説教「五旬節の日が来て」美歌子牧師

2020年5月31日 ペンテコステ主日礼拝
聖書箇所:使徒行伝2:1~4
説教:美歌子牧師

 今日は緊急事態解除で、会衆礼拝が守れることになりました。家で礼拝を捧げている方もあると思いますが、心を合わせて礼拝を捧げましょう。
 そして、本日はペンテコステ礼拝です。ペンテコステとはギリシャ語で「50」という意味です。この数字は『過越しの祭』から数えて50日目の祭という

意味で、出エジプトから50日目にシナイ山で十戒を授かった記念の日として祝われていました。「50日祭(=五旬節)」とも言われます。
 この日は大麦の収穫祭としても祝われていました。
そして、新約聖書に記されたこの日は、イエス様の復活から50日目、約束の聖霊が来られた日、教会(神の国)の誕生の日でした。
それ以来、教会はこの日を記念し続けてきました。
今年もこの日が巡ってきました。しかし、そういうことがあったと過去のこととして覚えるのでなく、今もわたしたちに起こったこととして、立ち上がらせていただけたらと願っています。
        
【聖書の概観】
1節 五旬節の日一緒に集まっていた。
2節 突然、天から激しい風のような音が起こり、家いっぱいに響いた。
3節 舌のようなものが炎のように分れ、一人一人にとどまった。
4節 聖霊に満たされ、他国の言葉で語りだした。

【メッセージのポイント】
1) 五旬節の日は来る
1 五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、2 突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。
 最初に五旬節の意味をお話ししました。この日は、モーセに導かれて、奴隷の家エジブトから、長子が死ぬという最後の禍が下される時、イスラエルの人々は犠牲の羊の血を鴨居に塗って、この災いを過ぎ越されました。そして奴隷から解放され、神の民としての契約の十戒をシナイ山でいただきました。ユダヤ人は、自分たちが信じている神様は、確かに歴史に働き、ダビデのような力ある救い主を送られる。その事を思い起こす日でもありました。
 この日、弟子たちは、イエス様が自分と同じ別な助け主を送る、それまでは待っていなさい。との約束を信じて、心を一つにしてまっていました。そして突然、風のような音が天から起こり、一連の出来事が起こったのでした。この日の出来事が確かに起こった事実であったことは、前にここを学んだ時、全く関係なかった人々が、この物音にびっくりして集まってきたことから証明されました。
今日はペンテコステ礼拝です。ただこのことがあったということを、覚えるだけでなく、今も働かれる神様を待ち望む信仰に立ちましょう!
 先週も深谷牧師がジョンウエスレーのアルダスゲートの体験のことをはなしてくださいましたが、聖霊様は求める者に必ず来てくださいます。

2) 一人一人にとどまった。
3 また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。3節
 今日はここから、約束の聖霊様が来られた時、一人一人にとどまった。ということに心を止めてまいります。
 この後のペテロ達の、大胆に「イエス様こそ待ち望まれた救い主でした」と宣べ伝え始めた姿は、確かに古い性質が変えられたことが分かります。そして待ち望んでいた全ての人々に来てくださったので、皆新しくされたこともわかります。でも4節に御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。と書かれていますから、それぞれ違った現れ方をしたこともわかります。
 聖霊様は、愛し合い、赦しあう一つなる神の国を与えてくださいましたが、それぞれの立場を与えて置かれています。Ⅰコリ12:13 なぜなら、わたしたちは皆、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によって、一つのからだとなるようにバプテスマを受け、そして皆一つの御霊を飲んだからである。14 実際、からだは一つの肢体だけではなく、多くのものからできている。15 もし足が、わたしは手ではないから、からだに属していないと言っても、それで、からだに属さないわけではない。16 また、もし耳が、わたしは目ではないから、からだに属していないと言っても、それで、からだに属さないわけではない。17 もしからだ全体が目だとすれば、どこで聞くのか。もし、からだ全体が耳だとすれば、どこでかぐのか。18 そこで神は御旨のままに、肢体をそれぞれ、からだに備えられたのである。とありますように、聖霊に満たされたとき、期待された置かれたいろいろな場があるのです。
 今一つ、一人一人というとき、神様が何億の人がいても、その一人一人を把握し、知っておられることも表しています。
 三浦綾子さんの「道ありき」という自叙伝があります。17歳で代用教員になりました。受け持ったクラスの50人ほどの子供たちを、一人一人愛し、父母の中には、「先生は優秀な子をかわいがる。」と言う人があるが決してそうではない。私は一人一人の日記帳をつけていた。子供が帰ると、それをつけるのが仕事だった。ところが一人二人、どうしてもその日の様子を思い出せない子がいる。次の日は、わざとその子にいろいろ当てたりしてせめてもの償いの心だった。ある日優秀な子が、貧乏で、成績もあまり良くない子が縄跳びに「かてて」(入れての意味)といったのに、「知らないもん」と入れてあげなかった、その様子を見ていた綾子先生は次の授業の時「一緒に遊べないなら一緒に勉強しなくてよろしい」と3日も教室の隅に座らせた。優秀な子だったからそんなにしなくても解ったのに、厳しすぎた、と書いています。戦争が終わって教科書に墨を塗らせたとき、確かなものを教えられないのに教師はできないと、教壇を降りた。しかし、恋人を慕うようにしばらくの間、学校の周りをうろうろした。4年まで教えた子たちが、卒業の時は受け持ってくださった先生が連れて、あいさつにきてくれた。振り返り、振り返りしていく子たちがいとおしかった。その文を見ながらなんと細やかな愛情の先生だったかと思いました。しかし、わたしたちの神様は、綾子先生どころではありません。パーフェクトな愛の方です。
 この歳になって良くわかってきたことは、神様は、だれよりも尊敬を受け、ひれ伏して接するべきお方と思っていましたが、肉親の家族よりも、だれよりもわたしのことを知っていて、しかも愛し、小さなことでもすべてご存じで応えてくださる方だということです。子供はお母さんやお父さん、おじいちゃんおばあちゃんに甘えます。でも大人になると甘えるということがあまりありません。でも、父なる神様は甘えさせてくださるのです。子供のように。
しかし、人間は自分の好まないことが起ってくると神様の愛を疑ったり、神の存在さえ疑ったりします。そのような時、主の十字架を見上げましょう。愛しきってくださった事実が歴史に刻まれています。
あなたを特別に愛しておられる神様に親しく呼びかけてください。神様は一人一人の呼びかけを聞き取ることができる方です。

3)聖霊に満たされ、他国の言葉で語りだした。
すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。       (4節)
 4節に、「一同は聖霊に満たされ」という聖句が出ています。わたしたちは何よりも聖霊に満たされることを求めましょう。イエス様が使1:「エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい。1:5 すなわち、ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖
霊によって、バプテスマを授けられるであろう」。
 1:8 ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。と語られているからです。この日聖霊に満たされた弟子たちは、いろいろの他国の言葉で語りだしました。炎のような舌と訳された舌は「ことば」とも訳せるそうです。バベルの塔以来言葉が乱され、世界がばらばらになりました。
 このところでは、一つの言語になったとは書かれていません。集まった弟子たちがいろいろの他国の言葉で語りだしたのでした。その内容は、「イエス様こそ私たちのために救いを完成してくださった救い主でした。」これを証言するものでした。
 先週マタイ7:1―6節を祈祷会で学びました「人を裁くな」といわれた内容についてでした。人間同士の正しさは神様の前では、お互いに立ちえないものでした。5節で全部の人に対して「偽善者よ、自分の目にある梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって兄弟のちりを取りのけることができるであろう」と言われていました。ある先生は「人は自分のにおいには気がつかないもの」といっていました。この梁を取りのけてくださったのはイエス様でした。裁くことのできる方が、ご自分が裁きを身代わりに受け、わたしを赦し、癒してくださいました。もし目にちりが入っている兄弟がいたら、「イエス様のところに行こう、取り去ってくれるよ」と語ることができるでしょう。置かれた環境で必要としている人に語れる言葉が与えられるでしょう。

 今待ち望まれるのは、御再臨のイエス様です。その日は父なる神だけがご存知とイエス様も言われているので、待ち望みましょう。歴史に介入して来られた神様の約束を信じて、教会こそがこの日があることを知っているものとして伝え一つになって待ち望みましょう!

祈り  神様、今日はペンテコステ、五旬節の礼拝です。どうぞ、最初の聖霊様の御臨在が、現代のわたしたちにも臨んでくださり、証しを持たせてください。一人一人が、神様の置いてくださいましたところで、福音を伝えることができますように。
また、一人一人を、決して間違わず、最善をもって守り、導いてくださることを、嬉しく、感謝いたします。
 聖霊様が常に満ちあふれ、お導きください。アーメン