説教「母の祈りが世界を動かす」深谷牧師

2020年5月10日 母の日礼拝
聖書箇所:サムエル上1:3~18
説教:深谷牧師

母の日の由来  1905年5月9日、米国マサチューセッツ州でアンナ・ジャービスさんの母親、クララ・ジャービスさん(彼女は教会のサンデースクールの教師として26年間奉仕しました)が亡くなりました。1908年5月10日、自分を苦労して育ててくれた母親の命日に近い日曜日に追悼の意を表し、教会で「亡き母をしのぶ」という花言葉の白いカーネーションをたくさんたむけ、母親を偲びました。彼女の行為に感動した、デパート王ジョン・ワナメーカー氏が自分のデパートで母の日を展開したことから全世界に広まったのでした。やがて1914年のアメリカ議会で、5月の第2日曜を「母の日」と定め、お母さんに感謝を現す日となりました。

  以前、スペインの画家ムリリョの描いた作品が日本に来たことがありました。「無原罪のお宿り」など感銘深く見ました、これは高校生のころ図書室で見て、感動したもののひとつでもありかした。カトリックの国のスペインでは「聖母マリヤ信仰」が根強いと言われます。やさしい母親の情愛をキリスト教信仰に反映させたものであろうと思います。人間の精神的な営みの中で占める母親的な情愛はとても深いものがあるのでしょう。

【 聖書箇所の概略 】
 さて、今日は聖書の中に記される人物として、サムエルの母ハンナの姿を見て行きたいと思います。昔から「揺り籠を動かす手が世界を動かす」と言われます。偉人の背後には偉大な母があります。イスラエルの歴史において多大な働きをしたサムエルの背後には、この信仰の母であるハンナがいました。彼女は祈っていました。サムエルはまさに祈りの中で与えられ、祈りの中で育てられました。人生の幸いのひとつは祈り深い母を持つことです。彼女の夫エルカナは当時の習慣にしたがって、複数の妻を持っていました。ペニンナという女性でした。ペニンナには子供があり、ハンナには子供がありません。ライバルであるペニンナは彼女のいちばん痛いところ、子供がいないというところを情け容赦なく、攻撃し、ハンナは立ち上がれないほどの衝撃を受けていました。彼女は、当時、シロにあった聖所に巡礼に出かけたときに、ペニンナにいじめられ、食事もできずに、泣き崩れていました。彼女は神殿に入って祈りつつ泣いていると祭司エリがやってきました。彼女が主の前で、長く祈っていたので、エリは彼女の口に目をとめました。ハンナは心の内でものを言っていたので、くちびるが動くだけで、声は聞こえなかったようです。それゆえ、エリは、酔っているのだと思って、彼女に「いつまで酔っているのか、酔いを醒ましなさい」言いました。しかしハンナは答えました。「いいえ、わが主よ、わたしは不幸な女です。ぶどう酒も、濃い酒も飲んだのではありません。ただ主の前に心を注ぎ出していたのです。はしためを悪い女と思わないでください。積もる憂いと悩みのゆえにわたしは今まで物を言っていたのです」と言いました。そこでエリは「安心して行きなさい。どうかイスラエルの神があなたの求める願いを聞きとどけられるように」。彼女はこのこと以来、その表情はもはや前のように暗いものではなく、恵みにあふれたものとなったと記されます。そしてサムエルが生まれました。
 内容区分は以下の通りです。
1‐11節 ハンナの紹介。ハンナの悩み(夫には別の妻がおり、ハンナは子がない)。ハンナの誓い。
12‐20節 ハンナの祈りと確信。祭司エリの託宣。やがて、祈りが叶ってサムエルが誕生する。

【メッセージのポイント】
1)5 エルカナはハンナを愛していたが、彼女には、ただ一つの分け前を与えるだけであった。主がその胎を閉ざされたからである。6 また彼女を憎んでいる他の妻は、ひどく彼女を悩まして、主がその胎を閉ざされたことを恨ませようとした。(5-6節)
⇒ 試練の背後にある摂理の業に目を開け!
「主はハンナの胎を閉ざしておられた」。これは不思議な言葉です。愛の神、平等のはずの神様がペニナには子供を何人も与え、ハンナにはひとりも与えないのです。当時は子供を生まない女性は神様に呪われた女性と言われていたのです。ハンナは呪われた女性なのでしょうか?いいえ。主は彼女にすばらしい計画をもっておられたのです。聖書は言います。「主はハンナの胎を閉ざしておられた」と。神様は、人に苦難を与えることもあるのです。しかも、神様の与える苦難はその人を訓練し、「すばらしい義の実を結ばせる」と聖書は言います。試練のただ中にいるときはたしかに苦しいのです。しかし、その試練を中にあっても、霊の目が開かれ、神様のすばらしい計画の中にあることを知るとき、わたしたちは雄々しく苦しみを乗り越えることができます。神様の世界を見上げることができないときには、時としてその、苦しみにつぶされてしまいます。苦しみには理由があるのです。摂理の神の御手を見上げましょう。神様は「善にして善を行なうお方」(詩編119:68)なのですから。

2)15 しかしハンナは答えた、「いいえ、わが主よ。わたしは不幸な女です。ぶどう酒も濃い酒も飲んだのではありません。ただ主の前に心を注ぎ出していたのです。          (15節)
⇒ 主の前に心を注ぎ出す祈り!
ここに示される第二のすばらしいメッセージは「ハンナが主のみ前に心を注ぎ出す祈りをしたこと」であると語られます。ここで、ハンナは積もる憂いと悲しみのゆえに、神様の御前に祈りました。ペニナのとげのある言葉が彼女の心に引っかかっています。ハンナは自分のふがいなさや不条理や傷ついた心を主の御前に、告白したのでした。それは、ただ、「唇が動いても声が出ないような」うめきのような、悲しみの告白。祈りにならないような祈りでした。祭司エリには、彼女が、お祭りで酒を飲んで酔っているようにしか見えなかったようです。聖書はそのことを、「ハンナは主のみ前に、自分の心をそそぎ出し」て祈っていたと表現しています。絶対的愛の方、絶対的真実の方の前に出て、真実な心で祈るということは、人生の根本的な存在形態を変えることになるのです。しかも、「こころを注ぎ出す」というふうに、熱心に求める時、人は自分を超えた、真実なる存在の前に、砕けた、悔いた心でその御前に出ることになるのです。
心を注いで祈った祈りの典型は、ゲッセマネの園での主イエスの祈りのみ姿と、イザヤ53章に記される苦難の僕の記述です。主イエスは、十字架を前にして、実にこころを注いで祈られたのでした。わたしは、赤羽で牧会していたときに、川辺姉と出会いました。彼女はいつも大学ノートを持って教会に来て、一生懸命説教を聴きながらノートを取る姉妹でした。彼女は教会のすべての集会に出席してわたしどもを励まし、教会の支えとなっていてくれました。彼女の祈りにはよく詩編62編が引用されました。
「民よ、いかなるときにも神に信頼せよ。
その御前にあなた方の心を注ぎだせ。
神はわれらの避けどころである」。
わたしどもも、いつでも、主の前にくずおれて御前に心を注ぎだすような祈りをしたいものです。

3)17 そこでエリは答えた、「安心して行きなさい。どうかイスラエルの神があなたの求める願いを聞きとどけられるように」。18 彼女は言った、「どうぞ、はしためにも、あなたの前に恵みを得させてください」。こうして、その女は去って食事し、その顔は、もはや悲しげではなくなった。(17,18節)
⇒ 個人の祈りが民族の運命を変える!
ハンナの生涯は、この時、「心を注いで御前に祈った時」から、変化が起こり始めました。彼女は、心を注いであらん限りの真実を持って祈った時に、神の真実に触れたのです。そして、祭司エリの「平安のうちに行くが良い」という言葉を神からの託宣として受けて、信仰の歩みを始めました。その顔天国の輝きを映した新しい生涯が始まったのです。しばらくして、玉のような赤ちゃんが生まれました。彼女はこの子をサムエル(「その名は神」、あるいは「神は聞き給う」の意)と名づけました。彼は成長して、主の器と成り、イスラエルの歴史の中興の祖とも言われる霊的な人物になりました。サムエルの神は、今も生きておられ、我らの祈りを聞き給うお方です。彼の祈りの中で、サウルを王として立て、またダビデを王として立て、イスラエル王国の基礎を築くことになりました。ハンナ個人の祈りは、イスラエル民族全体の歴史を大きく動かすことになったのです。ハレルヤ!
韓国のある牧師の説教は忘れる事ができません。可愛い雛がとんびにさらわれたときに、鶏のお母さんは300メートルも飛び上がってとんびから雛を取り返したというのです。韓国の鶏はすごい!キムチパワーかと思った。しかし、この話を聖会で聞いたときに、深い感動がありました。愛は奇蹟を生むのです。皆さん、皆さんの愛する息子さん、娘さんは今どこにいますか?迷子のメーコのように暗い森の中にさまよっている子はいませんか?皆さんのお母さんやお父さんは救われていますか?自分の息子が、自分の娘が、悪魔にさらわれて餌食にされようとしているときに、わたしたちはのほほんとはしておれません。主の前に来て祈り、悔い改め、整えていただきましょう。 
お母さんの愛と祈り。それは悲しみの歴史を栄光の歴史に変えてゆくのです。その置かれている状況がどうであろうとも、愛と祈りは神御自身の御手を動かすのです。
聖書の母親の姿は「祈る母」の姿です。ハンナはその代表者です。それは「悲しみの中で祈る母」であり、「心を注いで祈る母」なのです。祈りは清められた母の愛の昇華された形であり、その目の涙は人生で最も尊い愛と信仰の結晶体なのです。「ゆりかごを動かす祈りの手が、世界を動かす」のです。  ハレルヤ

【 祈り 】 
天の父なる神様。「母の日礼拝」を感謝します。今日は聖書から、母親の姿を学ばせて頂きました。聖書の母の姿は、「祈る母」です。それは「悲しみの中で祈る母」であり、「心を注いで祈る母」なのです。祈りは清められた母の愛の昇華された形であり、その目の涙は人生で最も尊い愛と信仰の結晶体なのです。「ゆりかごを動かす祈りの手が、世界を動かす」。ハレルヤ。
どうぞ、確信の内に勝利と喜びの中に輝いて生きる道をいつも教えてください。我らと同じ痛みを味わいつつも、こころを注いで祈り、見事に勝利された、我らの主イエスキリストの貴い御名によってお祈りします。アーメン