説教「わたしを見ておられる神ーベエル・ラハイ・ロイの神ー」

2019年11月3日 主日礼拝
聖書箇所:創世記16:7~16
説教:深谷春男牧師

創世記16:7-16  ― ベエル・ラハイ・ロイの神 ― 深谷 牧師

うちの子供が小さいころに読んであげた絵本はなかなか印象深いものがあります。その中に、アフリカの奥深いジャングルにある不思議な井戸の物語がありました。滾々と湧き出る森の中の泉。その泉の下に集まる動物達。青い煌々とした光が照らすアフリカのジャングルの奥に、静かに湧き出し続ける泉の話はこどもたちのこころの奥深くにしまわれて、これから生きてゆく様々な問題課題に直面したときに、渇きを癒し、力を与えてくれるイメージを与えてくれるのではないでしょうか?きれいな絵本のイラストと共に、波紋の広がる森の中の泉、月の光に照らされて、滾々と地下の深いところから湧き出す、透明な清水のイメージは、わたしどもの心の奥深くから湧き出る、聖霊の恵みのイメージに良く似ていると思います。

今日は「宗教改革記念日」です。宗教改革記念の基本的な信仰は、「聖書のみ」「信仰のみ」「恩寵のみ」です。今日は、「聖書信仰」を共に学びます。

【テキストの解説】
アブラハムとサラとの間には子供が与えられませんでした。それを嘆いたサラは、ついに窮余の策として、当時の慣習に従って、自分の仕え女だったエジプト女のハガルを通して子供を得ようと考えました。主人のアブラハムのところにハガルを与えました。やがて、ハガルは妊娠しました。すると、女性の母性本能が働いたのか、ハガルは子供の産めないサラを見下げるようになりました。サラはこのことで大きな痛手を受け、夫に訴えました。心に傷を受けたサラは自分の仕え女ハガルにつらく当たりました。ハガルはそのいじめに耐えられなくなりついにサラのもとから逃げてゆきます。エジプトの国境近くのシュルの荒野にまで逃げてゆきました。荒野の泉のほとりで彼女は主の使いに出会います。み使いはハガルに「どこに行くのか?」と問いかけ、「女主人のもとに帰りなさい」と諭します。その時に子供が生まれること、子供の名前は「イシュマエル」としなさいと伝えます。彼女はそこの井戸の名前を「ベエル・ラハイ・ロイ」と名づけたと記されます。イシュマエルが生まれたときはアブラハムはすでに86歳でした。

【メッセージのポイント】
1) 11 主の使はまた彼女に言った、
「あなたは、みごもっています。
あなたは男の子を産むでしょう。
名をイシマエルと名づけなさい。
主があなたの苦しみを聞かれたのです。    (11節)
⇒ イシュマエルの神     神は聞きたまう!
クラウス・ベスターマンはこの物語は、「イシュマエルの名前、神は聞きたもうという主題に向かっている」と語っています。このエジプト女ハガルの物語は、神がわたしどもの悲しみ、苦しみを聞いていてくださるのだということを語っています。社会の誰も気に留めないような奴隷女のハガルを心に留められるというのです。今日の聖書の言葉は、心傷ついた者への慰めの言葉です。「主があなたの悩みをお聞きになられたから」と。イシュマエルという言葉は、「神は聞かれる」という意味であるといわれます。「エル」は神を意味し、「シャーマー」は聞くという意味です。神はわたしどもの祈りを聞いてくださる。悩みを聞いてくださるのです。出エジプト記では「追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫びの声を聞いた」(3:7)とあります。神はいつも我らの祈りを聞かれるがゆえに、祈れないような苦しみの中にあっても、主はわたしどもの声にならない祈りの声を聞いてくださるのです。

2)13 そこで、ハガルは自分に語られた主の名を呼んで、
「あなたはエル・ロイです」と言った。
彼女が「ここでも、わたしを見ていられるかたのうしろを拝めたのか」と言ったことによる。(13節)
⇒ エル・ロイの神   神は見たもう!
13節では「神は見たもうお方(You-Are-the-God-Who-Sees-me)」であると語ります。すなわち、ハガルは神様の臨在と愛に触れて、「あなたこそエル・ロイ(わたしを顧みられる神)です」と叫んだというのです。「エル」は神を意味し、「ロイ」は「ラーアー」(見る)に「わたしを」という接尾詞がついて、「わたしを見る神」の意味であるといいます。神は実に「見たもうお方」なのです。主はハガルの悲しみをじっと見ておられたお方なのです。奴隷女としての生活も、アブラハムの子供をはらんだことも、その喜びも、その戸惑いも、有頂天になることも、サラとのいさかいも、涙ながらに逃げてきたことも、神はすべて見ておられた!というのです。我らの神は「エル・ロイの神」(新共同訳では「わたしを顧みられる神」という解釈がついています)なのです。
あなたの生涯の中で、つぶやかれたことはないでしょうか?
「誰もわたしに関心を持ってくれない・・・」、
「誰も僕を見ていてくれない・・・・」
あるいは、「ぼくはもう、見捨てられた!」
「わたしの運命は、これで終わりだ!」と言うような体験はないでしょうか?
先日、ホーリネス教団で作った、中高生の向きのデボーションガイドが届きました。そこにこのような話が載っていました。
「神様の愛はあなたの考えているよりも大きいのです!」という内容の解説です。もしも、あなたが金魚でご主人の愛を信じていたのに、ご主人が部屋を出て行ってしまったというのです。このご主人は愛している金魚のえさを買いに出かけたのです。ところが金魚はその、愛の行為が理解できなかったために、自分の目の前から消えてしまった主人は、自分を見捨てたと思ったというのです。御主人は金魚を見捨てたのではありません。部屋を出て金魚のえさを買いに、愛の労苦に出かけられたのです。でも、金魚は、部屋に主人の姿がないだけで、自分は見捨てられたと考えてしまったと言うのです。神様は、金魚のことを思って走って帰ってくるご主人のように、わたしどもを驚くべき愛をもって見守ってくださるお方なのです。身代わりに十字架にかかってくださるほどわたしどもを愛してくださるお方なのです。

神様の愛は深いのです。大きいのです。時には、わたしたちの足りない頭脳では、神様はわたしを見守って、愛していることが理解できないこともあるのです。でも、今日の聖書箇所は語ります。
主は、聞きたもう方であると。
主は、見ておられるお方であると。ハレルヤ!

3)14 それでその井戸は「ベエル・ラハイ・ロイ」と呼ばれた。
これはカデシとベレデの間にある。(14節)
⇒ ベエル・ラハイ・ロイの神  神は生きたもう!
三番目にこの箇所で「主は生きたもう神」であると語ります。ハガルはそこの井戸に命名し「ベエル・ラハイ・ロイ」と名づけました。「こういうわけでそこは・・・と呼ばれた」というような原因譚と呼ばれるような箇所が聖書には何箇所かあります。ここもその類の一つでしょうが、大変印象深いものです。「ベエル」は井戸であり、「ラハイ」は「生けるお方」、そしてロイ「わたしを見ているお方」と叫んだといわれます。「生けるお方の(井戸)、わたしを見給うお方の井戸」が、ベエル・ラハイ・ロイの意味です。主はわたしどもを心から愛し、祈りを聞き、見守り続けてくださる方ですが、ここでは「主は生きたもう!」ということが最後に強調されています。神様は生けるお方です。御人格をもたれ、人間と霊的な交流を喜ばれるお方なのです。
預言者エリヤもその預言活動のはじめに「わたしがその御前に仕える主は
生きておられる!」という宣言から始まります(列王記上17:1)。主イエスも「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである」(ルカ20:38)と語られました。    神は生きておられ、御業をなされるお方なのです。わたしどもの信仰はこの生きたもうお方を信じる信仰なのです。

2012年2月19日(日)、新春特別礼拝で村上義治先生をお迎えし、礼拝で、午後の懇談会で恵まれ、豊かな祝福をいただいた日の夕方、夕拝に出席するために牧師館の3階から2階に降りてくる途中、慣れない靴でヒールが引っかかり踊り場に転落して動けなくなりました。「誰か・・・」と呼ぶ声がしたので、急いで階段を登ってゆくと、美歌子牧師が2階と3階の間の踊り場でばったり倒れておりました。救急車に来てもらい、「三郷健和病院」に運ばれました。CTやMRIの検査をした結果医師から告げられた判断は「頚髄中心性損傷」。頚髄が損傷している関係で、色々な影響が出る可能性があり、かなり深刻である。退院後も後遺症で家事に影響が出る可能性がある。一ヶ月の入院を考えて欲しいとのことでした。動転したわたしは主に祈り、多くの方々にも祈っていただきました。二日ぐらいは腕の動かせなかったのですが、奇跡的に癒され、無事退院し、今は後遺症もほとんどありません。今も新宿の街を自転車で走り回っています。少し、心配ではありますが・・・・。

エジプトの奴隷女ハガルをさえ、心にかけてくださる主。わたしどもが人生の荒野で行き悩み、途方にくれるその時に、荒野のオアシスの如くにそばにいて助け支えてくだるさる主は愛のお方なのです。我らの祈りを「聞き給う神」は、同時に「見たもう神」であり、「生ける神」なのであります。湧いて流れる命の水の泉でもあり給うお方。今日も霊の目を天に向けて、現実の困難から逃げる事なく、恐れることなく、一足々々、主をたたえつつ、勝利の歩みをなしつづけたいと思います。ハレルヤ

【祈祷】 天の御父!宗教改革記念礼拝のひと時を感謝します。今日は、アブラハムの物語のある意味での中心、神の慈愛のまなざしが、女奴隷ハガルにも注がれていることを見ました。あなたは、わたしどもの祈りを「聞き給う神」であり、また「見給う神」であり、「生き給う神」であることを学びました。この活ける神への信仰を持って、この一週間も、あなたと共に、あなたの愛の中に歩む生涯でありますように!主イエスキリストの御名によって。アーメン