説教「髄と脂肪に満たされ」ー全詩篇中最も熱く神を求める詩ー 詩篇63篇 深谷牧師

2020年5月17日 主日礼拝
聖書箇所:詩篇63篇
説教:深谷牧師

 説教の準備をするということは、なかなか大変なことです。牧師は皆経験することですが、夜中の11時ぐらいから恵みのボルテージが上がってくるのです。そして、12時を過ぎ、1時を過ぎるころ、恵まれ過ぎちゃって2時、3時頃になると、神様の御言葉と聖霊に満たされ、欣喜雀躍、手の舞うところ足の踏むところを知らず、というような恵みに満たされ、休むことになります。ある牧師先生は、真夜中、説教の準備がすべて終わったときには、「飛行機のように手を広げて、ブーン、ブーン」と部屋中を飛び回るのだそうです。わたしも、このように詩篇63篇の説教の準備をしていて、わーすごい!オーすごい!ハレルヤ~、などと叫びつつ、この詩篇の準備をさせていただきました。皆さんと共に詩篇63篇を学ばせていただいて感謝です!

【 詩篇第63篇の概略と区分 】
 今日開かれた詩篇63篇は、こころから神様を慕う大変、美しい詩です。いろんな注解書を読みますとこの詩篇への絶賛に満ちています。たとえば、「全詩編のうちで最も親しく神に語りかけているのは本詩であろう」(フランシスコ会聖書)。「クリソストムはこの詩を愛唱し、詩篇全部の精神はこの詩に含まれると言った。」(山室軍平)。「これこそ疑いもなく、詩篇全篇中、最も美しく、感動的な詩篇」(ペロウン)等々、驚くべき褒め言葉です。1節の「捜し求め」という語の語根が「シャーハル」という言葉で、これは「あけぼの」の意味をも持つので、古代訳では「あけぼのにあなたを呼ぶ」あるいは「朝早くからわたしはあなたと共にいる」と訳され、教会の歴史では日曜日の朝の賛歌に用いられてきたそうです。わたしたちの週の初め、この詩篇を高らかに賛美しましょう!
 表題:ダビデがユダの荒れ野にいた時の詩。アブサロムの反乱時。
1節 「神様を慕って気を失うばかりです」とのダビデの告白。
2― 3節 聖所で、礼拝の場で霊の目を開いて神の力と栄えを見、神様の愛と恵みにより「汝の慈しみは命にまさる!」。
4― 8節 最悪の時が最善の時。神の恵みで魂は満たされ、歓喜にあふれ、「髄(脂肪=ヘレブ)と油(油身=デシェン)」のもてなしを受けたように満たされ、み翼の陰にいこい、神にぴったりと寄り添い(くっつく=ダバク)」、支えられて平安に生きることを歌う。
 9―11節 神ご自身の歴史支配を歌い、敵の滅びと王の勝利を歌う。


【メッセージのポイント】
 この詩には「わたしの魂(ナフシィ)」と言う語が3回使用されるので、それを鍵の言葉として、この詩編を読んでみたいと思います。
1)ユダの野にあったときによんだダビデの歌
1 神よ、あなたはわたしの神、
わたしは切にあなたをたずね求め、
わが魂はあなたをかわき望む。
水なき、かわき衰えた地にあるように、
わが肉体はあなたを慕いこがれる。   (1節)
⇒ 神を渇き求める魂であれ!
「神よ、あなたはわたしの神!」というすばらしい一句から始まります。全宇宙の造り主を、「わたしの神!」と呼べる人生は最高の人生ですね。
「わが魂はあなたをかわき望む」という言葉はユダの荒野の渇きの経験が背景にあると言います。水の豊かな日本ではこの強烈な渇きの経験は想像できないと関根正雄先生は言います。ダビデはわたしの魂も肉体も神を切に求め、神のよって渇きが癒やされると切に祈っています。新改訳聖書では「わたしのも、あなたを慕って気を失うほどです」と訳されています。「神様を慕って気を失う」という大変強い言葉は、旧約聖書中、ここにしか出てこない「カーマッハ」と言う言葉だそうです。「慕い焦がれる」、人間の最も深いところにある渇望は、神の愛、神の恵みへの渇望です。
ヨハネ4:13、14には、サマリヤの女の渇きの話があります。彼女の求めに主イエスはお答えになり、命の水を与えられました。「この水を飲むものはまた渇く.しかしわたしが与える水は、渇くことがないばかりか、わたしが与える水はその人のうちで泉となり永遠の命に至る水が湧き上がるであろう!」。神ご自身を失神するほどに慕う。これがダビデの信仰でした。

2)2 それでわたしはあなたの力と栄えとを見ようと、
聖所にあって目をあなたに注いだ。
3 あなたのいつくしみは、いのちにもまさるゆえ、
わがくちびるはあなたをほめたたえる。    
4 わたしは生きながらえる間、あなたをほめ、
手をあげて、み名を呼びまつる。
5 ,6わたしが床の上であなたを思いだし、
夜のふけるままにあなたを深く思うとき、
わたしの魂は髄とあぶらとをもって
もてなされるように飽き足り、
わたしの口は喜びのくちびるをもって
あなたをほめたたえる。         (2~6節)
⇒ 神に豊かに潤される魂であれ!
2節には「目を注ぐ」と言うことが記されます。ダビデは、荒野にあって、「聖所」を求め、その礼拝の場で、「神の力、神の栄光」を仰ぎ望んでいます。これは、幻を見、ジーーと凝視することで神の世界を仰いだのです。皆さん、わたしたちも同じです。教会に来て、その礼拝の場で「神の力、神の栄光」を仰ぎ望むのです。その時、旧約時代から新約聖書の主イエスのうち現された神の力、神の栄光、神の慈愛を見ることにもつながります。それは「主イエスの十字架であり、復活であり、聖霊の満たしであり、そして再臨の主の姿」です。
その神の恵みを凝視して、アブラハムの世界を知り、モーセの恵みの世界をみ、ダビデは今、「あなたのいつくしみは、いのちにもまさる恵み」という告白をいたします。この告白は大変深い恵みの世界を表現していると思います。

 筆をくわえてすばらしい絵を描かれる星野富弘さんの詩を紹介します。
「命がいちばんだと思っていたころ 
生きるのが苦しかった。
いのちより大切なものがあると知った日、
生きているのが嬉しくなった。 富弘 」
まさにこの告白は、この詩篇と同じく、「命にまさる恵み」、「わがために命を捨てられた主イエスの愛と真実」を知ったときに生きる意味と真実を知ったという告白であると思います。

 そして、その恵みいよいよ深まり、「わたしの魂は恵み満たされ、髄とあぶらのもてなしを受けたようだ」と表現しました。「髄(脂肪=ヘレブ)とあぶら(油=デシェン)」のもてなしを受けたようだ」と表現します。関根正雄の解説によれば「髄は動物の一番脂肪のつまっている所として最上のご馳走を意味する。詩篇の中でここは一番著しい神秘的な神関係と言うことができる。」
 以前読んだ、石原兵永先生の「身近に接した内村鑑三」の中に、18歳のときに、内村鑑三の集会に出たときに感想がこのように記される。42ページ。
「わたしは日曜ごとに柏木の集会に出席して、熱心に先生の講義を聴き、午後は寄宿舎に帰って、それをノートに整理したのである。わたしの歓喜は無限であった。乾いた地が天来の雨を吸い込むように、わたしの魂は先生の口から出る真理の言葉を受け入れた。「わが霊魂は髄(ずい)と脂(あぶら)とにて饗(もてな)さるごとく飽くことを得、わが口は歓喜の口唇をもて汝をほめたたえん」(詩篇63:6)という詩人の告白が、そのまま日曜ごとのわたしの体験となった」(拙書「回心記」21頁以下参照)。
 内村鑑三の説教を聴き、神様の恵みに満たされた体験を、石原兵永はこの詩篇63篇の詩人の体験を引用して記しています。

 先週の週報のコラムに記しましたが、今年のゴールデンウィークは重苦しい日でした。特に5月3日はわたしどもにとっては42回の結婚記念日でした。しかし、コロナの感染拡大が大きくなり、緊急事態宣言が発せられ、コロナ菌で囲まれた歌舞伎町にいるような、圧迫されるような感じ、また様々な課題が次々と押し寄せ、珍しく霊的な疲れを覚えておりました。この日、毎日の聖書日課、旧約4章と新約2章を読みました。真夜中、非常に御霊の迫りを感じ、霊的な力の油注ぎを体験しました。すべての疲れや不安を打ち破る、すばらしい恵みの一時でした。
◇民数記6章:まずアロンの祝祷の部分が感動的でした。両手を挙げて、民のために御顔の臨在、平安、祝福を祈る姿。
列王上19章:カルメル山上の戦いの後のエリヤのホレブ山への旅。神様の優しい配慮。洞穴の中での神の臨在の体験。神は大風の中にも、地震の中にも、火の中にもおられず、静かな細き声の中にご自身を現し、バアルに膝をかがめぬ7千人を残すと語られた。エリシャの献身!
詩篇81編:汝の口を広く開けよ。我はそれを満たそう!と主は語りたもう。最良の小麦と岩からでる蜜で飽かせる。
哀歌5章:主よ、あなたに帰らせて下さい。我々は帰ります。バビロン捕囚体験の後、深い悔い改めに導かれる民。
マタイ6章:主の教えたもう霊的訓練。慈善、断食、祈り、目が体のあかり。思う煩うな、野の花、空の鳥を見よ。信仰薄き者。神の国と義を求めよ!
黙示録2章:エペソ教会へ「初めの愛に帰れ!」。魂の内側に神の恵みの充満を覚え、再献身の時としました。ハレルヤ。この体験はわたしにとって、神様の「髄と脂肪でもてなしを受ける」ような体験、聖霊の満たしを受けた弟子たちのように、神の命が注入され、深い癒やしと平安を受ける体験でした!
この恵みを証しするように、この詩篇を導かれました。皆さん、心に不安があり、恐れのある人は、御言葉と主の臨在によって癒やされますように!

3)、7 あなたはわたしの助けとなられたゆえ、
わたしはあなたの翼の陰で喜び歌う。
8 わたしの魂はあなたにすがりつき、
あなたの右の手はわたしをささえられる。   (7~8節)
 ⇒ 神にへばりつく魂であれ!            
特に8節の「わたしの魂はあなたに付き従い(=ダバク)」の一句は、ベストセラー「イミタチオ・クリスチ」を書いたトマス・ア・ケンピスを最も感動させた聖句であると言われます。ウェスレーも影響を受けたトマス・ア・ケンピスです。青木澄十郎師は「へばりつく」と訳しています。神にぴったりと寄り添う姿を教えています。羊が羊飼いを慕うように、神様にぴったりとすがりつくのです。へばりつくのです。その時に主は、従う者を永遠のみ腕でお支えくださるのです。
 J バイブルで見ると次のように記されます。
ダーバーク  は「くっつく,一緒にとどまる,一緒に結びつく、べったり(はり)つく,密接に付きまとう 、くっつくようにされる。
青木澄十郎先生の訳では、「わが霊魂は汝の後に粘りつく
             汝の右の手は我を確(しか)と握る。
ミルトス社の解説では、「密着する、くっついて離れない」とあります。
カナダのあるクリスチャン心理学者の話を読みました。
「人間は愛なくして生きられない。人間は一日16回、愛情をこめて抱きしめられなければならない。4回愛の言葉とともに抱きしめられて、ようやく、死の世界から解放されて、自分は生きても良いと思う。更に8回抱きしめられて、生きることの喜びを感じる。更に4回抱きしめられて、創造的な、積極的な未来に向かっての命に満たされる。」と言うのです。
究極的な存在である主イエスに深く愛されていることを体験し、また、わたしどもの方でも主イエスを深く愛してゆく中で、わたしどもは生きる意味と喜びとを体験するのです。恵みに満ち満ちた、創造的な積極的な命の生涯は、神の愛に生きるところにあります。

【 祈り 】 主よ、暑い日がやってこようとしています。冷たい水でわたしたちの肉体が憩いを得るようにあなたの愛とあなたの命でわたしどもを満たしてください。どうか、わたしどもが現代の、ゴミのような情報が汚水のように押し寄せるただ中にあっても、主の十字架の贖いの恵みに満たされ、聖霊の命の泉に渇きを癒され、一週間の歩み、御言葉と賛美にあふれ、主も恵みに満ちて、歩めますように。詩篇63篇のように、あなたに飢え渇き、あなたの髄と油のもてなしのように愛に満たされ、ぴったりとあなたに寄り添うように歩み行かせてください。主イエスの御名によって祈ります。アーメン!