説教「神ご自身の訪問」

2019年11月17日 主日礼拝
聖書箇所:創世記18:1~8
説教:深谷春男牧師

 しばらく前のことになりますが、月一回の北支区の祈祷会で、若い牧師が説教しました。クリスマスも近づいている頃だったと思いますが、この説教がとても難しかった。神学校出たばかりで、神学者の名前や神学用語が多くて、理解するのが困難でした。この先生は、クリスマスのことを説明しようとしたのは分かったのですが、ルカ福音書の1章とか2章のクリスマスの話ではなく、創世記18章の今日の個所を読んで、話をされたのです。
 クリスマスは、永遠の神の御訪問で、創造者なる神御自身が、被造物の世界を訪問するという意味。キリスト教は、神ご自身が、人間の世界を訪問されたというメッセージで、神御自身である主イエスが、人間の現実、神から離れたみじめな世界そのものを体験され、罪と死の呪いを打ち砕くために十字架にかかり、復活された。アブラハムに三人の人が現れたこの創世記18章は、驚くべき内容を語る、というような内容でした。最初はよくわからなかったのですが、年を経るにしたがって、この聖書箇所は、とても印象深いものとなりました。

【今日の聖書箇所の概説】
 創世記18章は神ご自身のアブラハムへの訪問という出来事から話し始めます。そして、その御訪問は、アブラハムへの豊かな祝福となって実を結ぶことになります。そして、後半は背徳の町ソドム、ゴモラへの厳しい裁きという形で現れてきます。ソドムとゴモラの地を裁かれる神様の前に、甥のロトがソドムにおりますので、その甥のために、執り成して祈るアブラハムの生涯が描かれます。

【メッセージのポイント】
1)1 主はマムレのテレビンの木のかたわらでアブラハムに現れられた。それは昼の暑いころで、彼は天幕の入口にすわっていたが、2 目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。彼はこれを見て、天幕の入口から走って行って彼らを迎え、地に身をかがめて、(1-2節)
⇒  神のご自身の御訪問
 まず、この箇所で一番の出来事は、主がアブラハムに現れたという言葉です。主御自身の顕現がここでは語られます。ユダヤの伝統ではこの箇所は「ヴァイエラ(そして顕現された)」と呼ばれていて、大切にされている箇所です。神ご自身が、アブラハムの住んでいた「マムレの樫の木」のところに現れたのです。先週、学んだように、「われは全能の神なり。汝、わが前に歩みて、完全(まった)かれ」と語られた神様が、アブラハムに現れたという記事です。
その時は暑い真昼でした。アブラハムは家の入り口に座っていました。祈っていたのか、神ご自身のことを黙想していたのでしょうか。ふと、目を上げると、三人の人が彼に向かって立っていたのです。ある方は三位一体の神の出現だと言いますし、ある方は三人の天使の出現であると考えます。最初と最後の方を読みますと、神御自身の御訪問であったことがわかります。

2)、3 言った、「わが主よ、もしわたしがあなたの前に恵みを得ているなら、どうぞしもべを通り過ごさないでください。4 水をすこし取ってこさせますから、あなたがたは足を洗って、この木の下でお休みください。5 わたしは一口のパンを取ってきます。・気をつけて、それからお出かけください。せっかくしもべの所においでになったのですから」。彼らは言った、「お言葉どおりにしてください」。6 そこでアブラハムは急いで天幕に入り、サラの所に行って言った、「急いで細かい麦粉三セヤをとり、こねてパンを造りなさい」。7 アブラハムは牛の群れに走って行き、柔らかな良い子牛を取って若者に渡したので、急いで調理した。8 そしてアブラハムは凝乳と牛乳および子牛の調理したものを取って、彼らの前に供え、木の下で彼らのかたわらに立って給仕し、彼らは食事した。                     (3‐8節)
⇒ もてなし!               
 松田明三郎先生によるとアブラハムはここで、もてなしのテストに合格した。
①ていねいな挨拶
②足を洗うために水を提供する。
③心を込めた食事と給仕の姿
④出発のときの見送り
 3セアとは1セアが13リットルなので、やく39リットルの上等の小麦粉で作ったパンと、上質の牛肉によるビフテキでもてなしたことになります。わたしどもも、アブラハムのように愛情の深い、細やかな思いで、人格的な出会いをしたいものです。人と・の出会いも、そして何よりも神様との出会いの中で、真実な主イエス様との交わりを待ち続けたいものです。

3)、12 それでサラは心の中で笑って言った、「わたしは衰え、主人もまた老人であるのに、わたしに楽しみなどありえようか」。
13 主はアブラハムに言われた、「なぜサラは、わたしは老人であるのに、どうして子を産むことができようかと言って笑ったのか。14 主にとって不可能なことがありましょうか。来年の春、定めの時に、わたしはあなたの所に帰ってきます。そのときサラには男の子が生れているでしょう」。15 サラは恐れたので、これを打ち消して言った、「わたしは笑いません」。主は言わはれた「いや、あなたは笑いました」。(13-15節)
 ⇒ 神は救いのために全能の力で臨まれる!
 89歳のサラの体はもう、赤ちゃんの生める体でもないので、実際に「赤ちゃんの話」が来たときにサラは思わず噴き出してしまいました。それは恥ずかしさなど通り越して、考えることのできない話だったのでしょう。100歳のおじいちゃんと90歳のおばあちゃんの間に赤ちゃんが産まれる?15章などでも、アブラハムは神様に「あなたはわたしに子供お与えになりません」と恨めしく言ったことがあります。今、ここに、神様はアブラハムの真実に心を止めて、驚くべきことをお話になりました。 9節で主はアブラハムに語られます。「あなたの妻サラはどこにおられますか?」 初めての訪問なのに主は、アブラハムの妻、サラを知っておられました。全能の主は全てを知っておられるのです。私自身よりも、わたしについても、妻についても、子どもたちについても、心の深いところまで、すべて知っておられるのです。
 アブラハムは、3節で「わが主よ、もしわたしがあなたの恵みを得ているなら、僕を通り過ごさないでください」と願ったように、神様はアブラハムの、仕える姿を見て、「恵み」を注いでくださいました。それも「驚くべき恵み」、実にアメイジング・グレイスでありました!
主は言われました。「来年の春、わたしは必ずあなたのところに帰ってきましょう。その時、あなたの妻サラには、男の子が生まれているでしょう。」それを聞いて、サラはくすっと笑ってしまいました。
 神様は笑ったサラに「どうしてあなたは笑うのです?」と言いました。「主に不可能なことがあろうか」と言われました。これは「ハイッパレ
メ・アドナイ」という言葉で直訳では「そのできごとは、主よりも超えているか?」との意味です。神を超えたような困難はこの世にないと言う聖書的な表現です。これはやがて、処女がメシヤを身ごもることにつながり、ルカ福音書1:37のガブリエルのマリアへの受胎告知への宣言「神には何でもできないことはありません」に至ります。

 この個所は大変重要な聖書箇所ですが、わたしどもの生涯に及ぼす「神御自身の御訪問」を教えています。以下、この個所の重要な主題は、わたしどもの生涯に大きな祝福をもたらすことを箇条書きにしてみます。
① 神御自身の訪問。これにより、空虚な人生に天上の命と輝きが宿る。
② 霊の目を挙げて、3人の人を見よ。エペソ1:3~14など。
③ 走って行って、この賓客を歓迎し、もてなす。走り回るアブラハム。
④ 「神の恵み」が、とどまるように、願う。
⑤ そこで足を洗う水と一口のパンの用意する。お食事を勧める。
⑥ 最上の麦粉3セヤ(約40リットル)のパンと最上のステーキ。
⑦ 彼らの前に備え、自ら給仕するアブラハム。
⑧ 「驚くばかりの恵み」の宣言。息子の誕生予告。
⑨ ハイッパレ メアドナイ「それは主を超えているか?」神の全能!
⑩ 人生における、救いの完成の笑い(イツハク=イサク)の成就

【祈り】 全能の神様。わたしたちは今日、成長感謝礼拝の恵みの時を持っています。御前にある、幼い兄弟姉妹を守り祝福してください。病や災いから守り、豊かな人生を歩むことができますように導いてください。今日、学んだアブラハムのように、神様の御訪問を悟り、その生涯にあなたご自身を迎え入れることができますように。そして、アブラハムのように、あなたを心からもてなし、仕える者としてください。そしてやってきた「想定外の恵み」、神の全能の祝福、あなたの賜物である喜びの微笑み、幼な子の顔に輝く笑顔のような救いと平安を、神のイサクの誕生を、わたしどもにも与えてください。やがて、12月にはクリスマスの時を迎えます。神御自身のイサクがすでに与えられました。御前にある若い兄弟姉妹が何よりも主との交わりの道を歩めるようにしてください。また、御前にあるすべての兄弟姉妹に、この一週間も、恵みあふれた臨在の一週間としてください。わたしたちの救い主、この世界に来たり罪と死の呪いを打ち砕き、永遠のいのちと喜びの世界をお与えくださった主イエスの御名によって祈ります。アーメン