説教「子どもたちよ、帰れ!」 

2020年3月1日 受難節第一主日礼拝
聖書箇所:エレミヤ3:12~14
説教:深谷春男牧師

 教会の暦では2月26日(水)の灰の水曜日から受難節が始まりました。受難節は主イエスの十字架の御苦難を偲び、またその贖いによってわたしどもは救われたという信仰を深く魂に刻む時です。今年はこの受難節は4月11日まで続き、4月12日にイースターを迎えます。キリスト教の一番中心である、十字架の贖いと復活の恵みを深くこころに留めることにしたいと思います。  今日は、その受難節の第一主日になります。今日は、旧約聖書のエレミヤ書から、預言者エレミヤの言葉に耳を傾けてみたいと思います。

【今日の聖書箇所の概説】
 エレミヤと言う人は、旧約聖書では大変、素晴らしい働きをした方です。たとえば、矢内原忠雄先生の「余の尊敬する人物」と言う本の中では、一番先に、このエレミヤのことが挙げられています。でも、なかなか、エレミヤ書は52章もあり、歴史的な背景等もたくさんあって、理解するのが難しい所もあります。19歳のころに、わたしの友人は、洗礼を受けてすぐに「昨日はエレミヤ書を徹夜ですべて読んだ!」というので驚いたことがありました。
 ある所で、エレミヤの信仰を説明してほしいと言われて簡単に説明したことがあります。わたしなりのまとめですが、以下のように要約してみました。


① 涙の預言者。アナトテの祭司の子として生まれ、霊的な家庭に育った彼は
「真実な、涙の預言者」と呼ばれました。1章2節に「主の言葉が彼に望んだのはヨシア治世13年・・」とあり、それは紀元前626年であったと確認されています。彼はその時、20歳前後の青年でしたが、「ゼデキア王の11年の終わり・・・まで続いた」とありますが、それは紀元前586年のことです。約40年間、預言活動をした、真実な、感受性の豊かな預言者だったようです。

②神に立ち帰れ(シューブ、あるいはシュ―バー)!彼はイスラエルの歴史の最悪の時代、国が亡び、多くの者がバビロンに捕囚とされる時代に神の言葉を語る預言者となりました。彼の預言の要約は人々に対して「神に立ち返れ!(シューブ)」と語ったメッセージでした。今日の3章や4章はじめには「イスラエルよ、帰れ」としるされます。

③人間の罪の絶望的な深さ。エレミヤ書13:23では「クシュ人は皮膚を、豹はまだらの皮膚を変ええない」と語り、人間の本質の中に、罪は深く食い込んでいることを示しました。この人間のどうしようもない罪への洞察が、エレミヤの鋭いメッセージとなって、いつの時代でも多くの魂に訴えるのだと思います。

④罪の破局としてバビロン捕囚。人間の内側に巣食う「罪」は、神の民がついにバビロン捕囚という歴史的な出来事に直面したことを語り、選民失格の事態にまで陥らせてしまったことを示しました。エレミヤはこの捕囚は、イスラエルの民の罪に対する神の裁きであると大胆に語りました。

⑤試練は平和の計画であること。将来と希望を与えるものである。これは以前説教をしたことがありますが、29:11の聖句が指し示しております。「主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え希望を与えようとするものである。」この聖句は、わたしたちに神様の持っておられる素晴しい計画、素晴しい将来への約束指し示しております。そして最後は、

⑥新しい契約。31:31~34では「新しい契約」を結ぶ日が来ることが語られました。ここは旧約聖書の中で最も大事な個所と言われます。これが、新約の主イエスの十字架と復活、つまり、「新しい契約」を指し示すからです。
主イエスの深い愛を黙想しつつ充実した40日を過ごしましょう。

【今日のメッセージのポイント】
1)12 あなたは行って北にむかい、この言葉をのべて言うがよい、
   『主は言われる、背信のイスラエルよ、帰れ。
   わたしは怒りの顔をあなたがたに向けない、
   わたしはいつくしみ深い者である。
   いつまでも怒ることはしないと、主は言われる。(12節)
⇒ イスラエルよ、帰れ。神に立ち帰れ!
 先ほど、エレミヤのメッセージの中心に「帰れ!」と言う言葉があることを語りましたが、「神に立ち帰れ」、ユダヤの言葉では「シューブ」と言う言葉ですが、エレミヤの真実な人格と、語られたメッセージは、とても印象的だと思います。わたしどもは、人生の岐路に立ったとき、人生の試練に立ったとき、神のもとに帰るのです。それが「悔い改め」と言うことです。
ここには、わたしどの父なる神様は、「わたしは怒りの顔を向けない」「わたしは慈しみ深い」と語られる、愛の神、赦しの主であることも告白されています。この恵みの主のもとに、わたしどもは帰るのです。
この「帰る」という言葉は、「方向を変える」「悔い改める」と言う意味も持っています。神様に立ち帰る姿を意味しています。
ルカ15章には放蕩息子の話がありますが、「慈愛の父の許に立ち返る放蕩息子」の姿は、悔い改めて、お父様の許に帰る、「救いの出来事」の典型的な感じがいたします。お父さんのもとを離れて、放蕩に身を崩していた息子が、自分の困窮の中で、「本心に立ち返り」「父のもとに帰ろう」と歩き始めるのです。お父様は、その息子が帰るのを、今か今かと待っているのです。
先週の聖書研究・祈祷会で、ヨハネ1章の「ペテロが主イエス様に始めて出会った」所を学びました。参加していた午前中の方々も、夕方の参加者も、短く、自分の主イエス様との出会いを証しされてとても恵まれた時を持ちました。ある姉妹は、「主イエス様との出会いを文章にしていたら、夜中の1時半になってしまった」とその恵みの証しをして下さいました。
愛する兄弟姉妹。わたしたちは、いつも「初めの愛に戻って、自分の信仰生涯を霊的に、新鮮に保つことが大切だと思います。主イエス様の十字架がよく分かり、わたしの罪のため、主は身代わりにわたしの罪を負ってくださった!と分かる瞬間は、人生の最も大切な瞬間だと思います。
今日、この日を、このときを、「主に帰る日」といたしましょう!

2)13 ただあなたは自分の罪を認め、
   あなたの神、主にそむいて
   すべての青木の下で異なる神々に
   あなたの愛を惜しまず与えたこと、
   わたしの声に聞き従わなかったことを
   言いあらわせと、主は言われる。
 ⇒ ただあなたは自分の罪を認め
 真の神の立ち帰るには、やはり「あなたは自分の罪を認め」て立ち帰るようにと語られています。
 神から遠く離れて、自分中心の歩みをし、空しく歩んだ人生から、真の神への立ち帰るのは罪の悔い改めが必要なことを教えられます。
 先先週に持たれた、熊谷市の森林公園、ホテル・ヘリテージで開かれた第59回の日本ケズイック・コンベンションで感動したことの一つに、日本人講師の先生方が、早天聖会で、あるいは信徒セミナーで説教をされましたが、皆、ご自分の若い時の神様に取り扱われた体験をお話をされたことでした。
3人とも、牧師先生のご子息で、真面目な、素晴しい先生方でした。牧師の息子さんと言うのは、なかなか、大変だと思いました。特に、中学生や高校生のころの思春期、反抗期のころには、さまざまな体験をされるのだ、と感動して聞いておりました。その一人、千代崎先生は、中学生の時に信仰の告白をして新しい人生に入ったが、教会の聖会や修養会の中で、神様の前に、自分の隠れた部分を示され、弱さや醜さと戦い続けた青春時代の証しをされました。聖会で恵まれ、「ああ、これで大丈夫だ!」と恵みを経験するけれども、また、自分の弱さの中に落ちてしまう。大学生の終わりの夏は牧師をになろうか、自分の道を行くかで、執拗な戦いがあったと言われました。真面目な優秀な先生であればあるほど、霊的な葛藤の中を歩み続けたのでした。高校の数学の先生を三年間されてから、神様のお声で、牧師へと献身されたとのことでした。

3)14 主は言われる、背信の子らよ、帰れ。
   わたしはあなたがたの夫だからである。
   町からひとり、氏族からふたりを取って、
   あなたがたをシオンへ連れて行こう。(14節)
 ⇒ わたしはあなたの夫だから。
 わたしたちの信仰生涯は、神様との契約関係に生きることです。契約関係の典型的な例は、結婚です。深い人間関係の真実の中に、愛し合い、励まし合い、真実な共同体を形成してゆく人格的な責任主体となることです。神の国を形成してゆく歩み、罪を赦し、愛の契約の中に歩む神の民として歩みを示します。
 パウロ先生は、「わたしは、あなた方をキリストと婚約させた」という表現し、エレミヤを通して「わたしはあなた方の夫」と主は宣言します。 
 以前、インドで素晴しい働きをし、ノーベル賞を受賞した、マザー・テレサの言葉を読んだことがありました。そこにはこのような文章が書かれておりました。マザー・テレサの言葉。「夫婦となって家庭を築くのは厳しいことですね。それぞれ、好みも、趣味も、違う人格の違う者同士が、結婚し、愛し合い、尊敬し合って共同体を作ることなのですから・・。実はわたしも、夫が、時々、驚くような奇想天外なことを言うので、困ってしまうことがあるのです。」
「え?マザー・テレサは、結婚していて、夫がいたのか?」と一瞬、びっくりしてしまいました。そしてすぐに分かりました。あ、夫とはイエス様のことか。修道女として生涯、神の愛を実践されたマザーのジョークでした。
最後に、旧約の最も大事な聖句の一つ、エレミヤ31:31~34聖書の箇所を読んでみましょう。
「33 しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。34 人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」。
 石の板にではなく、心に神の律法を記し、われらの不義を赦し、罪を消し去りたもう、キリストの恵みの時代が来ているのです。ハレルヤ
 
【祈り】 主よ。今日は預言者エレミヤの「主に帰れ!」との説教を聞きました。この受難節の第一主日、霊の目を開き、あなたをしっかりと見、あなたのもとに帰る者として下さい。コロナウィルスのニュースの飛び交うこのような日々ですが、主よ、あなたの御摂理の恩寵の中に歩むことができますように!あなたの慈しみと愛の中を歩ませて下さい。主の御名によって。アーメン