説教「わたしは全能の神」

2019年11月10日 主日礼拝
聖書箇所:創世記17:1~8
説教:深谷春男牧師

 われは全能の神なり。汝 わが前を歩みて全き者であれ。
                      創世記17:1(文語文)

 知人の佐藤繁牧師は、若い時に神様に祈っている時に、深い霊的経験をされました。深い祈りの中に導かれた時に、天から、神様の大きな声が聞こえたというのです。「我は全能の神なり。汝わが前に歩みて全ったかれ」でした。それが今日の聖句の文語訳です。

【テキストの概説】 創世記11章の後半から始まったアブラハムの物語は、「信仰の父アブラハム」の名前の通り、聖書の指し示す信仰とは何かを教えています。特に、17章において、アブラハム99歳の時の、運命的な神との出会いが語られます。アブラハムはここで、全能の神に出会い、名前を変えるように導かれます。アブラムから、アブラハムに変化します。そして契約の印として割礼を受けることが語られます。この17章は実にクリスチャン生涯の象徴的な内容を持っています。

【メッセージのポイント】
1) 1 アブラムの九十九歳の時、主はアブラムに現れて言われた、
「わたしは全能の神である。
あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。」(1節)
⇒ 明確な神との出会いを体験せよ!
神はアブラハムの生涯に現われて大きな人生の転機を与えられました。アブラハムは人生が大きく変わったときに、自分の名前を変えました。それまではアブラムであったがアブラハムとなりました。その転機は神との出会いによることは言うまでもありません。神はアブラムにご自身を現しました。「われは全能の神」という宣言をもってご自身を現されたのでした。この「全能の神」というのは「エル・シャダイ」というヘブル語でその名前の由来については多くの説があります。「全能の神」というのが一般的な解釈です。人間の弱さ、不完全さに対して、完全なる力の神を意味するので「全能の神」というのが最もふさわしいと言われます。
 その全能のお方がアブラハムに語られました。その時アブラハムは99才でした。アブラハムの生涯は神の約束が信じられなくなって86才から13年間は霊的に落ち込んだときと想像されます。16章の終わりと17章のはじめには13年間のブランクがあります。しかしこの13年間の空白をうめるような神の言葉がここに記されます。「汝わが前に歩み」とのメッセージです。これは直訳は「神の顔の前に歩き回る」となります。わたしどもの歩みは神のみ前における歩みです。「臨在こそ救いなり」(詩編42:4)とはバックストンの愛唱聖句ですが、信仰の父アブラハムの生涯こそ、まさに神の御顔、神の臨在の御前に歩んだ人なのです。  
 ここには「全き者であれ(=タミーム)」との神の語りかけが見られます。これはノアの場合(6:9)も同じで、「契約における人間側の義務をあらわす言葉」と言われます。それは神の御前における完全なる信頼と服従の生涯です。神との契約関係の中に生きるのです。主の勝利の中を感謝しながら歩む人生です。ジョン・ウエッスレーが「クリスチャンの完全」ということを語りましたが、主の十字架によって贖われた者が、まったき献身の歩みを、救いの完成を見通していることがわかります。信仰者には神の御前に真実に生きる喜びの生涯があります。十字架にあがなわれた生涯は聖霊の満たしをもって完成に至るのです。
この聖句はわたしにとっても忘れられない聖句です。神学校時代、クリスマス礼拝で、悩みと失意の中にあるときに与えられた記念の聖句でした。北海道の藤井という先生が、説教に当たりました。自分の罪に悩み苦しんでいたときで、涙の中で御言葉を受けたのを思い起こします。
 「我は全能の神なり。汝、わが前に歩みて全たかれ!」これは今、あなたに語られる神ご自身の顕現の聖句です。

2)2 わたしはあなたと契約を結び、大いにあなたの子孫を増すであろう」。
 ⇒ 神との契約を結べ!               (2節)
 アブラハムは自分に現われた神と契約を結びます。聖書の言う信仰とは神との契約のことです。神ご自身が、わたしどもを祝福するために契約を結ぶのです。神はわたしの神となり、わたしは神の民となるのです。
聖書は、旧約聖書を新約聖書に分かれますが、この「約」というのが「契約」のことです。旧約は「古い契約」、新約は「新しい契約」のことです。旧約はモーセを通して奴隷の地エジプトから救われ神の民としての契約を結んだイスラエル民族のこと、新約はイエスキリストを通して、特にその十字架と復活の恵みを通して罪と死の呪いの世界から、永遠の命の世界へと贖い取られ、神の民、教会の一員として歩む契約を結ぶことを意味しています。聖書の信仰は、神との恵みの契約を意味しています。新約の契約の印は「洗礼」です。そして、「非常に、非常に、増してゆくのです!」

3)3 アブラムは、ひれ伏した。神はまた彼に言われた、(3節)   
⇒ アブラハムの敬虔に学べ!       
 「ひれ伏した」は直訳、「顔の上に落ちた」です。
これは彼が神を恐れ、深い祈りの姿勢を持って生きたことを証しする一句です。神様を恐れ、深いへりくだりを持って主の御前に出る姿。自分の顔の上に落ちるように、ひれ伏す信仰者の姿がここにあります。  

4)4 「わたしはあなたと契約を結ぶ。
あなたは多くの国民の父となるであろう。
5 あなたの名は、もはやアブラムとは言われず、
あなたの名はアブラハムと呼ばれるであろう。
わたしはあなたを多くの国民の父とするからである。 (4-5節)
 ⇒ 名前をアブラムからアブラハムに変えよ!
 名前を変えることは、その人の本質の変化を伝えています。アブラム(多くの人の父)からアブラハム(すべての国民の父)に彼の名前は変化しました。このようにしてすべての信仰者の父となったのです。旧約聖書ではアブラハム以外でも、よく転機的な体験によって名前が変化しました。サライがサラとなり、ヤコブがイスラエルとなります。新約でも、シモンがペトロになり、サウロがパウロとなっています。名前が変わるほどに深い霊的な体験をお互いに持ちたいものです。

5)6 わたしはあなたに多くの子孫を得させ、国々の民をあなたから起そう。また、王たちもあなたから出るであろう。7 わたしはあなた及び後の代々の子孫と契約を立てて、永遠の契約とし、あなたと後の子孫との神となるであろう。8 わたしはあなたと後の子孫とにあなたの宿っているこの地、すなわちカナンの全地を永久の所有として与える。そしてわたしは彼らの神となるであろう」。(6-8節)
⇒ ますます祝福される生涯に歩め!
 ここには、2節と6節に「ますます繁栄させる」(新共同訳)との約束があります。この「ますます」という言葉は印象的です。これは「メオード、メオード」という繰り返しで、「非常に、非常に!」という強調形で、神様の恵みの世界を教えております。
 この「非常に(=メオード)」という言葉が、二つ重ねて使用されている箇所がいくつかあったことを思い出して、調べてみました。
まず、創世記7・19。ここには「水の勢いは非常に非常に強くなった」と表現されます。人間の罪が洪水となり、その力強い様が非常に驚くべきであったと記されています。
 次に、創世記30・43。「非常に非常に破れ出た人」という不思議な
言葉が出てきます。これは祝福された人ヤコブを紹介するのに用いられた言葉です。彼は「破れ出た人(ペレツ)」です。いわば、天国の堰が破れて、彼の地上生涯に神様の祝福の大水が流れ出るような人格でした。それで彼は非常に富む人となりました。
 最後にエゼキエル37・10。「非常に非常に多くの軍隊となった」という言葉。これは枯れた骨が復活するという幻の谷の記述です。彼らは絶望的な状況、いたく枯れた骨でしたが、神の言葉と神の霊によって復活し、非常に大きな神の軍隊となって行進したというのです。
 「非常に非常に」強い罪の支配の中に死んでいたわたしどもは、「非常に非常に」大きな神ご自身の破れの業、受肉、十字架、復活によって救われ、「非常に非常に」豊かな御言葉と御霊によって復活し神の使命に生きるというのです。何たる幸いの生涯よ。ハレルヤ!

 今日われらは、アブラハムのように、赤子のような素直さと信仰をもって主のみ前に立ちましょう。「神との出会い」、「契約」、「敬虔」、「霊的変化」、「非常に非常なる祝福」!の生涯へと招かれているのです!
「われは全能の神なり。汝 わが前を歩みて全たかれよ」。ハレルヤ!

【祈り】 
天の父よ。この朝わたしどもはアブラハムの信仰を学びました。信仰の父なるアブラハムのように、赤子のような素直さと信仰をもって主のみ前に立ちたいと思います。「あなたとの決定的な出会い」、「神の民として歩む契約」、「ひれ伏す思いで御前に出る敬虔」、「聖霊の助けによる霊的変化」、そして「非常に非常なる祝福」の生涯へとわたしどもを導いてください。「われは全能の神なり。汝 わが前を歩みて全たかれよ」。この言葉と共に一週間の歩みをいたします。主イエスの御名によって祈ります。アーメン!