説教「聖霊によって神の愛が注がれ」ー 信仰義認の結果 ー 深谷牧師

2020年6月7日 三位一体主日礼拝
聖書箇所:ローマ5:1~5
説教:深谷牧師

 今日は、教会暦では「三位一体主日」と呼ばれている日です。先週、わたしたちはペンテコステ主日を迎えて、特別の礼拝を捧げて、聖霊なる神様の御降臨を祝いました。今日は「三位一体主日」で、神様の救いが完成したことを再確認しましょう。先週の美歌子先生の説教で大変恵まれました。その内容は、

①ペンテコステの日は来る!ついに上なる神、共なる神、内なる神の圧倒的神様の臨在に包まれ、信仰の揺るがぬ確信の時は来た!10日間の弟子たちの祈りに主は答えられた。

②この圧倒的確信は、「一人一人に」、炎の如く来た。

③その結果、「聖霊なる神の愛と恵みに満たされ」、神の摂理の共同体、教会が誕生し、福音の全世界への宣教は始まった!

④更に言えば、このようなコロナの災禍が世界を覆う時代に、わたしたちは「主イエスの再臨」と言う究極的な聖書の信仰に立って、多くの方々に愛と喜びの証しの業に励もう というものでした。アーメンと答えました。

聖書箇所と概略 】 

 さて、今日はロマ5:1~5という「有名な聖書箇所」です。「信仰による義認」と言う主題が、ロマ1:18から4章にかけて語られました。パウロは、ロマ書は3章21―26節の「信仰義認」の主題の提示の後に、この信仰の内容は旧約聖書の主題だったと、アブラハムの例を引き合いに出して語ってきました。

5章1―11節では信仰義認はすばらしい実を結ぶと語っています。今日の1―5節では、特に、次の4つの内容が語られています。

  • 神との平和、    神の子どもとなる確信
  • 栄光の希望、    永遠に、神の栄光を喜ぶ
  • 艱難をも喜ぶ、   目の前にある試練を越える力
  • 聖霊の愛による、欺くことのない希望。

今日は、①~④を考えて見たいと思います。

【メッセージのポイント】

1)1 このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、

わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。(1節)

  ⇒ 信仰義認は「神との平和」を得させる。             

 人間の一番深いところで求めているものは「神との平和」です。全能の父なる神様と和解し、神様の子供となり、神の愛と信頼の中に憩うことこそ、人類の慕い求めている最終的な心の欲求です。

 しかし、創世記3章を読みますと、人間は神に創造され、内側に永遠の平安を得て歩むべき存在であるにもかかわらず、罪を犯して、神の恵みから漏れてしまいました。罪を犯した人間は本能的に聖い神の顔を避け、恵みの世界から逃避の歩みをしてゆくのです。自分の力で神に近づこうと努力しても、人間の根本的な罪の性質がそれを妨げ、いよいよ、欺瞞的なものとなってしまうのです。聖書は神との和解の道は主イエスの十字架のあがないを信じることだと教えています。神の子主イエス様がわたしどもの罪を全部一身に負ってくださった。このあがないのゆえに、わたしどもは義とされ、神の子供とされるのです。

 主イエスの十字架の贖いの業を信じる時に、神様と和解するのです。

 このことを良く教えてくれるのは、ルカ15章にある「放蕩息子のたとえ」です。父から遠く離れて、遠国に行き、放蕩の限りを尽くしたこの息子も、本心に立ち返って、悔いあらためて、父の許に帰ってきました。お父さんはこの息子の帰ってきたことを喜び、息子の指輪をはめて、「これはわたしの息子」と呼び、受け入れてくださいました。贖われると人は、神の子となり、神様を「アバ、父よ!」と呼ぶ者とされます。神さまとの平和!和解!神の愛する対象として存在となる!これこそが人類の歴史の中で、人々のもとめてきた究極の救いです。

わたしは1969年12月21日に洗礼を受けて、これを経験し、感激あふれ、アパートに戻って、親しい友人にはがきを書きました。「今日、おれは洗礼を受けた。神の子になった。おれは永遠生きる。おまえも信じろ。このばか。」神の子どもとなったという最高の恵みを見つけたわたしは、芸術の世界以上に、人間をいかす最高の道を発見し、神様に献身し、牧師にまで導かれました。ハレルヤ

2)2 わたしたちは、さらに彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる。(2節)

  ⇒ 信仰義認は、神の栄光に与る希望を与える!

 主イエスの十字架のあがないを信じる信仰は、わたしどもに、神の栄光にあずかる希望を与えるというのです。神の栄光にあずかる希望とは一体、何でしょうか?

 それは神の恵みの世界を意味しています。それは失われた人間の栄光の回復です。神の子となり、神のあらゆる祝福を受け継ぐものとなることです。一切の罪に許しを受け、喜びの中に人生を歩みます。罪の問題と共に死の問題の解決がそこにはあります。永遠の命、天国の恵み、完全なる勝利の歩みがそこにはあるのです。信仰義認の恵みは、いつでも神の栄光にあずかる希望をわたしどもに約束しています。

 このことはロマ8章30節でさらに詳しく語られました。

30節 神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。

   予定、召し、義認、栄化

30 神は ①あらかじめ定められた者たちを、           〈予定〉

         神は天地創造の前からわたしたちを選ばれた。エフェソ1:4

②召し出し、召し出した者たちを            〈召し〉

    この世から呼び出して、神の民として召し出したもう。

③義とし、義とされた者たちに            〈義認〉

   十字架の血潮によって義とされる。ロマ3:21、ガラ2:16

④栄化をお与えになったのです。         〈栄化あるいは聖化〉

           聖霊の満たしと力によって、主とおなじ姿に変えられる。

 クリスチャンの生涯は、「救いの順序」で考えるとよく分かると思います。そして、ここにはそれがかなりはっきりと現れてきています。

 最後は主の栄光を見上げつつ天国を確信して、栄化されるのです!

 ある神学生の証し。彼の牧師先生は、癌にかかられ、余命いくばくもないと宣告されていた。どんなにか失意の中にあるかと思って病室を訪ねたら、先生は大変恵まれていて、「今の心境は、あえて言えば『ドアを開ければパラダイス!』だと語られた」と感激して報告してくれました。すばらしい!と思いました。

 

3)3 それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、4 忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。(3,4節)

⇒ 信仰義認は苦難をも喜ぶ信仰を与える!

 パウロはここで、信仰によって義とされた生涯は、どのような試練をも乗り越えてゆくことを誇りとして語っています。主の十字架のあがないという人間の考えられる最も残酷な刑にあって、われらのあがないを全うされた主イエスの恵みを受けたわたしどもは、どのような苦難にも耐える信仰が与えられる。そして、苦難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、練達は希望を生み出すというのです。主イエスのあがないを信じる信仰者は、どのような苦悩の中にあっても、希望に生きうる究極的な救いを得ていると告白しているのです。

 クリスチャンの信仰には「摂理」への強い信仰があります。善にして善をなされる神は。人間の苦難や試練をも、善に変えてくださるのです。

 詩編119:68、や71節の信仰。三浦綾子さんの愛誦句でした。

 

4)5 そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。

                              (5節)

 ⇒ 信仰義認により、希望、即ち聖霊による神の愛、が注がれている。

 パウロは信仰義認の信仰は、聖霊によって神の愛が注がれているので、この希望は欺かれることがないと言います。主イエスの十字架のあがないによって神との平和を得たわたしどもの人生は、聖霊の愛に満たされた歩みに召されていることを知るべきです。主よ、あなたと和解したわたしどもの生涯を、あなたの命、あなたの霊、あなたの愛、あなたのすべてを持って満たし、整え、強めてくださいと祈って行きましょう。

 コリー・テン・ブームさんの、有名な証し。第二次世界大戦の後に、コリーさんは、ドイツの国民に悔い改めとキリストによる新生を語りました。ある講演の後の招きの時に、元ナチスの将校、父、母、姉を死に追いやった本人がいたのです。彼だけは許せない!と感じました。でも、聖霊なる神様の助けによって、コリーさんはこの将校を赦し、神の愛を示しました。その時、彼女は神様の恵みを受けて10歳も若返るような命の喜びを感じたと言います。最後は聖霊様の愛の助けにすべてがあるのです。ハレルヤ!

【祈祷】 恵みの主よ。今日は、主イエスの十字架の贖いの恵みがわたしどもの人生に何をもたらすかを学びました。人類が歴史の中で求め続けた、良きものの総称、すばらしい4つの実を結ぶことができますように。

①神様、あなたとの平和と親しい交わり、神の子とされた喜び、

②栄光に輝くあなたの希望、失望、不安を越えた天国の栄光の望み、

③どのような苦難をも喜ぶ力と、摂理への深い洞察、

④更に、わたしどもの人間の弱さを越えた聖霊様の愛の助けの希望!にいかしてください。わたしどもの贖い主、主イエスの御名によって祈ります。アーメン!