説教「砂漠は喜び番紅花の如く花咲く」  

2020年2月2日 主日礼拝
聖書箇所:イザヤ35:1~10
説教:深谷春男牧師

 日本の暦ですと2月3日が節分、2月4日が立春となります。1年で
一番寒い時ですが、わたしたちはその寒風の中に春の到来を感じとり、
立春を祝います。旧約の預言者らは、いつもイスラエルの不従順と罪と
に対決し、冬のような厳しい霊的な状況の中にあっても神の恵みの時、
福音のかぐわしい春の到来を感じ取っていました。元旦から毎日読み続
ける聖書箇所の一つイザヤ書は、2月4日には35章を迎えます。 

 この箇所は旧約聖書中「最も美しい信仰の告白の一つ」(手塚儀一郎)と言われます。ユダの荒れ野、荒涼とした砂漠のような世界に「サフランの花=ハバッツェレス)」が一面に咲き乱れ、レバノンの豊かな緑の世界が広がり、神の栄光が現れるというのです。主イエスを迎えることにより魂に春を迎えます。そしてイザヤ35章と共に「ああ、ついにわたしの人生に春が訪れた!」と告白するのです。  ハレルヤ!

【聖書箇所の概略】
イザヤ書は大きく2つに分かれます。(3つという学者もいます。)
第一部 1-39章、紀元前8世紀にエルサレムで活躍した預言者イザ
ヤの壮大な神の救いの歴史についての預言集。かなり後代の
ものも含まれ、今日の35章はその結論部分です。
第二部40-55章、そして56-66章。ペルシャ王クロス王による
勅令から、捕囚帰還時(紀元前546-520)の神の救い
と愛と臨在の信仰の内容が記され、その中心はイザヤ53章
の苦難の僕の贖いの業。これは主イエスの十字架の贖いに通
じるすばらしい内容が記されます。

【メッセージのポイント】
1)3 あなたがたは弱った手を強くし、
   よろめくひざを健やかにせよ。
  4 心おののく者に言え、(3,4節)
 ⇒ バビロン捕囚で力を失った民の現実! (罪と死の破れの真相)
 ここにはイスラエル民の嘆きの現実が記されています。今日の聖書箇所は、第一イザヤの最後の締めくくりです。はや、バビロン捕囚からの解放が歌われています。ご存じのように、紀元前586年、小国イスラエルはバビロン軍によって滅ぼされてしまいました。エルサレムは焼かれ、神殿は崩壊し、人々は虐殺され、生き残った人々は奴隷として売られ、おもだった人々は遠くバビロンの捕囚となったのです。これは国の崩壊の悲劇の時代の物語でした。その悲しみの世界の回復がこの35章では、記されて、第二部の40章からの回復へと話を進めているのです。
 3~4節には当時のイスラエルの人々の心境が描かれます。バビロンでの捕囚があまりに長く、苛酷であるために彼らは疲れ果てているのです。3 節にある「弱った手」とは神様に仕える奉仕の手です。「よろめく膝」は行動を示し、ある方は祈りを示していると言います。膝を折って祈るからです。4節の「心おののく人々」は、もう、だめだ、神さまからわたしたちは見捨てられた!と思っている人々です。
 そこに、預言者の言葉が続きます。

2)、4b「強くあれ、恐れてはならない。
      見よ、あなたがたの神は報復をもって臨み、
      神の報いをもってこられる。
      神は来て、あなたがたを救われる」と。(4節)
  ⇒ 見よ、あなたたちの神を!この方が救う!(見よ、神を!)
 4b心の狼狽している人に言え
  「強くあれ。恐れるな!
     見よ!あなたたちの神を。
  復讐が、神の報いが来る。
  この方が来て、あなたたちを救う」 (4節の直訳)
 これはアブラハムが神によって選ばれ、イスラエルが出エジプトを経験して以来、神と民の間の関係を確認する中心的な言葉です。また、それはイスラエルの歴史の中で繰り返され、伝承の中心として、聞くたびに、新しく彼ら自身のものとして、再確認をする救いの言葉なのです。
 特に「見よ、あなたたちの神を!」の言葉の中に神御自身の到来を待ち望むイスラエルの信仰の原点を見ることができます。「この方が来てあなたたちを救う!」とイザヤは語ります。われらの救いは、神御自身の到来と、神御自身の赦しと、その贖いの業にあるのです。

3)1 荒野と、かわいた地とは楽しみ、
   さばくは喜びて花咲き、さふらんのように、
  2 さかんに花咲き、かつ喜び楽しみ、かつ歌う。
   これにレバノンの栄えが与えられ、
   カルメルおよびシャロンの麗しさが与えられる。
   彼らは主の栄光を見、われわれの神の麗しさを見る。
      ・・・・・・・
  6c それは荒野に水がわきいで、
   さばくに川が流れるからである。(1,2・・・6c節)
 ⇒ 砂漠にサフランの花が咲く!(回復の約束。自然界へ)
 相次ぐ戦争と捕囚で荒廃したユダヤの荒野。不毛の砂漠と化した自然に、神様が、回復の業をなされることが歌われます。イザヤは神の救いの業が、自然界にも表れることを良く記します。55章の最後の所なども、野原の木々が手を打って讃美し、喜んで造り主を讃える姿が描かれます。「砂漠にサフランの花が咲く!」とは神の救いの成就を示す、大変美しい言葉です。若い時に読んだ藤井武の「来生研究」の冒頭に、「砂漠に番紅花(さふらん)の花が咲く」とあり、キリストの贖いにより、罪から救われ、永遠の命に生きる希望が歌われております。

4) 5 その時、見えない人の目は開かれ、
    聞えない人の耳は聞えるようになる。
   6 その時、足の不自由な人は、しかのように飛び走り、
    口のきけない人の舌は喜び歌う。  (5,6節)
  ⇒ 目、耳、足、舌が自由になる! (回復の約束。人間界へ)
 ここには、神御自身の到来とともになされる素晴しい御業が記されます。見えない目が開き、語れない舌が賛美し、歩けなかった人が鹿の様に踊ると預言されています。
 主イエス様は、バプテスマのヨハネが、獄に捕らわれて、不安定な中にいて、来るべきメシヤはあなたですか?と弟子たちに問わせた時に、この箇所を引用してお答えになりました。ルカ7:22。
 愛する兄弟姉妹。これはわたしたちの救われた姿です。かつては神様が見えなかったわたしたちが、神様が分かり、見えるようになったのです。聞こえなかった者ですが今は神の声が聞こえるのです。かつては人間不信と自己嫌悪で賛美などできなかった者が今は心一杯、主をほめたたえるのです。かつては何をしていいのか、足がもつれていた者が、鹿の様に軽やかに飛び跳ねているのです!

5) 8 そこに大路があり、その道は聖なる道ととなえられる。
    汚れた者はこれを通り過ぎることはできない、・・・・
   10 主にあがなわれた者は帰ってきて、
    その頭に、とこしえの喜びをいただき、
    歌うたいつつ、シオンに来る。
    彼らは楽しみと喜びとを得、
    悲しみと嘆きとは逃げ去る。  (8~10節)
   ⇒ 贖われた者の道、喜びと楽しみの道。   
 ここには、ペルシャ王クロスはイスラエル人がバビロンからエルサレムに帰る「ハイウエイ」を石畳で作ってくれた背景が歌われています。「汚れた者」とは不信仰の異邦人、「贖われた者」が9節と10節に二回記されます。神に救いの恵みを受けた者のことです。喜び歌いつつ、シオンに帰りつくのです。
 先週は、美歌子先生が「わたしの信仰のルーツ」という文章を書いているのを読ませていただきました。「父・湯澤實の信仰。母・湯澤七重の信仰。姉・弟の信仰。恩師・森山諭先生の信仰」興味深く読ませていただきました。特に、お父様の信仰を読み大きな感動を頂きました。「父は真面目一徹の青年でした。十代で横浜に出て働きながら関東学院の英語学校で学んでいました。友人の佐野さんに誘われて、教会に行き、すべての人は「罪人」と聞き、「自分ほど真面目な人はいない。映画を見に行くわけでも、ましてお酒を飲みに行くわけでもない。たまに本を買って読むぐらい。」と抵抗があったが、ある日、世話になっている、叔父の家の物置にこもって、小さい頃からの思い出す限りの罪を告白して、祈った時、赦しの確信と喜びに満たされた。物置にあった自転車に乗り、近くの小学校の校庭をぐるぐる走った。救いの喜びの表現だった。やがて、菅野鋭先生から訓練を受け、尾花晃兄と共に献身の歩みをした。
 自転車で小学校の校庭をぐるぐる回る喜びの姿が印象的でした。

【 祈り 】 天の御父。今日は聖書で最も美しい箇所と言われるイザヤ35章を読みました。これはわたしどもへの救いの現実です。試練のただ中で、イスラエルの民は「砂漠は喜び番紅花の如く花咲く」とメッセージを頂きました。神御自身の到来により「目が開かれ、耳が開かれ、舌のもつれが解け、鹿の様に喜び歩む人生」へと導いて頂きました。わたしどもも同じように導いてください。この「聖き道」をしっかり歩ませてください!主の御名によって。アーメン