説教「種まきのたとえ」  

2020年2月7日 主日礼拝
聖書箇所:マタイ13:1~23
説教:深谷春男牧師

18歳で、大学受験の準備をしていたころ、親友のS君のアパートで、夕食を共にし、芸術論について色々なことを話し合いました。その中で、わたしが最近、教会の礼拝に出席していることを話した時に、この友人は、わたしにこのようなことを話しました。「実は僕も熊本にいた時に、子供のころに教会学校に行き、青春時代も何回か教会に行ったことがあるよ。深谷が教会に行ってキリスト教の教えを聞くことは素晴しいことだと思っている。僕も何回か教会に行ったが、印象に残っているのは『種まきのたとえ』だね。

結局、聖書の福音の種が心にまかれ、話を聞いた時はイエス様に従って真実な歩みをしようと思っても、道端とか、茨の中に落ちて、信仰の種が圧迫されて、信仰持つことまで至らないという話だったよね。自分ことのように感じるよ・・・・。」わたしは、友人の記憶力の確かさと熊本の地は早くから熊本バンドの発祥の地で、聖書への関心が高いと感銘を受けました。彼は、その後、数年して三崎町教会で洗礼を受け、新しい人生に入りました。
このわたしの友人S君のみならず、現代は情報化の時代で、誰でも、自由に神の言葉を聞くことができます。幸福な豊かな時代に、我らは生きていると思います。しかしまた、それ故に、わたしどもは神の言葉に対する心の態度が問われることとなります。
「神の言葉」、福音を聞く、4種類の心について今日は聞いてみましょう。

【聖書箇所の概略と内容区分】
 マタイによる福音書13章には、主イエス様が話された「種まきのたとえ」と、その関連のたとえが記録されています。人々が、ガリラヤ湖畔におられた主イエス様のそばに、次々と集まりました。主イエス様は、多くの方にお話が届くように、船の上で語りました。それが有名な「種まきのたとえ」でした。その内容は以下の通りです。
1~3節 ガリラヤ湖のほとりに大群衆が集まり、主イエスは船から語る
3~ 9節 4種類の土地に落ちた種のたとえ
10~15節 「たとえ」で語る理由の説明
16~23節 4種類の土地に落ちた種の内容の解説

【メッセージのポイント】
1)、1 その日、イエスは家を出て、海べにすわっておられた。2 ところが、大ぜいの群衆がみもとに集まったので、イエスは舟に乗ってすわられ、群衆はみな岸に立っていた。3 イエスは譬で多くの事を語り、こう言われた、「見よ、種まきが種をまきに出て行った。4 まいているうちに、道ばたに落ちた種があった。すると、鳥がきて食べてしまった。5 ほかの種は土の薄い石地に落ちた。そこは土が深くないので、すぐ芽を出したが、6 日が上ると焼けて、根がないために枯れてしまった。7 ほかの種はいばらの地に落ちた。すると、いばらが伸びて、ふさいでしまった。8 ほかの種は良い地に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。9 耳のある者は聞くがよい」。
⇒ 福音を受ける心に、4種類の土地があること。
①  3 イエスは譬で多くの事を語り、こう言われた、「見よ、種まきが種を
まきに出て行った。4 まいているうちに、道ばたに落ちた種があった。すると、鳥がきて食べてしまった。
⇒ 「道ばた」(主イエスの救いに無関心な固まった心)
 第1の種は道ばたに落ちました。「道ばた」は、多くの人々の足で、ふみかためられた固い土の所です。この世の常識だけで生きている人の心。『み言葉』が心にまかれるが、たいして興味も示さずやがて、その種(み言葉)はサタンが来て食べてしまう。「不信仰な俗悪な者」の象徴である(ヘブル12:16参照)と聖書は語ります。
主イエスの解説  19 だれでも御国の言を聞いて悟らないならば、悪い者がきて、その人の心にまかれたものを奪いとって行く。道ばたにまかれたものというのは、そういう人のことです。

②  5 ほかの種は土の薄い石地に落ちた。そこは土が深くないので、すぐ芽を出したが、6 日が上ると焼けて、根がないために枯れてしまった。
⇒ 土の薄い石地 (自我の砕きを体験する)
 第2の畑は土の薄い石地です。ここは土が程よくあるように見えますが、実は『自我』という大石が隠れていて根が深く張れない。すぐに自己中心の思いが出てきて、み言葉に本気に従う気にはなれないままに、やがて根がないために枯れてしまうのです。自我は砕かれねばならない。根がないので枯れてしまうとは毎日の生活で主の前に出ることの少なさへの警告とも理解できると思います。
主イエスの解説   20 石地にまかれたものというのは、御言を聞くと、すぐに喜んで受ける人のことである。 21 その中に根がないので、しばらく続くだけであって、御言のために困難や迫害が起ってくると、すぐつまずいてしまう。

③  7 ほかの種はいばらの地に落ちた。すると、いばらが伸びて、ふさいでしまった。
 ⇒ いばらの地 (世の楽しみに惑わされず、神第一を貫け!)
 第3の種は、「いばらの地」のような畑に落ちました。いばらの地とは主イエスの解説ですと、「世の心づかいと富の惑わしがみ言葉をふさぐ」そのような心の状態を言っています。肥沃な地であり、多くの可能性があるために、心が分裂してしまうのです。そして主イエスの言葉が第2第3のこととなり、ついにはこの世的なトゲトゲした状態にと落ちてしまうことです。若いころによく、ショウペンハウエルの『山あらしの論理』と言うのを聞きました。山あらしは寒い冬の日に一人でいるのが寂しくて友を求める。しかし、悲しいかな、彼は暖かな交わりを欲しつつも、自分の持っているトゲで相手を刺し、相手のトゲで自分が刺され、更に寂しくなり、傷ついて元のほら穴に帰ると。これは現代人の特色であるというのです。
主イエスの解説  22 また、いばらの中にまかれたものとは、御言を聞くが、世の心づかいと富の惑わしとが御言をふさぐので、実を結ばなくなる人のことである。

④  8 ほかの種は良い地に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。9 耳のある者は聞くがよい」。
⇒ 良い地 (み言葉を悟り、服従する、献身の生涯を歩め!)
 第4の心は良い地という畑のことです。主イエスは、この滋養分豊かな、良い土地を求めておられます。それは、み言葉を聞いて悟る人のことであると主は語られました。
主イエスの解説  23 また、良い地にまかれたものとは、御言を聞いて悟る人のことであって、そういう人が実を結び、百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍にもなるのである」。
「悟る」とは、スン・イエイスという言葉が使われています。これは、「共に・遣わす」と言う意味です。ここから言葉が変化して、「聞いて行なう」とか、服従するという意味となった。「謙遜、素直、真実、単一、新鮮、善意、真理に対する感受性をもって、み言葉を受け入れる姿勢をいう」と矢内原忠雄先生は開設してい ます。素直な耕された心で、主のみ言葉を求め、聖霊なる神様の語りかけに柔順に従い、いつも主の愛と喜びで潤っている魂。その人は30倍、60倍、100倍の実を結ぶと語られました。
わたしたちの心はこの4種類の畑のうち、どれに一番近いでしょうか?
十字架の血潮で清められ、聖霊の恵みでいつも満たされた良き地、30倍、60倍、100倍の実を結ぶ、祝福の生涯を歩みたいものです。ハレルヤ!
                                  
2)10 それから、弟子たちがイエスに近寄ってきて言った、「なぜ、彼らに譬でお話しになるのですか」。11 そこでイエスは答えて言われた、「あなたがたには、天国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていない。
12 おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。13 だから、彼らには譬で語るのである。それは彼らが、見ても見ず、聞いても聞かず、また悟らないからである。14 こうしてイザヤの言った預言が、彼らの上に成就したのである。
 『あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。
  見るには見るが、決して認めない。
 15 この民の心は鈍くなり、
  その耳は聞えにくく、
  その目は閉じている。
  それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである』。16 しかし、あなたがたの目は見ており、耳は聞いているから、さいわいである。17 あなたがたによく言っておく。多くの預言者や義人は、あなたがたの見ていることを見ようと熱心に願ったが、見ることができず、またあなたがたの聞いていることを聞こうとしたが、聞けなかったのである。(10~17節)
 ⇒ 今、救いの時がきている。神の福音をしっかり悟れ!
 主イエスは、ここで、たとえで語る理由について語られました。それはイザヤ書6章の言葉でした。イザヤが主の臨在に触れ、主の福音を語る者とされましたが、人々は福音を拒みました。最後は選民失格となったのです。そうはならないようにと、深い警告の言葉でした。

【祈り】 天の父よ。マタイ13章の「種まきのたとえ」を感謝します。どうぞ、語られたあなたの福音に、真実に応答する者として下さい。イザヤの時代の人々のように、心かたくなにすることがありませんように。語られた神の福音の種を受ける心として、道端のような心にならず、土の薄い石地になることなく、また茨が生い茂る心となることなく、30倍、60倍、100倍の実を結ぶ良き地として整えてください。あなたの十字架の贖いの前に遜り、あなたをたたえつつ歩む一週間の旅路としてください。御名によって祈ります。アーメン。