説教「きよい手を上げて祈ってほしい」深谷牧師

2020年5月3日 主日礼拝
聖書箇所:Ⅰテモテ2:8
説教:深谷牧師

 毎年、新宿では、断食聖会というのが、1月に開催されます。三日間にわたる恵みの集会ですが、今年は、夜の聖会で、バプテスト教会の米内宏明先生が講師に立てられ、すばらしい御用をしてくださいました。米内先生は今日の一句、 

男は、怒ったり争ったりしないで、
どんな場所でも、きよい手を上げて祈ってほしい。 Ⅰテモテ2:8

ここから、説教をしてくださいました。

 現代は、自分の考えを主張することが多くなっています。それは意味のあることですが、しかし過度に、自分の意見を主張しすぎると、交わりの中に違和感が生じ、それが、怒りとなったり、争いとなったり、仲違いを生んでゆくこととなります。
 教会の交わりの中でも、ややもすると「怒りや、争い」が多くなり、多くの人が傷を受け、信仰と愛の主イエス様の教会の中でも、そのようなことが起こりやすいので、気をつけるようにと使徒パウロは書いています。
どんな場所でも、きよい手を上げて、祈り合う教会を形作ってほしいと願っています。

【今日の聖書箇所の概略と区分】
 テモテへの第一の手紙、第二の手紙は、使徒パウロが、牧会をしていた弟子のテモテに当てた手紙です。
皆さん、すでにご存じだと思いますが、使徒パウロはユダヤ教の家庭で育ち、小さいときから神様を恐れ、真実な歩みをしてきました。彼は、大変優秀な頭脳を与えられ、当時の最高学府、ガマリエル門下で学び、律法学者として、また、倫理生活においてはパリサイ人として、厳格なユダヤ教徒として歩んできました。時代としては、大体、主イエス様と同年代に属する、エリートでした。
彼は自分のことを、ピリピ書3章でこのように説明しています。

「5 わたしは八日目に割礼を受けた者、イスラエルの民族に属する者、ベニヤミン族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法の上ではパリサイ人、6 熱心の点では教会の迫害者、律法の義については落ち度のない者である。7 しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。8 わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。」

 使徒行伝9章に彼の、「回心の記録」が載っています。彼は当時、ユダヤ教徒として生きていましたので、モーセの教えに忠実だったのですが、クリスチャンという人達が現れ、ナザレのイエスが、旧約聖書で語られた「メシア=キリスト」であると言うのです。彼らは殉教も恐れないで、その証しをしているに腹が立ち、「モーセの律法に帰れ!」と叫びながら、クリスチャンたちを捕縛して、牢獄に入れる働きをしていたのです。
 クリスチャンを捕らえて投獄するために、ダマスコの町に近づいたときに、彼は、天からの光に撃たれて落馬してしまい、その時の光があまりに強烈で、彼は3日間、目が見えなくなって、飲食を忘れて、神の前に祈っておりました。
 ダマスコの町に、アナニアというクリスチャンリーダーがいて、神様がサウロ(彼は後になって名前をパウロに変えたのでしたが)のところに行って、祈れと言われました。アナニアが祈るとサウロの目から、うろこが落ちて、目が見えるようになりました。それから彼は、1人でアラビアに旅して、そこで聖書を学び直したのでしょうが、彼は、主イエスが神から使わされた「メシア=キリスト」である事を確信して、アンテオケ教会で伝道し、そこから、全世界へと宣教師として遣わされてゆくこととなりました。
 使徒行伝の16章で、パウロが小アジアで伝道していたときに、リストラという町で、すばらしいテモテという青年がパウロの弟子になりたいと献身を表明し、彼が、やがてパウロの後継者として働くようになります。
 パウロの信頼を受けて、教会の牧会に当たったテモテに対して、投獄されているところからパウロは手紙を送り、テモテの伝道牧会を助けました。
 このパウロの、「テモテへの手紙1、2」と「テトスへの手紙」は、パウロの「牧会書簡」とも呼ばれています。

【メッセージのポイント】
1)男は、怒ったり争ったりしないで、どんな場所でも、きよい手を上げて祈ってほしい。Ⅰテモテ2:8
⇒ 男は、怒ったり、争ったりしないで・・・・・・祈ってほしい。
 ここでは、まず、「男は」とパウロは語っています。当時は、男性社会で、教会の中の長老や執事などはほとんど男性でした。今日はパウロ先生の説教も男性に対するところだけですが、教会の中心となる兄弟方に対する愛の呼びかけとみてよろしいかとおおもます。男性は、社会的にも、家庭の中でも強い立場にあります。この男性が、怒ったり、争ったりばかりしていたら、とても悲惨な状況に陥ってしまいます。
 いろんな場合に、男性が、怒ったり、争ったりしないで、「祈る」という世界を作るというのは革命的だったのではないでしょうか?わたしたちは、自分自身のことを考えると、自分は優しい、柔和な者であると考えがちですね。
以前わたしも、とても自分は優しい夫で、恵みあふれるお父さんだと思っておりました。でもあるとき、家内と言い争ったり、自分の考えを強く主張しているときに、「あなた、顔の表情がきついわよ!」と言われた時がありました。近くに鏡があって、自分の顔が映ったときに、「ドキッ」とした体験がありました。その顔は、やはり険しい、顔で、礼拝で神の愛を語るときの、自分の顔とは違っていたのです。
怒りや争いの心でなく、主への祈りの心を持って、仕える者となりましょう。

2)男は、怒ったり争ったりしないで、どんな場所でも、きよい手を上げて祈ってほしい。Ⅰテモテ2:8
 ⇒ どんな場所でも・・・・・・・・・祈ってほしい。
 ここで、パウロ先生は。「どんな場所でも」と語りました。「どんな場所でも」とは、なかなかきびしいものがありますね。
 以前、神学生のころに、赤羽教会の水曜日の祈祷会に出て、三鷹の神学校に帰るために、夜の9時半ころに、赤羽駅から電車に飛び乗りました。そして、車内を見ておりましたら、4歳代の位のある男性が、聖書を読んでおりました。わたしは大変興味を覚えまして、「聖書を読んでおられるですね?」と声をかけましたら、彼は、真面目なお顔で「ええ、聖書です。今、教会からの帰りです。」と答えられました。「そうですか、わたしも今、祈祷会でこれから神学校に帰るところなんです。」などと話しておりました。「熱心ですね。感銘を受けました。」と言ったら、彼はこう答えました。「いや~。ありがとうございます。でもね、会社とか、家庭の中で、問題持つことがあるんですよ。「ほら、聖書に『男は、怒ったり争ったりしないで、どんな場所でも、きよい手を上げて祈ってほしい。』ってあるでしょう。祈りが足りないですね。」
 この時、「ああ、そういう聖書箇所があるんだ。この方、深いな~。祈りの教会の役員さんかな・・・」とか考えたことがありました。
 会社の友人との交わりにおいても、家庭の中での配偶者との交わりにおいても、あるいは子どもたちとの交わりにおいても、もちろん教会の兄弟姉妹との交わりにおいても、「怒ったり争ったりしないで」、「清い手を上げて祈るものとなってほしい」とのパウロ先生の言葉は、主イエス様の言葉でもありますね。「どんな場所でも、主を見上げて、祈ってゆきたいと思います。

3)男は、怒ったり争ったりしないで、どんな場所でも、きよい手を上げて祈ってほしい。                     Ⅰテモテ2:8
 ⇒ きよい手を上げて・・・・・・・祈ってほしい          

 最後に、「きよい手を上げて」と言う言葉を考えてみたいと思います。「きよい手を上げて祈る」とはどういうことでしょうか?そんなことがわたしたちに可能なのでしょうか?
 最近は、早天祈祷会で、アパルームを通して、多くの学びを致しました。
 特に先週の4月30日(木)のミカ書6:8の聖句が深く心に留りました。
 「人よ、何が善であり、主がおまえに求めているかはおまえに告げられている。公義を行い、いつくしみを愛し、へりくだって、あなたの神と共に歩むことこれである。」ミカ6:8
 神がわたしたちに求めておられるのは、「公義を行い、慈しみを愛しへりくだって、あなたの神と共に歩むという生き方」です。わたしはここで特に、「神の慈しみを愛し、へりくだって、神の臨在と共に歩むこと」と語られている言葉に恵まれました。そして、次の聖句が心を駆け巡りました。

詩篇51:17「神の受けられるいけにえは、砕けた魂です。          神よ、あなたは砕けた悔いた心を軽しめられません。

イザヤ57:15、わたしは高く、聖なるところに住み、また心砕けてへりくだる者と共に住み、へりくだる者の霊を生かし、砕けたる者の心をいかす。

詩篇23:4 あなたがわたしと共におられるからです。

 特に、打ち砕かれた霊、へりくだり、主の臨在と共に歩む と言う内容です。
 ダビデは自分の罪を示され、悔いくずおれ、イザヤも神の民の深い罪に悩み、砕かれ、へりくだるところからすべてが始まることを知っていました。わたしどもの信仰は、主の十字架の血潮によって、贖われ、潔められるところから始まるのです。おのれは死ぬべき罪人、そのわたしが赦され贖われた。この、十字架の前で罪の赦しと、贖いを受けることが、砕けた思いで、主の前に立ち、「主よ、わたしどもの破れをあなたが贖い、救いに入れてくださいました。わたしには何の価値もありません。わたしこそ「罪人の頭です」とのへりくだりの心が与えられるだと思いました。
 断食聖会の司会者中村先生がこう語られました。「淀橋教会の早天最後に、よく小原十三司先生が、この聖句を読んで、「主よ、怒ったり、争うのではなく、どんな場所でも、きよい手を上げて祈る一日としてください!」
   
【祈祷】
 恵みの主よ!今日から、5月に入りました。この月の初めの礼拝で「男は、怒ったり争ったりしないで、どんな場所でも、清い手を上げて祈ってほしい。」というⅠテモテ2:8の御言葉を頂きました。現在、コロナウィルスの感染拡大のために、この教会堂に集まれず、自分の家庭で礼拝を捧げています。コロナのきびしい現実ですが、わたしどもは、全能の主を見上げ、自分が主イエスの血潮によって贖われた破れ多き者であるとの認識の許、怒ったり争ったりするのでなく、へりくだり、打ち砕かれた心で、主の臨在、主の臨在の前に、きよい手を上げて祈るところから始めさせてください。主の御前に立つ喜びと感謝に満ちて歩ませてください。コロナの感染を止めてください。医療奉仕者の御労苦を慰め守ってください。主の御名によって祈ります。アーメン