説教「立ち上がり、歩きなさい」

2019年8月25日 主日礼拝
聖書箇所:使徒行伝3:1-10
説教:深谷美歌子牧師

8月13,14日は日本キリスト伝道会の主催する「幻を語る会」が、市川でもたれました。今年は「若者と共に伝道の幻を」というキャッチフレーズで持たれました。51回目の会でした。これまで一千万救霊を掲げ続け、信仰を持ってこの会からリバイバルを!と全国からの兄弟姉妹、先生方で持ってきましたが、近年、若者の参加が少なくなっていました。これはキリスト教会全体の傾向です。希望に燃えた若者が起こされ、愛する日本に、また同時代に生きるすべての人々が、希望に生き始められるようにとの願いが込められた集会でした。その兆しを感じる各会でありました。

今日の聖書箇所は、一人の生まれつきの足のなえた男性が歩けるようになったという奇跡が記されています。このことは現代とは関係ない昔のお話なのでしょうか?でも聖書が時代、空間を越える真理の書であるとしたら、ここにある真理は何でしょうか?聞いてまいりましょう。

 

【聖書のテキスト】

使徒行伝3章はペンテコステの日(聖霊降臨)を体験したあとの弟子たちの行動が描かれています。ペテロとヨハネは神の霊に満ちて力強い活動を始めました。その一つの働きが「美しの門」で物乞いをしていた足の不自由な男の癒しの話です。神様の恵みと力に満たされた弟子たちは、変えられて、大胆に主の証人とされてゆきました。

 

【メッセージのポイント】

1)午後三時、祈りの時に!

1 さて、ペテロとヨハネとが、午後三時の祈のときに宮に上ろうとしていると、2 生れながら足のきかない男が、かかえられてきた。この男は、宮もうでに来る人々に施しをこうため、毎日、「美しの門」と呼ばれる宮の門のところに、置かれていた者である。  (1.2節)

まずこの出来事は、「ペトロとヨハネが、午後3時の祈りの時に神殿に上って行った」時に起こったと記されています。初代教会の使徒たちは、いつも祈りの中に歩んでいたようです。1章の記事を見ると、ペンテコステ(聖霊降臨)前、主の教会が誕生する前から弟子たちは10日間の祈りをし、備えの時を持っていました。いわば、教会は祈りの会から生まれてきたのでした。そして、この弟子たちの大きな働きの出発も祈りのために神殿にのぼってゆく所から始まりました。奇蹟は祈りから始まります。

イエス様も神であられましたが、地上の人間として歩まれた時、常に父なる神様に祈り、交わって行動されました。祈りは神様との会話であり、呼吸です。イエス様によって、この世の命から、神の永遠の命に入れられた者にとっても、祈りは呼吸です。Ⅰテモテ2:1には「そこでまず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のために捧げなさいとあります。第一にすることが祈りです。聖霊を受けたペテロ達こそ祈りを必要としていました。神の御心をいつも求めました。

ここを「主の十字架の時、三度主を知らないと否定したペテロと、最後まで、主の十字架の下で見守ったヨハネが、赦しあって一つになって歩いている。」と書かれている方がいて、その姿に気付かされ感動しました。しかも、今日ここに出てきた足の不自由な男は、毎日連れられてきていたのだから、イエス様がこの門を通られたときも、ここにいたのだ。弟子たちも一緒だったはず、しかし彼らはこの男に気が付かなかった、母親が子供を連れてきたときも、邪魔もの扱いした弟子達だった。ところが今日、彼らはこの男に注目して「わたしたちを見なさい」と語りかけている、彼らは変えられたのだとあり、愛の姿に変えられていると教えられました。

癒された彼は生まれながらの足の不自由な男でした。どんなに苦しい人生を歩んできたことでしょう。彼は自分で歩くことができずに人々に「運ばれてきた」のです。そして彼は、美しい門のそばに物のように「置かれていた」のでした。

この神殿の「美しの門」というのは、エルサレムの北の方に神殿があり、その正面の門でした。多くの人々がそこを通って礼拝しに境内に入ります。しかし彼は神殿の境内に入れません。当時は身体に不自由なところがある人は、神殿にはいることができませんでした。そこに置かれ、生活の必要のための物乞いをし、そして夕方になると、またそこから運び出してもらうという毎日の生活でした。

今、失意と悲しみの宿命に支配され、神殿で神を礼拝することからも締め出されたこの一人の男性に、主御自身が触れようとされていました。

 

2)イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい

3 彼は、ペテロとヨハネとが、宮にはいって行こうとしているのを見て、施しをこうた。4 ペテロとヨハネとは彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。5 彼は何かもらえるのだろうと期待して、ふたりに注目していると、6 ペテロが言った、「金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」。     (3-6節)    

彼は、「美しの門」の前で、目前の生活のための必要の施しを乞うていました。すると、恵みに輝いた二人の人が向うから歩いてきました。ペテロとヨハネでした。彼らが境内に入ろうとするのを見て、何かもらえると思ってこの二人に施しを乞いました。すると4節にはこう記されます。ペテロとヨハネとは彼をじっと見つめました。先に言いましたように、ペテロもヨハネもこの生まれつき歩いたことのない男に、心をとめたのでした。そして、それから言いました。「わたしたちを見なさい」。この男は、何かもらえると思って二人をじっと見つめていました。6節でペテロの言った言葉が記されています。「金銀はわたしにはない。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい!」この男は、「金銀」を求めていたでしょう。しかし、ペトロもヨハネも、金銀はなかったのです。でも金銀に勝るものを彼らは持っていました。それは「ナザレ人イエスキリストの名」でした。「ナザレの人、イエスキリストの名!」これはこの世の最高のものでした。ペトロやヨハネはこの「主イエスの名」によってこの男を立たせたのでした。この男が求め得ないものと諦めていたものでした。

  このことが起こったのはペテロや、ヨハネの力ではありませんでした。それは12節で二人の口からも言われています。「わたしたちが自分の力や信心で、あの人を歩かせたかのようになぜ見つめているのか」です。

このことをしてくださったのは、イエス様が救いの道を完成し、送ってくださった聖霊によってでした。そのことを「イエスの名」と言う権威として表しています。

ところで、この権威は、現代に生きるわたしたちにも与えられているものです。先週は高橋順一座の指人形で、サル爺さんの痛みを「イエスキリストの名によって癒されよ」と祈って癒されました。が、祈って奇跡的な癒しが起こされることもありますが、そうならないことも多いですね。もし、全ての人が癒されて、死ななかったら、この世界は大混乱に陥ります。

パラリンピックが大きく報道されるこの頃で、障害を持った方たちが尊重されることは素晴しいです。が、それでもその栄冠を受けるのはごく一部の人々です。けれども主からの祝福はすべてに及びます。信じる者は全て罪赦され、永遠の命が与えられるのです。全人格的な永遠のいやしです。

3)躍り上がって立ち、歩きだした!

7 こう言って彼の右手を取って起してやると、足と、くるぶしとが、立ちどころに強くなって、8 踊りあがって立ち、歩き出した。そして、歩き回ったり踊ったりして神をさんびしながら、彼らと共に宮にはいって行った。9 民衆はみな、彼が歩き回り、また神をさんびしているのを見、10 これが宮の「美しの門」のそばにすわって、施しをこうていた者であると知り、彼の身に起ったことについて、驚き怪しんだ。  (7-9節)

ペテロが「主イエスの名によって歩きなさい。」と言って、右手を取って彼を立ち上がらせました。「すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、 躍り上がって立ち、歩きだした」のでした。彼は、癒された恵みに満たされて「歩き回ったり、躍ったりして神を讃美し、二人と一緒に境内に入って行った」と記されています。今まで呪われた者と言われ、入ることができなかった、その神殿に入っていったのでした。イエス様がヨハネの弟子たちに「足なえは歩き、貧しいものは福音を聞かされている・・・わたしにつまずかないものは幸いである」と語り、救い主であることの証拠としての業をあげられたことがありましたが、今ここに実現したのでした。

「歩き回ったり、躍ったりして神を讃美し、二人と一緒に境内に入って行った」とあります。深谷牧師が「自分自身に向かって出発せよ」と語られました。人が真に生きるのは、神の命に満たされ導かれ始める時です。

「幻を語る会」で近藤勝彦先生が、真に若者が生きるのは、Boys be ambitious in Christ!キリストにあってである。いや人が真に生きるのは、キリストにあって生かされるときである。ご自分は今もこの福音のために生かされているが、同級生は仕事が終わってすることがない。「朝ご飯を作っている」と一人が言えば「3食作っている」という人がいる。「彼らは何のために生きているのかわからないのです」そして「真の再生は礼拝です。」と語られました。人は神の命を頂き、神を礼拝し、交わり生かされて、踊りだすように喜びの命に生き始めるのです。

【祈り】父なる神様。聖霊によって変えられたペテロとヨハネが祈り場で、イエスキリストの名の権威によって男を立ち上がらせた姿を見ました。わたしたちも、祈りの時にあなたに向かい、整えられ、力を得ることができますように。そして「わたしには金銀はない。しかし、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ちあがりなさい」と人々を生かすために、お遣わし下さい。主の聖名によって。アーメン