説教「主の十字架」 

2020年4月5日 棕櫚の主日礼拝
聖書箇所:ローマ人への手紙3:21~26
説教:深谷春男牧師

  今日は「受難週」の初め、棕櫚の主日という日です。今年は2月26日(水)に灰の水曜日から、受難節(レント)が始まりました。この40日間に及ぶレントの期間は特に主イエス様の受けられた御受難を覚えるときとして過ごすように勧められてきました。このレントの40日の最後の一週間が、受難週です。「棕櫚の礼拝」の内容は多くの兄弟姉妹がご存じの通り、主イエス様が、小さなロバに乗って、エルサレムに入城された出来事がその背景となっています。     主イエス様は、ご自分がこの世界を救う王であることを示し、神様の救いがやってきたことを示されたのでした。民衆も「ホザナ!ホザナ!」と叫んで、棕櫚の枝を取り、主イエス様をお迎えしたと書いてあります。わたしたちはこの日、主イエス様を、真の王の王、主の主として、心にお迎えしたいと思います。この受難週は、特に、木曜日の最後の晩餐の席では,弟子たちの足を洗い、エレミヤ書31章で学んだ「新しい契約」である聖餐の恵みをお語りになり、ゲッセマネの園で熱き祈りをされました。金曜日には十字架におつきになり、贖いの業をなして下さいました。そして復活されました。
  今年は,コロナウィルスの災禍のために、世界中が大変な苦しみを体験するときとなりました。ヨーロッパやアメリカ、中国や韓国も、大変な苦しみの中にあります。日本も首都圏などを中心に大変危険な状況になってきました。今日も、ネットで礼拝をするとか、ご自宅で、多くの方が同じ時間、礼拝を守っております。
  このような中での受難週の礼拝として、今年は特に、「主の十字架」の意味合いを、そして次週は「主の復活」の意味を理解して、聖書の語る、救いのメッセージを、学び確認してゆきたいと願っています。

【 今日の聖書箇所と概略 】
  聖書のメッセージは「ローマ人への手紙」(以後、ロマ書と省略します)に集約されます。そしてその中でも、3章21-26節は中心箇所といわれます。それはまたロマ書のみならず、聖書全体の中心をもなす非常に大切な箇所です。
ロマ書の中心主題は1章18節から8章までで、「人間の罪とそこからの救い」というテーマを取り扱っています。人間は、異邦人もユダヤ人も、全人類が罪と死の支配の中に陥っていると語ります。そして、ようやく3章21節に至って「救いの提示」になります。
    実は、この聖書の箇所は、わたしが新宿西教会の牧師と招聘を受けた最初の頃、2018年5月6日に、「福音の中心」という題でこの箇所を語りました。2009年4月、東京聖書学校吉川教会では、お招きを頂いた最初の週にこのロマ書3:21~26を語りました。わたしは招聘を受けたところでは、まずこの聖書箇所を語ることにしています。ここはまさに「福音の中心」であり、聖書の一番大切な箇所だからです。それは「主イエスキリストの十字架の贖い」を指し示しています。救いは、主イエスの十字架の贖いを信じることと語るからです。今日の3:21-26で、パウロはキリストの救いを三つの言葉をもって語っています。それは非常に印象的な言葉です。その三つの言葉とは、ギリシャ語で以下の三つです。
① 21節 「義」(デカイオシュネー)=法廷の用語
② 25節 「あがないの供え物」(ヒラステーリオン)=祭儀用語、
③ 24節 「あがない」(アポルトローシス)=奴隷売買の用語。
 赤羽教会でも、何度か、この箇所を語りました。当時、中学生だった長男が、「デカイオシュネー」などと言っていたのを思い起こします。

【 メッセージのポイント 】
1)、21 しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。22それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。(21,22節)。
⇒ 神の義         (法廷用語による「救い」の解説)
   しかし今や、神の義が・・・
   パウロはまず、この部分で「しかし今や神の義が・・」と語りはじめます。ロマ書の第一の主題「人間の罪と死の世界からの救い」と言うことを語るのに、まずパウロは、1:18から3:20節まで、「人間の世界が罪に支配されていることを延々と語りました。当時の文明人であったギリシャ人も未開の人も人類は恐ろしい偶像礼拝と罪の支配に身を委ねて罪の奴隷になっていること。真の神を知るユダヤ人も人間の守るべき律法の道を与えられているユダヤ人も、全人類は全て罪の中に落ちていると語り続けました。そしてようやく3:21に至るのです。あの恐ろしい罪と死の支配の中から、別の世界がやってきた。「惨めな暗闇の中でうごめいてきた人類」に、、「しかし、今や」、新しい時代がやってきた。神の義(=救い)が現された!」と語られます。
  「しかし」は、今までの暗闇の世界とは別の世界の描写が始まる言葉として出てきます。これは「偉大なるバット(しかし)」であります。「今や」、新しい今が来たと語るのです。先週、美歌子先生が、大変熱を込めて「今は恵みの時!」と語った「今」と同じ内容です。
  「神の義が現された!」と更に語られます。聖書の中の最も重要な聖句、救いについて語るのに、パウロは「義」という言葉を用います。この箇所では、7回もこの義という言葉が使われます。ギリシャ語ではデカイオシュネーという言葉です。これは法廷・裁判用語で、日本語では一般に「義」と訳されます。裁判の判決で、「黒 すなわち 有罪」か「白 すなわち 無罪」かの判決を得ることになりますが、この時の、無罪判決を「デカイオシュネー」と言います。神の前に潔白と認められ、放免されることを意味します。救いとは神の法廷での無罪判決の宣言のことです。しかし、考えて見ますと、問題は、わたしどもが神の法廷に立つ時、自分のしてきたこと、隠れてなしてきたこと、またしなければならなかったのに、しなかった「なさざるの罪」などを数えたら、潔白どころか、完全に有罪の判決が下されることにあります。聖い神の前に立つ時に、わたしどもは罪人であることが実にあざやかに、示されることになります。
 わたしは、高校生の頃、自分は、地獄に落ちるべき罪人だ!と思ったことがありました。皆さんはいかがでしょうか?夢の中で、どういうわけか「トウモロコシのような髪の毛の赤い人形のような人間が出てきて、「おまえはいいな、おまえはいいな~」と言うのです。ちょうどベトナム戦争の頃で、わたしと同じ年頃の16,17歳の青年が殺されるようなTVで見た場面のように表れたりしました。その頃から、わたしは救われなければならないと考えるようになりました。
「律法とは別に、しかも律法と預言者とによって証しされて現された」と語られます。救いは律法を守ることではないと語られます。しかもこの救いは、律法と預言者とによって、証しされて現された!と言うのです。つまり、律法と預言者とは、旧約聖書の事です。「イエス様を信じる信仰」、それが救いですが、それは驚くべき神の救いの業であるけれどもこれは旧約聖書が指し示していること。創世記の天地創造から、人間の堕落、ノアの洪水等の破滅体験、アブラハムの選び、モーセの出エジプト、ダビデの選び、バビロン捕囚、イザヤ53章、エレミヤ31章・・・主イエスの救いの福音は信仰による救いを指し示しています。

2)、25 神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、 (25節)
⇒ あがないの供え物     (祭儀用語による「救い」の解説)
   パウロの用いた第二の比喩は祭儀用語です。「あがないの供え物」(ヒラステーリオン)という言葉です。この語は旧約聖書出エジプト20章10節から22節に「贖罪所」という言葉が6回出てきます。それは「あがないの台座」(フランシスコ会訳)を意味していました。「契約の神の箱」の純金の蓋のことです。この上で祭司たちは人々の持ってきた犠牲を屠ったのです。パウロは、イエスキリストは「あがないの台座となった」と語ります。すなわち、かつてユダヤ人はあがないの台座の上におかれた犠牲の動物の血によって罪の許しを経験しました。しかし、神の小羊はイザヤ書53章では苦難の僕の代理贖罪と預言されていましたが、今や、神の御子ご自身が、あがないの台座となり、わたしたちの罪を全てその上で処分してくださり罪をあがなう供え物となられた。

3)、23 すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、24 彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。(24節)
 ⇒ あがないの業    (奴隷売買用語による「救い」の解説)
  ここで使用されている「あがない」という言葉は、アポルトローシスと言う言葉です。この語は奴隷売買の時に使用された語です。奴隷となって囚われの身にある奴隷を、身の代金を払って買い戻すこと、身請けする、自由にするとの意味があります。聖書の福音は、「罪の奴隷」となっているわたしども人間をキリストが買い取ってくださったというメッセージなのです。
 
【祈祷】 恵みの主よ。棕櫚の主日礼拝を感謝します。2000年の人類の歴史を導く「救いの福音の中心」を学ぶことができまして感謝します。この日、主の十字架の贖いの業を見上げ、あなたを信じる信仰へと導いてください。ルターやウェスレーや代々の聖徒の歩みを覚えつつ、イースターへと向かわせて下さい。特に主よ、コロナウィルスの災禍からヨーロッパ・アメリカを守り、韓国、中国、そして日本を、東京や大阪などの都市部を守って下さい。主の御名によって祈ります。アーメン