説教「御霊の実は?」 ガラテヤ2:16,5:16,22,23   深谷春男牧師

2020年6月21日 父の日礼拝
聖書箇所:ガラテヤ2:16,5:16,22~23
説教:深谷牧師

 今日は父の日です。『母の日』がアメリカではじまったのは、1908年(明治41年)。母の日ができたことを知ったワシントン州に住む『ソノラ・ドット夫人』は、翌1909年「母の日があって父の日がないのはおかしい。父の日も作って下さい。」と、『牧師協会』へ嘆願しました。ドット夫人が小さい頃、お父さん(ウイリアム・ジャクソン・スマート氏)は北軍の軍人でした。1861年4月12日南北戦争がおこり。アメリカの悲劇の時代が始まりました。

南北戦争が終わったのは1865年4月9日。約4年にわたる戦争でした。「ドット夫人」のお母さんは、夫のウイリアム氏が北軍に召されている間、女手一つで働きながら一家を支えてきました。そのため、お母さんはすっかり体をこわしてしまい、ご主人が戦争から帰ってまもなく、召されてしまいました。そこからは、ジャクソンさんの戦いが始まりました。残された子供は、男の子5人と女の子が1人。6人の子供達を男手一つで育てるのですから、本当に大変だったそうです。お父さんは再婚もせず、生涯独身で働き通しました。今日のような豊かなアメリカではなく貧しい時代のアメリカでしたから、その苦労は並大抵なものではありません。6人兄弟の末っ子の女の子が、その「父の日」を申請した「ドット夫人」だったのです。「父の日」をつくって下さいという願いは、最初、教会の「牧師連合会」に嘆願したようです。時間がかかりましたが、1926年、「国際父の日委員会」がニューヨークで組織され、1972年(昭和47年)になってアメリカでは国民の祝日となりました。「父親に尊敬と感謝を表わし祝う日」それが『父の日』です。

わたしも、3人の子供からのプレゼントをもらい、感激でいっぱいです。

 

【 聖書箇所の解説 】 

さて、今日はガラテヤ書からのメッセージです。ガラテヤ書と言えば、これは、伝道者パウロの初期の手紙です。ガラテヤという小アジアの教会に向けて書かれました。わたしは「ガラテヤ書」と聞きますと、すぐマルチン・ルッターと16世紀の宗教改革を思い起こします。ルッターは「ガラテヤ書はわが愛する妻カテリナ・フォン・ボーラである。わたしは彼女と結婚した」とまで語ったと言われます。その中心主題は「信仰義認」です。2章16節はその中心聖句です。この「信仰によって、義とされる」との御言葉から、近代世界が生まれました。そのような意味で、ガラテヤ書は、近代世界の生みの親のような存在です。しかし、またガラテヤ書にはこの第一主題から引き出される第二の主題があります。それが今日の聖書箇所でいう「聖霊の内住」です。あるいは「霊なるキリストの内住」と言い換えて良いかもしれません。十字架によって罪の赦しを受けた者は、主イエスを心に迎え入れて、神の愛と命に生きる者へと変えられて行くのです。日本ですばらしい活躍をされた宣教師にB.F.バックストン先生がおられます。B.F.バックストン先生は、ガラテヤ書は、「聖化の恵みを語るパンフレットである」と語られました。パウロ先生の主張はこうです。人間は、弱く愚かな存在です。主イエス様の十字架の出来事を理解し、自分の破れを認め、へりくだって信仰を告白した者は、神の子とされる。神の子とされた者は、キリストの愛の内を歩む。やがて、その人生は、自分が歩むと言うよりも、自分は死んで、キリストが生きているという所まで成長し、わたしの心の本当の主人は主イエス様、聖霊なる神様だと言うところまで行く。そして、キリストの愛、聖霊の恵みの結実を豊かに実らせるのだと宣言するのです。

【メッセージのポイント】

1)人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを認めて、わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである。それは、律法の行いによるのではなく、キリストを信じる信仰によって義とされるためである。なぜなら、律法の行いによっては、だれひとり義とされることがないからである。(2章16節) 

 ⇒ プロテスタント教会の原点 = 信仰義認 !     

 この聖句は聖書の語っている救いについてのもっとも大切な箇所です。

ご存じのようにプロテスタント(新教)教会がマルチン・ルッターの宗教改革から始まりましたが、彼の原点は「神の義の発見」であり、それは「福音の再発見」と呼ばれたものでした。自分の罪のゆえに悩みに悩んだ修道士ルッターは、聖書をむさぼるように読んで、当時のカトリック教会の大きな聖書に対する誤解に気が付きました。即ち「正しい人が天国へ行く。悪い人は地獄へ行く」と聖書は教えているのではない。「正しいものは一人もいない。自分の罪を認めて、神に許しを請う者、罪深い我を許したまえと告白する者を、神は救う」と聖書は言うのをルターは発見し、聖書の救いを、明確に語ったのでした。しかし、これはルッターの主張したことではなく、新約聖書のパウロの主張であり、ひいては主イエスの主張でありました。主イエスは「健康な人に医者はいらない。いるのは病人である。わたしが来たのは義人を招くためではなく、罪人を招くためである」と語られました。聖書は人間の罪深さを知っており、神に立ち帰る罪人を救うと語っているのです。放蕩息子の物語に象徴される「罪人の悔い改め」が聖書の中心主題だからです。

 わたしどもの生涯も同じです。「救い」は自分の立派さからくる神のご褒美ではありません。自分の破れを知り、主のみ前に砕けた悔いる心の者に与えられる、神の一方的な恵みなのです。そこには深い罪の認識と、罪深い自分への神の恩寵認識があります。聖書の語る神の義はもともと法廷の用語です。神の清い法廷の席に立って、わたしどもの生涯が裁かれるとき、原罪のゆえに罪のもとに売られているわたしどもには「有罪判決」しか待っていないという事実に愕然とするのです。

 神のみ前に行った時のことを考えてみましょう。天国の前にある法廷でその人が天国に入れるかどうかの裁判があります。その人の幼い時からの生涯がビデオのように映しだされるとします。ノーカットのフィルムです。小学生、中学生、思春期のひとこまひとこま・・・。自分の姿をわたしどもは直視できるでしょうか?十戒に従って裁かれる事を想像してみてください。「あなたは父母を敬ってきたか?人を恨んだことはなかったか?姦淫の思いを持ったことはなかったか?嘘をついたことはなかったか?盗んだことはなかったか?等々・・・」。一つ一つ主のみ前に明らかにされるなら、もはや言い開きはできません。そこではわたしどもは涙を流して自分の生涯を恨むのみです。涙を流して泣き叫ぶあなたの頼みの綱は実は今日の聖書箇所なのです。  

さあ、あなたは神様に申し上げることができるのです。

「主よ、わたしは2020年6月21日の新宿西教会の礼拝で、深谷牧師が、ガラテヤ2章16節のみ言葉を信じるなら、これはいわば『天国行きの切符』なのだ。これを神様のみ前で、信じましたと告白しなさい。そうすればあなたは神様に特別の処置をして頂けるでしょう。忘れないように、と言われ、それを信じました」。

 その時、神のみ座の右からなつかしい声が聞こえることでしょう。「父よ、この者はわたしが十字架の血潮で買い取ったものです。み救いに入れてください」。こうしてあなたは、神の子どもとして受け入れられるのです。

 

2)16 わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。 (16節)

 ⇒ わたしは命じる。御霊によって歩きなさい。

 パウロは5章の終わりではっきりとわたしたちに命じています。即ち、「わたしは命じる。御霊によって歩きなさい」。歩くという言葉は、生活することを意味しています。パウロはここで信仰者の生活の仕方を明確に語っています。「信仰者は聖霊に導かれて生活するのだ」と。信仰生涯は聖霊なる神の導きによります。これはわたしたちの自分の力が主体なのではなく、神様により頼み、へり下って、主により頼んで生きることを意味しています。主に祈りつつ、主の臨在を覚えつつ歩む生涯を語っています。「聖霊なる神様、今日もわたしの心の王座に座って、わが人生を導いてください」と祈りましょう。

 

3)22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、 23 柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。 (22,23節)

⇒ 聖霊の結ぶ9つの実

 ここでは信仰者の結ぶ実が語られています。ちょうど葡萄の実が大地の養分をその根から摂取し、立派な葡萄の実となるように、わたしどもは、主イエスの贖いの愛によって神の子とせられ、その臨在の中を歩みつつ、その人格の中に主イエスのみ姿を映す者として頂くのです。ここでは信仰の実は9つだと言われます。「愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制」です。主イエスと同じように、栄光から栄光へと変えられて行くのです。

 しかし、多くの学者は言います。ここの箇所は文法的に成り立たないと。9つの実が語られているのであるのに、パウロは「実(カルポス)」という言葉を単数で用いています。9つが単数であるとはどう考えてもおかしいのです。2つの解決があると言われます。

そのひとつはパウロは葡萄の「1房」のように9つの実をひと房と考えていたのであるという理解です。そのように考えるとわたしどもは、聖霊なる神様の豊かな恵みの世界を感謝に満ち溢れて受けることができるのだと思います。その9つの実は「愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制」です。これらは、9つにして、ひとつ。「愛」を中心にした信仰の恵みの世界を語っていると言うのです。

 また、もうひとつの考え方は、パウロは御霊の実と言ったときには「愛」を考えていたと言うのです。そのほかの8つはこの「愛」の色々なあらわれに過ぎないという考え方です。すなわち、パウロの本音は、「神の内住は真実な愛」というところにあると言うのです。主イエスの本質は愛であり、聖霊の本質もまた愛です。信仰生活の中心も神と人への愛にあるという結論になります。1コリント13章の愛も、聖霊の最高の賜物と、聖書は語ります。この聖句は暗唱しましょう!今年の標語はロマ12:10!兄弟愛と尊敬。

       父の思い出

 今日は父の日ですので、父の思い出を話します。

 わたしが中学生のころに運動会があり、中学3年生の時には、どういうわけか、その年の運動会には父が、いつもより早く見学席で座っていました。それがとても、印象深く覚えています。中学3年生で、来年は、高校生になるから、8番目の息子の運動会は最初から見ようと、心に決めていたのかもしれません。あるいは、何か別の理由があったのかもしれません。父のいる席辺りが何となくまぶしいような気がしたものです。父親の視線を感じておりました。3年生で、生徒会の役員だったので、日の丸の旗の4隅をもっての入場行進。そしてそれから、皆でするラジオ体操は、わたしが壇上でリードすることになっていました。壇上からの、まだまばらの観客席の中に父が座っておりました。600M競争や、リレーや、棒倒しなどの時も、同じでした。愛情をもって見守られることは内側に深い恵みを得ることです。

わたしどもの背後には、肉親の父の愛の暖かいまなざしがあります。また、目を天に向ければわたしども見守る,優しい神様の御慈顔があります。御慈顔の御前で、わたしどもは人生の営みを続けてゆくのです。神様の恵みの中に歩む生涯は、まさに神様の面前を行進するような祝福の生涯を指していると思います。地上の父に深い感謝と敬意を表わすと共に,天お父様に,心からの感謝の礼拝を捧げる日としていただきましょう!ハレルヤ

 

【 祈祷 】 天の主よ。今日は父の日礼拝です。この朝、わたしたちを育んだ父に感謝を献げ、また天のお父様、あなたに栄光を帰す日として下さい。、どうぞ、このガラテヤ書で語られているように、2章16節のグレートテキストを忘れることがありませんように。本当に弱く、愚かな存在であるわたしども、主イエスの十字架の贖いの愛を魂の深みまで刻んで下さり、救いは主の十字架にあり!と告白させて下さい。また、内住のキリスト、聖霊なる神と共に歩みつつ、豊かに、御霊の実を実らせる者でありますように!あなたの愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制の9つの結実を、何よりも、愛を、実らせて下さい!主イエスの御名によって。アーメン