説教「父の懐にいる独り子なる神」  

2019年12月22日 主日礼拝
聖書箇所:ヨハネ福音書1:16~18
説教:深谷春男牧師

 クリスマスおめでとうございます。このクリスマスの良き日に、心を開いて、主イエス様を受け入れて新しい生涯へと導かれてまいりましょう。
 昨日は12月21日でした。池袋朝祷会で奨励の奉仕をしました。説教準備の途中で気がつきました。「あ、明日は12月21日だ!僕の洗礼記念の日だ!それも洗礼を受けたのは1969年のクリスマス。今年は2019年。ということは、明日は50年目の洗礼記念日だ!」。池袋朝祷会で、「今日はわたしの洗礼50年記念の日です」と言ったら、皆さんが祝福してくださいました。クリスマスは、クリスチャンにとって最高の恵みの時なのですね。

【テキストの解説】
 すでに3回にわたってヨハネ伝の「ロゴス(言)賛歌」と呼ばれる箇所を学んできました。今日はその最終回であり、「ロゴス賛歌」の結論です。
賛歌1( 1ー 5節)、創造者であるロゴス(言)を讃えるもの
賛歌2(10ー14節)、人となったロゴス(言)を讃えるもの
賛歌3(16ー18節)、恵みと真理の与え主であるロゴス(言)を讃える。
16節:キリストにある神の充満の中からめぐみに代えてさらに恵みを頂く。
17節:律法はモーセを通して、めぐみとまことはキリストを通して来た。
18節:キリストは「独り子なる神」、この方だけが神を示された。

【基本的メッセージ】
1)16 わたしたちすべての者は、その満ち満ちているものの中から受けて、めぐみにめぐみを加えられた。 (16節)
 ⇒ キリストのうちにある豊かさ。「めぐみの上に、さらにめぐみを」

 ヨハネはキリストの中にこそ「満ち満ちているもの(プレーローマ)」がみちていると語ります。それはパウロが「無尽蔵の富」(エぺソ3:8)の内容と同じです。「恵みの上に、さらに恵み」が増し加えられる歩みであると言います。この言葉は、「恵みに代えて恵みを」とも「恵みの上に更に恵みを」とも訳されます。
 登山の体験から、この「恵みに恵みを加えられ」を考えてみましょう。

 神学生の終わりの時に、石川県の金沢教会で、夏期伝道の経験を持ちました。40日間の夏期伝道でしたが、その期間中に、近くの白山に上りました。白山は標高2702mの高い山で、実にさわやかな経験でした。青年会の10人ぐらいで登りました。出発は山のふもとでした。次第に家がまばらになり、杉の木などが茂ってきれいな水の流れる小川の脇を通って、男女こもごも冗談を言いながら、笑いが林の中にこだましたりしていました。更に登ってゆくと峠があり、そこから町々が見渡せます。家がマッチ箱のようでした。山の中腹を過ぎるころにはもう高い木は見当たりません。まわりも緑の山々に囲まれています。草花や茂みの間を、登ってゆきました。26歳のころでしたので体力はあったと思いますが、なかなか息も激しくなりました。更に登ってゆくと高山植物が生えており、地元の青年が、植物の名前や高山蝶の特徴などを教えてくれました。途中で、讃美歌を歌ったりしたのを覚えています。
 山の頂上が近くなったころには、高山植物もまばらになり、岩肌が多くなりました。やがて霧がかかって見通しが悪くなりました。そのうちに、1m先も見えなくなって、足元を見ながら、リーダーの阿部先生が「おーい、みんな、いるか~」などと声をかけています。20分ぐらいその霧の中を進むと、目の前がさーっと開けてきました。少しして後ろを見ると、後ろは雲海が広がっており、雲海のはるかかなたに高い山の頂上が顔を出しております。日も暮れて夕方に近くなっており、石のごつごつした頂上近くの光景は何か、神々しいような、日常生活から離れた神聖さのような空気がありました。翌朝、暗いうちに、朝日を見に山の頂上に出かけました。少しずつ明るくなってゆく東の空は雲海がどこまでも広がっています。しばらくするとその雲海の端が金色に輝き、太陽が昇り始めました。創世記1章1節を思い起こす、すばらしい光景でした。「恵みに恵みが加えられ」、「恵みに代えて恵みが与えられる状況」に似ていました。 

 信仰の生涯も、その出発の時期もあります。信仰の最初の頃は律法によって救われると勘違いしたり、自分の愚かさを知らされつつも、神様のおられることを悟り始め、先輩のやさしさに感動し、新しい人生の喜びを讃美することから始まります。しかし、信仰生涯の中腹は、新生の恵みを越えて、自分の愚かさや人間の限界性につまずいたり、失望したりしながら、高山植物との出会いのような不思議な体験をしつつ成長してゆきます。そして、信仰の高嶺は、不信仰の疑惑の雲を突っ切り、清朗の頂き、恩寵の充満、天国の確信、濃厚なる臨在、御言葉の確証、再臨への希望、永遠の命の先取り・・あらゆる困難を越え、栄光の主にまみゆる信仰の完成へと進むのです。

2)17 律法はモーセをとおして与えられ、めぐみとまこととは、イエス・キリストをとおしてきたのである。(17節)。
 ⇒ 恵みとまことはキリストを通してきた
 人間の本当に必要な神の「めぐみとまこと」はキリストの中にある、と聖書は語ります。人間の「罪の赦し(恵み)」と、わたしたちを「生かす真理(まこと)」はキリストの中にあるのです。
 「めぐみとまこと」がイエスキリストを通してきた。人間が求めている者の最終的なもの、究極的なものは「罪の赦しと永遠の命」です。ロマ書風に言えば、主の十字架の恵みによる救いと聖霊なる神の愛の満たしです。
 モーセを通して律法はシナイ山で与えられ、神の民としてシナイ契約が結ばれました。旧約聖書で一番大きな事件はこのシナイ山での、神の民の出発であり、律法の授与でした。律法は神の真実な法則であり、命なのです。神を愛し、人を愛して生きる人生の基礎を教えているからです。でも、罪ある人間は、それを守ることができなかったのです。しかし、ここではそれ以上の「恵み」と「真理」がイエスキリストを通して来たとヨハネは語ります。それはイエスキリストを通して神の愛と救いが来たことを告げるのです。

3)18 神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。(18節)。
 ⇒ 主イエスは、ひとり子なる神!
 ヨハネはかなり思い切って語ります。この1~18節の序文のところで、イエスキリストは、神のふところにおられるひとり子なる「神」であると宣言します。キリストは「神」であると告白しています。この表現は「神の子」でなく「子なる神」です。これはキリストの「神性」の強調です。
 またヨハネ20章の終りにおいてトマスの信仰告白を通して「わが主よ、わが神よ」という告白をしています。当時はユダヤ的な色彩の強い信仰の中でキリストを「神」と告白することは、多くの困難がありました。しかし、ここに信仰告白の原点があります。キリストは神なのです。

 小松川教会牧師の原登先生の救いと献身の証し。「百万人の福音」から。
 わたしが16歳の時に、川崎の三等郵便局に勤めていた。そこで一緒に働
いていた小泉さんという同僚がいた。彼の兄さんは仕事師をしていたが、ある日、仕事の最中に、上から丸太が落ちてきて、死んだ。
 わたしは友人の兄のお葬式に、参列することになった。目の前についさっきまで元気で働いていた人が、突然死ぬという厳粛な事実にぶつかり、大きなショックを受けた。わたしは生まれつき、からだが弱く、病気ばかりしていた。そのため常々、死に対する恐れを心の中にいだいていた。小学校から旧制中学校へと進んで、実社会に出ても、わたしの健康はあまりにすぐれず、いつ死ぬかしれないと考えていた。そうした矢先に、友人の兄の死に直面したのである。 わたしはいても立ってもいられなくなった。人間はいつか地上から姿を消す。死は必ず訪れるのだ。しかし、その後どうなるのか、それがわたしの悩みであった。
 昭和12年12月12日は、非常に暗い晩であった。暗い気持ちになっていたわたしは、友人に誘われて、蒲田の賜恩教会に行った。民家を改造した古い教会であったが、40人ばかりの人が集まっていた。生まれて初めて教会の門をくぐったわたしは、まず、明るい雰囲気に驚いた。わたしは、なぜであったか知らないが、「ここに生きる道がある!」と直感した。
  講壇の上で話をなさったのは砂山先生であった。先生は説教の後で、講壇の上の十字架を指さし、「この十字架を信じなさい!」と叫んだ。信仰の決心をすすめられた時、わたしは瞬間的に手を上げ、前へ出た。それは、わたしの人生の歴史にとって、回れ右をする、重大な一瞬であった。それからわたしの、まったく新しい人生が始まるのである。
 わたしは救われると、こんなすばらしい福音を人々に伝える伝道者になりたいと考えるようになった。この願望を語ると、まず、牧師が反対した。数え年17だから若すぎるという。また、同僚も極力引き留めようとした。
 わたしの勤めていた郵便局の局長が、いつの間にかわたしの父宛に、わたしがヤソの伝道者になりたいと言っていると手紙で連絡してしまった。怒ったのは父親である。わたしはさっそく、実家に呼び戻され、父にどなりつけられた。それでもわたしの決心が変わらぬので、父はわたしのシャツをびりびりになるまでせっかんし、小川の水を汲んで来てかぶせようとした。母は母で、泣いてわたしの翻意を勧めた。その夜、わたしは離れ屋で寝たが、このままであったら永久に伝道者になれぬと思い、両親あてに長い置手紙を記して家を飛び出した。ひとまず私は、教会に下宿させてもらうことにした。
 (文章はまだ続きますが、原登先生の救いと献身の生々しい証しです。)

クリスマスの日は、神の大きな愛がわたしたちの心に激突した日です!

【祈り】 天の御父!クリスマス礼拝を感謝します。主イエスこそ、暗黒を照らす「まことの光」。そしてまた、命であり、恵みである、受肉のロゴスであることを学び、更に「この独り子なる神」を心に受け入れ、成長することを学びました。新しく迎える2020年、輝く勝利の日々へと導いてください。救い主、主イエスの御名によって祈ります。アーメン