説教「喜びに満ちて」

2019年9月15日 敬老主日礼拝
聖書箇所:1ヨハネの手紙1:1~4
説教:深谷美歌子牧師

今日は敬老礼拝です。75歳以上の神の家族の皆様をお祝いいたします。人生100年時代と言われますが、喜びに満ちた毎日でありますように。説教題も「喜びに満ちて」です。が、これは年齢に関係なく、すべての兄弟姉妹がそうあってほしいことです。そして4節に「喜びが満ち溢れるためです」とこの手紙の目的がそのことですと書かれています。皆でいただく日とされますように。

ヨハネの手紙は公同書簡と呼ばれ、特定の宛先は挙げられていませんが、「わたしの子たちよ」とか「愛する者たち」等、親しみを込めた呼びかけがなされています。この言葉から、これまで信仰の導きをして、親しく知っている兄姉を思い浮かべながら書いたことが伺われます。

そして、全ての人々がこの喜びの交わりに入れられますようにと願って書かれ、それは現代に生きる私たちにも語りかけられている内容です。

【聖書の概説】

1・2節-伝えるのは「いのちの言」イエスキリスト。それはヨハネが聞いたもの、よく見て、手で触れたものであると証言する。

3節-伝える目的は、父なる神とイエスキリストとの交わりに入れられるため。

4節―この交わりの結果、わたしたち(読者と自分達)の喜びが満ち溢れるようになるため。

【メッセージのポイント】

1)いのちの言が現れた

このいのちが現れたので、この永遠のいのちをわたしたちは見て、そのあかしをし、かつ、あなたがたに告げ知らせるのである。この永遠のいのちは、父と共にいましたが、今やわたしたちに現れたものである――(2節)

「永遠のいのちが現れた」と書いています。これは何を言っているのでしょう。

ヨハネの福音書には「言は神と共にあった。言は神であった。この言にいのちがあった。言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った」と書かれています。永遠の神、イエスさまがこの世界に来られたことを現しています。そのことをここでも言っているのです。「現れた」という言葉はRSVではmanifestという言葉が使われ、明らかにする、証明するなどの意味があります。ギリシャ語では不定過去形で書かれていて、過去のある時期に起こった出来事を現しています。つまりキリストが、肉体を持って、人間の歴史に出現したことです。突然出現したのではなく、約束が現れたのでした。政治家が選挙の時manifestするといったら、前回の約束した公約をどの程度達成したかを公表することです。聖

なる神がこの世界に現れたことを伝えることです。そしてそれをヨハネはよく見た。手で触れた。と証言します。

よく見たとこの聖書は訳されていますが、新改訳では「じっと見て」と訳されています。これは、何気に見たというより、観察するように確かめる見方、意味を、熟視しようと見る見方を現わしています。いつも一番そばにいてイエス様を見ていたヨハネの証言です。

手で触れたとは、復活のイエスさまが現れた時、その場にいなかったトマスが「そんなことはあり得ない、釘あとに指を入れなければ信じない」と語ったところ、次の週、イエスさまはトマスも一緒にいるところに現れて、「指を入れてごらん。まさしくわたしだ。」と語りかけられて、驚いたことがありました。40日にわたって復活のイエスさまに出会い、ヨハネは触ったこともありました。幻想ではありませんでした。

聖書は人間が考え出したお話しを書いているのではなく、歴史に起こった事実を告げているのです。このイエス様は信じる者に、永遠の命を

あたえてくださったのでした。

 

2)御子イエスキリストとの交わりを持つようになるため

すなわち、わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。(3節)

わたしたちとの交わりに入らせるためと聞くと、なんとなく教会の兄弟姉妹との交わりに入るためと言っているように思います。しかしここでいう交わりは、父なる神と、イエスキリストとの交わり、つまり神様との交わりに入ることが一番の目的です。

神の御存在を知っておられるでしょうか?今も生きて働いておられる人格としての神を知ることは、二千年前のイエスキリストが何をしてくださったかを知り、自分が真の神を信じてこなかった現実を認め、今も生きたもうイエスキリストを救い主と受け入れることによってです。

7月に来て下さった、籐井圭子先生は、尼僧になってまで救いを求道して、得られなかった救いの確信を、イエス様に「私を救ってください」と祈った時、救われ、自分が変えられて、証言者になりました。

交わりという言葉は「コイノニア」という言葉ですが、もともと財産を共有する者同士のことを言うそうです。ここでは永遠の命の共有者とされ、神様との交わりを持つことができるものとなることを言っています。祈りによって、御言葉を生きることによって、今も生ける神を知ることができます。

そしてこの神様との交わりを頂いた者同士は、神の家族として、互いに愛し合い、赦し合う交わりにも入れられます。

 

3)喜びが満ち溢れるようになるため

これを書きおくるのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるためである。(4節)

「これらのことを書くのはわたしたちの喜びが満ち溢れるようになるため」とありますが、「わたしたち」を「あなたがた」と書いている写本もあります。だからここの「わたしたち」は書いている側だけではなく、読んでいる人々を含めたわたしたちと考えます。この手紙を書いたのはイエスキリストを知って喜びに満ち溢れることを願ってのことです。「満ち溢れる」の前に「全き」と新改訳にありますが、完全な完成した喜びです。人が愛の、赦しの神がおられることを知り、この方との交わりに入れられることは、なにものにも代えられない喜びです。

先週の木曜日の聖書研究祈り会の学びはマタイによる福音書5章21-26節まででした。パリサイ人の義に勝る義をイエス様がもたらしてくださったと学びました。イエス様の求める義は、パリサイ人は見える殺人だけを裁いているが神様の前では、心で兄弟を馬鹿にした、つまり、人格を否定するものは、神の裁きでは地獄の火に投げ込まれるという、表面に出る殺人を犯さないでも心の中で人格を否定したら殺人したのと同じという厳しいものでした。

しかも、兄弟が自分に何かうらみを持っていたら、仲直りをしてからでなければ礼拝に行って捧げものをしても受け入れられない。というものでした。最後の1コドラントを払いおえなければという厳しいものでした。人生70年生きて来て、心にかかることを全部きれいにしなければ神様の裁きで地獄の火に投げ込まれると言われたら到底できません。

しかし、イエス様はそのように厳しく仲直りを求められました。が、「天国は近づいた、悔い改めて福音を信ぜよ」とご自分の命を十字架にかけて、拭いきれない仲直りの代価を、イエス様が用意してくださったのでした。最後の1コドラントまでです。パリサイ人の義に勝る義

を用意した上でこう言われたのでした。なんとありがたいことでしょう。イエス様を救い主と受け入れ、悔い改めるなら、もう、心に咎められ

ることはないのです。もちろんその後でお友達とも仲直りができたら、

素晴らしいですが、もう代価は払われたので、もしかしたら人間からは

赦されないことがあっても、神様の前では、天国に入れて頂けるのです。

礼拝で、神様に受け入れられ、主にお会いすることができるのです。

今から感謝して喜んで生きましょう。そしてこのいのちをまだ受けていないすべての人のために、祈り、語る時が与えられたら、お伝えしましょう。迫害や、貧困、病気、別れ。未来に何が起ころうとも、永遠のいのちの交わりの中で喜びに溢れて歩み続けましょう。ハレルヤ!

守部さんの命の水の働きをいつも祈って支えてくれた大西はるえさん。若い時に、親の借金のかたに売られて辛い生涯でした。九州で小さなお店を開いていた時に、イエス様に出会って以来、忠実に礼拝し、生きてきました。四国の老人施設に入っていた時に、守部さん御夫妻が訪ねたそうです。生活保護でベッドと、小さな台が全ての持物でした。でもそこで、皆から嫌われているような方の話にじっと聞き「あなたは優しい人なのね」といたわり、生涯で一番幸せだった時は?との質問に「今です」と即、返事されたそうです。何歳になっても「今、喜びに満たされています」との生涯を歩んでまいりましょう。ハレルヤ!

【祈り】

イエス様が肉体をとってこの世に来られたこと、よく見て、手で触ったヨハネが証言してくださったことを感謝します。そしてイエス様に赦されて、神様を礼拝し、御言葉をいただき、祈りが聴いて頂ける者とされていることを心から感謝します。兄弟姉妹とも愛し合い、赦されあって交わりに生きる喜びがいつも満ちあふれる主の証人とされますように導いてください。 主イエス様の御名によって祈ります。アーメン!