられました。

 

3)5 キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。      (5節)

⇒ 汝らキリストイエスの心を心とせよ!

さらにパウロは言います。「教会の一致は、イエス様の生涯そのものである」と。そして教会の霊的な一致は、イエスキリストへの信仰からわき起こって来るのであると言う。6節以降は初代教会の信仰告白「キリスト賛歌」と言われる部分です。初代教会の信仰告白は「謙遜」のメッセージでした。そして、十字架にまで下る「謙遜」は、教会に最強の「一致」という賜物をもたらしたと語ります。文語訳聖書は「汝らキリストイエスの心を心とせよ」と訳しています。これが一番、直訳に近いものです。

【祈り】 恵みの主よ。この一週間の旅路も、疾風怒濤の、荒波がわたしたちの生活の中にも入ってくるようなただ中にあっても、あなたが支えてくださいました。また、何よりも、わたしたちにキリストにある愛と祈りの一致の大切さを教えていただきました。キリストからくる愛は一致をもたらすもの、愛の絆です。しかし、粗暴な言葉や憎しみの思いは共同体を破壊してしまいます。どうぞ、わたしたちを点検し、御霊の一致、愛の一致を与えて下さい。そして、主よ、あなたが望まれる、愛と慰めの共同体である、教会を建てあげるために、喜んで、自分の生涯を捧げる者とならせてください。わたしたちの救い主であると共に、教会の頭なるお方、主イエスの御名によって祈ります。アーメン