説教「見よ、わたしは新しい事をする」ー三つの出エジプトー  

2020年1月19日 主日礼拝
聖書箇所:イザヤ43:14~21
説教:深谷春男牧師

 今年のホ群新年聖会の「テーマ」は、「見よ、わたしは新しいことをする」でした。説教者は横山好江先生と島隆三先生。お二人ともイザヤ書から、神様に恵みによる勝利の生涯を語っていただきました。説教を聞きながら、小林和夫先生が語られた「三つの出エジプト」という説教題が心に浮かびました。オリンピック三段跳びのように、ホップ・ステップ・ジャンプのイザヤの主題を見たいと思います。

【今日の聖書箇所の解説】 
 預言者イザヤはイスラエルの民の一番困難なバビロン捕囚と言われる暗黒時代に生きた人です。イスラエルの民が、自分の罪の結果と他民族から厳しい圧迫を受け、戦争に破れ、愛する家族を失うような現実を経験して、バビロンに奴隷となって、心身ともに疲れはて、夢も希望も無くなっている時に、彼はすばらしい神の幻を見、民を励ましました。特に、イザヤ書40章以下の内容は、旧約聖書でも最も高く評価され、多くの人を生かした箇所になっています。

【メッセージのポイント】
1)、 14 あなたがたをあがなう者、イスラエルの聖者、
主はこう言われる、
「あなたがたのために、
15 わたしは主、あなたがたの聖者、
イスラエルの創造者、あなたがたの王である」。(14,15節)
⇒ あがない主、イスラエルの聖者は、ただ主のみ!
この10~15節では、繰り返して、神様は、「わたしこそ主、わたしこそ神、わたしがあなたがたを救う」と語ります。
バビロン捕囚からの解放と、新しい御業への期待はこの「ただ、わたしのみ神!」という宣言にかかっています。唯一の、生ける神への信仰を持つ時に、人は神との人格的な出会いを経験するのです。
「わたしは神である。」(13節)。
「わたしは主、あなたがたの聖者、
イスラエルの創造者、あなたがたの王である」(15節)
全ての偶像を捨て、自己中心の生活を捨て命の神に立ち返りましょう。
 週報のコラムにも書きましたが、1コリント10章には、「四つの鑑」が記されます。せっかく、神様の奇跡により、紅海を渡って、水をくぐって新しい世界に入ったにもかかわらず、イスラエルの民は、荒野で罪を犯し、神の恵みから漏れてしまいました。
パウロは、旧約聖書のエジプトを脱出したイスラエルの民が荒野で、恐ろしい罪に陥ってしまった事を「警告」として書いています。この「警告(=tupos)」という言葉は、文語訳聖書では「鑑(かがみ)」と訳されていました。4面鑑は、つぎの4つです。◇第1は偶像礼拝。まことの神ではないものを神として礼拝すること。イスラエルの民は金の子牛を礼拝して、神の怒りを招きました。第2は性的な不品行。イスラエルの民は荒野で、恐ろしい性的混乱に陥り、一日2万3千人も倒されたとあります。第3は主を試みてはならないとあります。神様の臨在を信じられなくなり、蛇に殺されてしまったと言われます。第4はつぶやき。つぶやいた者は、「死の使い」に滅ぼされたと語られます。◇この新しい1年、喜びと感謝の一日一日を全うしましょう。にっこり笑顔は16本の顔の筋肉がほどよく動き、美人を作り、怒りの顔は37本の筋肉が醜く動いて、恐ろしい様相を作るのだそうです。

2)、16 海のなかに大路を設け、大いなる水の中に道をつくり、
17 戦車および馬、軍勢および兵士を出てこさせ、
これを倒して起きることができないようにし、
絶え滅ぼして、灯心の消えうせるようにされる
主はこう言われる、
18 「あなたがたは、さきの事を思い出してはならない、
また、いにしえのことを考えてはならない。(16~18節)
⇒ 昔のことを考えてはならない? 
16節17節は、モーセの時代、イスラエルの民が、エジプトから解放された時の描写になっています。
しかし、18節には「あなたがたは、さきの事を思い出してはならない、
また、いにしえのことを考えてはならない。」と記されています。「さきのこと、いにしえのこと」とは、イスラエルの民にとっては、これは「出エジプトの出来事」であることは、16,17節からも明らかな事です。イスラエルの民にとっては人生の原点、歴史の原点となる最重要な出来事なのです。それなのに、神様は、それを思い出すな、それを考えるなと言うのです。これは一体どういうことなのでしょうか?
この間、美歌子先生が解説してくれました。P.D.ハンソン先生の注解書には「ここには大変優れた修辞法が使用されている」と言われ、「結局は出エジプトの出来事が強調される」と語られたので、とても刺激を受けました.昨日は夜遅くまでこの注解書を読みました。「実は不意打ちの技術を含む非常に効果的な修辞的仕掛け」になっていて、イザヤ書の46:8,9節では
思い起こし、力を出せ。
思い起こせ、はじめからのことを。
と記される。(左近淑師のものも同じような内容が記される。)
神は、偉大な力を持たれるお方。あの「出エジプト」の奇跡をなされた。そして、また、今は、「出バビロン」の奇跡をなそうとされている。そして更に、神は、新約にいたり主イエスを通して、その十字架と復活を通して、全人類の「出エジプト(エクソダス)」を計画された。(ルカ9:31は、山上の変貌で話された「エルサレムで遂げようとする最後のこと」は、「エクソダス(=出エジプト)」と表記されている。)実にこの聖句はエレミヤ31:31の「新しい契約」に匹敵する大切な聖句に思えます。救いは、古いモーセの律法を超え、イエスキリストの贖いの業によるのです。これは2コリント3、4章に記される古い契約、新しい契約への主題とつながっているも言えるでしょう。

3)、19 見よ、わたしは新しい事をなす。
やがてそれは起る、あなたがたはそれを知らないのか。
わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる。
20 野の獣はわたしをあがめ、
山犬および、だちょうもわたしをあがめる。
わたしが荒野に水をいだし、
さばくに川を流れさせて、
わたしの選んだ民に飲ませるからだ。(19~20節)
⇒ 見よ、わたしは新しい事をする!
さて、新しい業とはイザヤにとって何であったのでしょう。彼は言う。「やがてそれは起こる」と。しかしこれは少し弱い表現です。新共同訳が直訳に近い言葉です。「今やそれは芽生えている」。関根正雄訳では「そのきざしは見え始めた」。「萌え出る」という言葉が使用され、
新しい時代の初穂が萌え出ていると美しく表現されています。
神の新しい「第二の出エジプト」が始まるのです。それは「荒野に道ができる。砂漠に川が流れる」出来事だとイザヤは語ります。多くの人はこれを聞いて嘲笑ったことでしょう。道がないから荒野という。川がないから砂漠というのだ。どうしてそんなことが起こるものかと。
しかし、現在、イスラエルの砂漠には潅漑用の池が多く造られ、遠くの川から引かれた水がスプリンクラーによってまき散らされて、緑地と変わってしまいました。また、荒野に高速道路が伸びています。 わたしたちの小さな頭でこれできないと思ってしまうのです。全能の神は今も生きておられます。奇跡は起こるのです。
預言者は「見よ!」という言葉から始めます。「見よ!わたしは新しい業をする!」と。それは昔あったようなものではなく、想像もできないようなすばらしい業であると預言者は語ります。
新しいわざはどこから起こるのでしょうか。それは神から起こるのです。神の聖所から起こる。無から有を呼び出だす神、死者をよみがえらせる主、枯れた骨を復活せしめる主が、今、十字架のあがないと復活と聖霊の充満をもって、わたしどもに新しい人生を語るのです。
獣、山犬、だちょうも、皆、神を賛美する!
さらに預言者は言う。神様の奇跡の力は自然界を作り変え、荒野に道を、砂漠に川を流れさせるばかりでなく、そこにすむ動物たちをも作り変えてゆく。獰猛な獣たち、山犬(ジャッカル)、だちょうなど異様に映る獣たちも、皆、創造主を誉めたたえるものとなると言う。これは、当時神の民を迫害し、信仰をあざけった異邦の民が神様に立ち帰って、全世界が福音化されるとの幻、世界的リバイバルの描写となります。
今日は、「新しい事」は、三つの出エジプトで説明されていると語りました。即ち、①出エジプト(BC13~14世紀)、②出バビロン(BC538年)、③出この世=主イエスの十字架と復活の福音による救済!

【 祈り 】 天の御父。イザヤ43章を感謝します。試練のただ中で、イスラエルの民は、「ただひとりの神を知り」、その所から「昔のことを思い出すな!」という御言葉を受け、「見よ、わたしは新しいことをする」との御言葉に支えられ、新しい歩みを始めました。この朝、わたしどもの目を開き、あなたのなさる恵みの世界にしっかり見させてください!主の救いの「三つの出エジプト」!ハレルヤ。この一年に奇跡を。個人も家族も教会も新しい御業を!御名によって祈ります。アーメン