説教「神の子となる」

2019年12月15日 主日礼拝
聖書箇所:ヨハネ福音書1:10~15
説教:深谷美歌子牧師

 待ちわびるとはどんなときでしょうか?
 この正月に長男が一家で来てくれるそうです。愛する者の到来は、今どこかな?などと、話したりして、もう下まで来た!と解れば、喜びで迎えに出ますね。アドベントはイエス様の降誕を待つ時として、ろうそくを一本一本増やしていきます。実はもうイエス様はこの世界にお生まれくださって、今も聖霊様として共に居てくださるのですが、そのことを可視的にも実感し、喜ぶ時としてろうそくを灯すのでしょう。クリスマスは、救い主のお生まれの事実をお伝えし、主が歴史に介入してくださったことを指し示す時です。
 最初のクリスマスを迎えた人々はどんなだったでしょう?

【今日の聖書箇所の概説】  
11節 民を導いて来た神が自分の民の所に来たのに受け入れなかった。
12-14節 しかしこの方を信じた者には神の子となる力を与えた。
15節    ヨハネの証言。この人こそメシヤです。  

【メッセージのポイント】
1) 自分の民のところに来たのに、受け入れなかった。

 彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。(11節)
 実はメシヤ(救い主)の誕生は、ユダヤの人々は待ち焦がれていたのでした。ヨハネによる福音書には、クリスマスの日のできごとは具体的には記されていません。が、マタイによる福音書には、東方の博士がヘロデ王のところに「ユダヤ人の王としてお生まれになった方を拝みに来ました。」と尋ねて来たとき、ヘロデ王は、祭司長、律法学を集めて、どこに生まれるのかと尋ねました。「それはユダヤのベツレヘムです」と祭司長らは、直ぐに答えられました。
 このことは、ユダヤ人は、アブラハムに現れ、モーセに現れ、ダビデを立てられ、バビロン捕囚から解放された神を信じて、今はローマの支配下で苦しんでいるが、やがてダビデに勝る王が起こされ、解放し、周りの国々を平定すると待ち望んでいたからです。それがユダヤのベツレヘム、からと預言されていました。確かにイエス様はユダヤのベツレヘムでお生れになりました。待ち焦がれていたはずのメシヤでしたが、「自分の民はこれを受け入れなかった。」と書かれています。神を知っていながらメシヤを受け入れませんでした。
 なんと愚かな民と思いますが、気が付きました。今日でも多くの人々が、イエス様がこの世界に生まれたこと、その生涯の事実を知らされながらも、それを受け入れようとしていません。

2)神の子となるには?
しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。 (12~13節)
普通の人間は男女の営のみによって生まれます。しかし「神の子」はイエス様を受け入れ、その名を信じることによって生まれるとあります。
 榊原康夫師の言葉をそのまま書かせていただきます。

 私達が本当に神の子になるのは、12節の表現を使えば「彼を受け入れ、その名を信ずる」ということにおいて、そういう力を与えられるわけです。ここで信じたと訳されている言葉も、ヨハネ福音書にいわば特色的な表現でございます。ちょっと日本語でその意味を明らかにしにくいのですが、直訳しますとイエスキリスト「の中へ信じてはいる」というような表現、英語なら「ビリーブ・イントゥー」です。その中へ入り込んでいくように信じる。・・・・・「すべての人を照らす真の光」全世界を支配している神のロゴスという大きな方の中へ自分を投入してしまう。これが信じたということなのです。

 そうして「神の子」になります。しかも「実子」という言葉です。
 聖書学校の「新約聖書Ⅰ」の授業で、ヨハネによる福音書を読みました。ヨハネ14:12、13口語訳よくよくあなたがたに言っておく。わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。わたしが父のみもとに行くからである。13 わたしの名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう。父が子によって栄光をお受けになるためである。という言葉が心に留まりました。最初「え?まさかーイエス様より大きな業をする?ありえないでしょ」と思いました。しかし、「神の子」にされたものには「私の名によって願いなさい何でも叶えられる」と何度も語られています。この命は全能の神につながった素晴らしい命です。

3) 証言、恵みと真に満ちていた
そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。           (14節)
 信じることを今見ましたが、信じる根拠はこの命を経験した人々の証言です。
14節は、「言葉は肉体となり私たちのうちに宿った」とあります。新約聖書中最も重要な言葉と言われます。最初のクリスマスのことです。
 この一節は、人となって見える世界に来られたイエス様と共に歩んだヨハネ(実際に書いたのはヨハネ弟子たちでしょう。)の証言です。「宿った」という言葉は、天幕を張ったという表現で、モーセの幕屋に主の臨在が現れた時、ソロモンが神殿を奉献したとき、主の臨在の栄光があふれた時と同じ表現だそうです。
 イエス様の存在が、神様の栄光を現していたとの証言です。ヨハネは、ペテロとヤコブの3人だけを連れて、イエス様が高い山に登られ、そこへ、モーセとエリヤが現れ、エルサレムで遂げようとしていることについて語り合った時に居合わせました。この時、イエス様の姿が変わり衣がこれ以上白くならないだろうという程に輝いたのでした。この記事は、共観福音書全部に書かれています。主の栄光の姿を目撃した証言でした。
 「恵み」というのは、受けるに値しない分不相応なものを受けたことを指しています。人間がどんなに努力しても得ることのできない命を、イエス様を信じて預からせていただいたと証言しています。
 「真」(真理)とは、変わらない神の命のありようを、存在をもって現されたかた。という意味です。本当の命のありようを知ることが出来なかった私たちに、来て、見せてくださったとの証言です。
 神の子になるとは、私たちもこの命に生きる者になることです。
「ただ聖霊があなたがたに降る時、あなた方は力を受ける」復活のイエス様はこのことを約束して天に帰られました。イエス様のような愛に生きる教会、赦しあう教会、従う力は、我らのうちにおられる聖霊様により頼むことです。

4) バプテスマのヨハネの証言 
ヨハネは彼についてあかしをし、叫んで言った、「『わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この人のことである」。(15節)
 先週の深谷牧師のメッセージでも、バプテスマのヨハネは、イエス様を指し示す指だったと語られました。私達が信じる者となるために、弟子たちの生ける証言によりました。
 そして信じて、神の子とされ、この命を経験した私達は、証人の列に加えられます。バプテスマのヨハネも、人間はどんなに潔癖に生きても人間の罪を贖い、赦す権威はない。といわれるそのことをしてくださるメシヤを証言するものでした。
 先日、NHKで、首都直下型大地震が起こったという想定で、番組が組まれました。首都は再生できないいうセリフで終わりました。
 世界も、100年に一度と言われる災害が、毎年というより、一年のうちであちこちで起きていることを認め、人類が生き残るためにどうするかが真剣に討議されています。
 不安な世界に、生きる道があるこというとを知らせるのは、神の子とされ、聖霊さまに依り頼み、今も生ける主に信頼して生きるクリスチャンです。イエス様より大きい業は一人ひとりのクリスチャンがその人生を主と共に受け止め、祈り求めることによって起されるでしょう。
 今年牧師の按手を受けた澤田石先生は、仕事をしていた時、仕事と教会生活は分けて考えるのが合理的だと50歳位までがんばったそうです。しかし信仰に立って歩み始めた時、神様の業は全てに及ぶことを経験したそうです。神の子になるとは神様のご意志を生きる決断です。御言葉と祈りにより頼み、聖霊様の導きと助けをいただき、暗黒のこの世界に光をつまり証をもって生きましょう。ハレルヤ!

【祈り】

 父なる御神。深いご計画によって、私たちの人生を備えてくだ、感謝さってありがとうございます。イエス様を信じる者とされ、主が最善に導かれることを経験し生きる者とされたことを感謝します。今、置かれたところで、喜び、祈り、感謝して、聖霊様が内側からあふれ出でて愛を注がせてください。神の国の教会で礼拝生涯を通して神様の業を拝する歩みとさせてください。主の生ける証言者として光を高く掲げる者とならせてください。主の御名によって祈ります。アーメン