説教「見たこと、聞いたこと」深谷美歌子牧師

2020年4月26日 主日礼拝
聖書箇所:使徒行伝4:13~22
説教:深谷美歌子牧師

 コロナが世界を揺すぶっています。またこのような時に大地震や、自然災害が起ったらと思うとぞっとします。各国の指導者も、医療関係者も、研究者も、どうこれを乗り切るか一生懸命です。わたしたちもできることで、協力し神様の栄光が現れる方法で、終息に向かってほしいと祈っています。その上で、神に信頼し平安を満たしていただいてこの時期を過ごされますように。

 さて、1月に使徒行伝を学んでいただいたメッセージは、「イエスキリストの名」の力によって語った弟子たちの、自分たちを捉えて尋問する最高権威者をも恐れぬ姿でした。 今回はその続きです。
 以前の弟子たちであったなら恐れに捕らわれて、とてもそんな態度はとれなかったと思われるペテロ達の堂々とした姿です。

【聖書箇所の概説】
13-14節 ペテロ達は無学なただの人であるが、力があった。
15-18節 為政者はペテロ達を罪に定められず脅した。
19-22節  神に従い、見たこと聞いたことを語ると言った。

【メッセージのポイント】
1)無学な、ただの人
13人々はペテロとヨハネとの大胆な話しぶりを見、また同時に、ふたりが無学な、ただの人たちであることを知って、不思議に思った。そして彼らがイエスと共にいた者であることを認め、14 かつ、彼らにいやされた者がそのそばに立っているのを見ては、まったく返す言葉がなかった。(13-14節)
 ペンテコステの日に聖霊が降臨し、聖霊の内住を経験したペテロたちは、大胆にイエス様の十字架と復活を宣べ伝え、「悔い改め、祝福に預かりなさい」と語りました。すると、主イエスの名による奇跡の業が起こりました。信じる人々が次々と起こされました。この日もペテロ達が逮捕されたにもかかわらず、男だけで5千人が信じたと書かれています。
 この時、ペテロ達を捕えたサドカイ人というのは、当時の社会の政治的権力者達で、祭司、貴族階級でした。今で言ったら、行政、司法、立法が一緒になって権力をにぎっていたようなものでしょう。ですから、当時の最高教育を受けた、その道のエリート・エキスパートと言えるでしょう。その人々の前で、「民の役人たち、ならびに長老たちよ、9 わたしたちが、きょう、取調べを受けているのは、病人に対してした良いわざについてであり、この人がどうしていやされたかについてであるなら10 あなたがたご一同も、またイスラエルの人々全体も、知っていてもらいたい。この人が元気になってみんなの前に立っているのは、ひとえに、あなたがたが十字架につけて殺したのを、神が死人の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのである。 11 このイエスこそは『あなたがた家造りらに捨てられたが、隅のかしら石となった石』なのである。12 この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていない」(4:8-12)と堂々と語りました。
ペテロ達は捕えられた側であるにもかかわらず、自分たちは捕えられるようなことは何もしていないと、堂々と論陣を張って語ったのでした。
それを見て、人々はペテロとヨハネとの大胆な話しぶりを見、また同時に、ふたりが無学な、ただの人たちであることを知って、不思議に思ったのでした。
イエス様はかつて弟子たちに「 彼らがあなたがたを引き渡したとき、何をどう言おうかと心配しないがよい。言うべきことは、その時に授けられるからである。 語る者は、あなたがたではなく、あなたがたの中にあって語る父の霊である。」(マタイ10:19、20)と語られた通りになったのでした。
 神様が用いられるのは、聖霊に明け渡し従う器です。パウロのように当時の最高教育を受けた人でも、その力があったから用いられたのではありません。彼はクリスチャンを迫害する者でした。しかし、復活の主に出会い、自分がまちがっていたことが分かり、全く砕かれて、この方こそ待ち望まれたメシヤ、救い主でしたと、宣べ伝える者になりました。彼は「 神の霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇とし、肉を頼みとしないわたしたちこそ、割礼の者である。わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものをふん土のように思っている。」(ピリピ3:38)と語ります。彼が用いられたのは聖霊によって戦ったからです。
 ひとりひとりは神様の期待されたところがあり、豊かに用いられるのです。

2)おどしてやろうではないか、おどしてゆるした。
15 そこで、ふたりに議会から退場するように命じてから、互に協議をつづけて16 言った、「あの人たちを、どうしたらよかろうか。彼らによって著しいしるしが行われたことは、エルサレムの住民全体に知れわたっているので、否定しようもない。17 ただ、これ以上このことが民衆の間にひろまらないように、今後はこの名によって、いっさいだれにも語ってはいけないと、おどしてやろうではないか」。(15~17節)そこで、彼らはふたりを更におどしたうえ、ゆるしてやった。みんなの者が、この出来事のために、神をあがめていたので、その人々の手前、ふたりを罰するすべがなかったからである。(21節)
 居並ぶユダヤ教の権威、最高権威のサンヒドリンの議会の人々も、ペテロ達の申し立てに非を見つけることはできませんでした。確かなのは、40歳あまりの、皆が知っていた足なえであった男が立って踊り歩いていること。そして、弟子たちの言葉によって信じた人々が1万人以上もいるという事実でした。
 もし、罪に指摘できるようなことが無いのに、ペテロ達を処罰しようものなら、暴動にもなりかねないと思えた人数でした。
しかし、彼らをこのまま赦したら、彼らはイエスの名で語りつづけるでしょう。彼らのできることは「おどす」ことでした。当時の為政者による、言論の封じ込みでした。最高権威ですから、民衆は聞き従うことが当然でした。
現代でもそのような国があるかもしれません。思想改造をしようとやっきに
なるかもしれません。日本でもついこの前まで、キリストを信仰する者は獄門、磔でした。そんな大きな迫害でなくとも、家族が反対して、礼拝の時間、畑で仕事をしなければならなかった。と言うようなことは今でもあるかもしれません。でも、本当に力があり、勝利されるのは神様です。
 「だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。」(ロマ8:36)。 「わたしたちはあなたのために終日、死に定められており、ほふられる羊のように見られている」と書いてあるとおりである。37 しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。」(ロマ8:35-37)
 この世の力がどんなにおどしても、キリストの愛から引き離すことはできません。大切なのは、おどしに目を奪われて、恐れに捕らわれないことです。
彼らはクリスチャンを神の愛から引き離すことはできません。
金曜日のアパルームは、癌の末期の治療を受けながら、楽しんで治療に通っている方の証しがありました。やはり癌で落ち込んでいた、バスに乗り合わせた若い婦人に、命の希望を語ってあげました。この命は永遠の命です。

3)神に聞き従う 
18 そこで、ふたりを呼び入れて、イエスの名によって語ることも説くことも、いっさい相成らぬと言いわたした。19 ペテロとヨハネとは、これに対して言った、「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従う方が、神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい。(18、19節)
この命令を聞いたペテロとヨハネは神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従う方が、神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい。と答えました。
最高権威の判断に対して、このように言われたのは、彼らには侮辱でしかなかったはずです。彼らは、神を代弁するものと自負していたはずだからです。
しかしながら彼らはそれに反論できませんでした。「イエスキリストの名によって」癒されたた男がいて、エルサレム中に知れ渡っていること。こんな業は、神しかできないと民衆が神をあがめていたからでした。

4)見たこと聞いたことを語る
20 わたしたちとしては、自分の見たこと聞いたことを、語らないわけにはいかない」。22 そのしるしによっていやされたのは、四十歳あまりの人であった。  (20-22節)
「あなた方が殺した、あのイエスが今も生きて、このことをされたのです。」これが弟子たちの答えでした。わたしたちとしては、自分の見たこと聞いたことを、語らないわけにはいかない」
 ペテロは一番弟子として、いつもイエス様の傍らにいました。大量の漁獲の最初の出会い、多くの人々が癒され、嵐の海を静める時、何千人もの給食、ラザロの復活。この方こそ「生ける神の子キリスト」と確信し、死にまでも従っていこうとの決意。それなのに、彼は主を裏切った。しかし、復活の主に赦された。「わたしの羊を飼いなさい」との信任。昇天の場にいた事実。約束の聖霊が来られた経験。主の十字架による罪の赦し、死を打ち砕かれた主イエスの復活。共にいて語るべき言葉を教え、主の愛を満たしてくださっているイエスキリストの霊、聖霊の臨在。これらすべては彼自身が経験している事実でした。
事実は力があります。主が救ってくださった事実がわたしたちの原点です。
父の証し。自分は真面目で罪などないとおもっていた。しかし、おじの家の物置で、一つ一つ罪を神様に言い表し赦された。死の解決もいただいた。喜びで一人でも路傍伝道をしていた。戦争で郷里に引き上げ、開拓伝道を始めた。10年は人が来なかった。どこかに招聘紹介の話があったとき、「ここで伝道できないものはどこに行ってもだめだ」と断り、伝道を続けた。村にある教会は今でも珍しいのですが、今は40名-50名の礼拝が捧げられています。父の「神様は一度も裏切られたことはない」この事実が原点でした。

【祈り】 父なる神様。今日はコロナで無会衆礼拝でした。でも愛する兄弟姉妹がそれぞれの場で、あなたに出会い、愛されていること、赦されていることを実感しました。恐れを感じるようなことが今でもありますが、ペテロ達のように「聖霊に満たされて」堂々と生かしてください。み名によって祈ります。アーメン。