説教「鹿が谷川の水を慕うように」ー試練の大滝にかかる七色の虹ー 詩篇42篇   深谷牧師

2020年7月5日 聖霊降臨節第6主日礼拝
聖書箇所:詩篇42篇
説教:深谷牧師

 「詩篇」という書物は、とても深い、豊かな導きをわたしたちに与えます。わたしは自分のクリスチャン生涯を考えると、いつも詩篇と共にあったと思います。洗礼を受けた19歳の時に、詩篇23:4、「たとい、われ、死の陰の谷を歩むとも災いを恐れじ。汝、我と共にいませばなり」。練馬開進教会の白石姉のプレゼントでした。ここからクリスチャン生涯が始まりました。第二の聖句は詩篇43:5。クリスチャンになって1年2ヶ月。青春の嵐のただ中で「絶望の経験」、「真っ暗闇に激突!」。山手線の最終電車で、生きる希望を失ってポケットの入れていた詩篇付きの新約聖書に一筋の期待をかけて読んだ時、「5 わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。何ゆえわたしのうちに思いみだれるのか。神を待ち望め。わたしはなおわが助け、わが神なる主をほめたたえるであろう。」という聖句に励まされて、「神を待ち望め!」、この言葉に涙がぽろぽろ頬を伝わり落ちました。

そして第三は、その翌日、1972年2月12日。北区赤羽の友愛マンションで、早天祈祷会を自分一人でもって、読んだ箇所。それが詩篇108編でした。「わが心定まれり、わが心定まれり。我歌いまつらん、たたえまつらん。箏よ、琴よ、覚むべし、我、東雲(しののめ)を呼び覚まさん。」矢内原忠雄先生の「嘉信」分冊を読み、「伝道者となるべく心を定めよ!」との励ましに、伝道者なる決意をしたことでした。この信仰50年は、聖、聖書の中の聖書「詩篇」と共に生きた恵みの50年でした!ハレルヤ

 「彼の臨在こそわが救い」。ホーリネスの群の新年聖会で、三川茂先生が第二コリント4章からの説教で、何度か「彼の臨在こそわが救い」と繰り返されたことがありました。これは神戸の塩屋にあった関西聖書神学校で教鞭を執られたBFバックストン先生の語られた信仰の奥義のような言葉であったとのことでした。この句は詩篇42篇にありますと語られましたが、時間の関係かあまり詩篇42篇には触れられませんでした。今日は、「彼は人類の花」と言うバックストン先生の信仰にも触れつつ、「臨在こそ救い」「御顔こそわが救い!」という聖書のメッセージに耳を傾けてみましょう。    

【 詩篇42、43篇の概略と区分 】

  詩篇42、43篇は「神への渇き」を歌った印象深い詩です。この詩の作者は異郷の地に捕囚とされ、強制労働に従事させられているようみうけられます。そのような苦しい現実の中で、かつて神様を礼拝した喜びの体験を思い起こしつつ、「主よ、あなたのみ顔の助け」を与えて、この困難な時期を乗り越えて、再び、あなたに礼拝をする時を来らせてくださいと祈っています。詩篇84篇と用語も信仰の内容も類似しています。段落、区分は以下のようになっています。

      1―   5節  第1段落   神への渇望(1、2節)、

現実の悲しみと過去の回想(3、4節)               

                             畳句・「御顔こそわが救い」5節)        

      6― 11節  第2段落  悲しみと喜び分極化(6―8節)、

神への訴え(9―10節)

                             畳句・「御顔こそわが救い」(11節)

 43:1―  5節  第3段落  神への訴え(1―2節)、

祈りと回復への希望(3―4節)

                            畳句・「御顔こそわが救い」 (5節)           

 

【メッセージのポイント】           

1)1 神よ、しかが谷川を慕いあえぐように、

   わが魂もあなたを慕いあえぐ。

   2 わが魂はかわいているように神を慕い、

   いける神を慕う。

   いつ、わたしは行って神のみ顔を

   見ることができるだろうか。

   3 人々がひねもすわたしにむかって

   「おまえの神はどこにいるのか」と言いつづける間は

    わたしの涙は昼も夜もわたしの食物であった。

    4 わたしはかつて祭を守る多くの人と共に

    群れをなして行き、喜びと感謝の歌をもって彼らを神の家に導いた。

    今これらの事を思い起して、わが魂をそそぎ出すのである。(1~4節)

   ⇒ 谷川の流れを慕う鹿のように、活ける神を慕う!

 ここには「活ける神への礼拝」への渇望があります。この詩人はかつて教団のリーダーだったようです。彼は牧師のような仕事をして、民のなす礼拝を導いていたようです。それが異邦の地へと連れてこられ、今は深い谷間のようなところで肉体労働をさせられています。

 1―4節にはかつての礼拝の喜びを思い起こして、現実の惨めな捕虜の生活と比較して、彼は嘆き、活ける神への礼拝を慕っています。それは子を産む時に水を慕う鹿の激しい渇望にも似たものだと告白しています。

 ある方が、「人間のからだにとって、水への渇きは、呼吸を別にすれば最も強い肉体的な欲求である」と語っています。「信仰深い人にとってのみならず、活ける神への礼拝渇望は、すべての人間の奥深く持っている強い欲求である」と。これは深い言葉であろうかと思います。

 

2)5 わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。

   何ゆえわたしのうちに思いみだれるのか。

   神を待ち望め。

   わたしはなおわが助け、

   わが神なる主をほめたたえるであろう。      (5節)

 ⇒ 「臨在こそわが救い」!

  この詩人は試練の現実に直面して、自分の魂に語りかけます。

 「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ、

  何ゆえうなだれるのか。

  なぜ呻くのか。神を待ち望め」と。

 この詩篇42,43篇を通して、合計3回、この言葉は繰り返されています。ここで、わたしたちは特に「臨在こそわが助け」という聖句に注目したいと思います。口語訳では「わたしはなおわが助け、わが神なる主をほめたたえる」と訳されています。しかし、直訳は「顔の助け」で、新共同訳では「御顔こそわたしの救い」と大胆に訳されています。この詩人はややもすると、自暴自棄になりやすいような、苦しい生活の中で、「神の臨在」に唯一の慰めを見ているのです。

 はじめにも言いましたが、神の器、B.F.バックストン先生はこの句を愛唱して「彼の臨在こそ、わが救いなり」と良く語られたといいます。直訳では「彼の顔こそわが救い」と言う意味です。聖い勝利に満ちた信仰生涯は、この神のみ顔を拝するところに秘訣があるからです。

 

3)6 わが魂はわたしのうちにうなだれる。

  それで、わたしはヨルダンの地から、またヘルモンから、

  ミザルの山からあなたを思い起す。

   7 あなたの大滝の響きによって淵々呼びこたえ、

  あなたの波、あなたの大波は

  ことごとくわたしの上を越えていった。(6,7節)

 ⇒ あなたの波、試練の大波!

 6、7節では「ヨルダンの地、ヘルモン山、ミザル山」のふもとにいる詩人の情況が分かります。彼はそれらの情景を心に描きながら、「大滝の響き」に「淵々」は呼び答え、「あなたの大波はことごとくわたしの上を越えていった」と告白しています。 

 これは滝の轟音にまわりの谷々が呼び答え、反響するように、神様の厳しい裁き、紀元前722年のサマリヤの崩壊の時か、紀元前586年のエルサレムの崩壊の時か、あるいは別の時なのか分りません。しかし、彼の大変は結びついているようです。敵国の侵入、戦車の音、馬のひづめの音、ときの声、怒号、悲鳴、号泣、うめき、叫び……・それらの声が詩人の耳のそこにこびりついてしまったのだと想像することができます。彼は鬱のような精神状況にあったのでしょう。

 

4)8 昼には、主はそのいつくしみをほどこし、

   夜には、その歌すなわちわがいのちの神にささげる

   祈がわたしと共にある。

   9 わたしはわが岩なる神に言う、

   「何ゆえわたしをお忘れになりましたか。

    何ゆえわたしは敵のしえたげによって

    悲しみ歩くのですか」と。

    10 わたしのあだは骨も砕けるばかりに

    わたしをののしり、ひねもすわたしにむかって

    「おまえの神はどこにいるのか」と言う。

    11 わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。

     何ゆえわたしのうちに思いみだれるのか。

     神を待ち望め。     (8節~11節)

  ⇒ 賛美と祈り、試練の大滝にかかる虹のように!

     しかし、彼は8節で歌います。

    「昼には主の慈しみ、

     夜には神にささげる賛美がある」と。

   この詩人にとって、神の御前に静まって主に礼拝を捧げる時、その時は「試練の大滝にかかる美しい七色の虹」のように恵まれた天国のひとときだったと告白しています。

 この8節はヘブル語原典で見ると、全体のリズムを狂わせるような節であるといわれます。それゆえに、幾人かの学者は、この8節を全体にあわないので削除すべきとまで言います。しかし、実際には、そのような変調がまさに、この詩に中では、強調点となって響くと言われます。

 第一部では、詩人は捕囚の苦しみのただ中で、絶望の思いに捕われています。教会のリーダーとして、人々を礼拝堂に導いた恵みあふるる過去を思い出して、その恵みの世界とは全く違う強制労働のような現実に失望し、嘆いています。しかし、また、嘆きのただ中から、自分の魂に語ります。「わが魂よ、なにゆえうなだれるのか?神に希望を見出すのだ」と。

 第二部では、絶望と希望が分極化を起しています。この詩人は深い深い悩みのどん底におり、しかも、神の臨在に触れて、少しづつ少しづつ、絶望的な暗さから、神の光の平安の中に自分を見出すように変えられてゆきます。  

 そして、第三部の内容(詩篇43:1~5)まで行くと、もう彼の信仰は少しづつ、光の中へと導かれているのを感じさせるような、黎明のような明るさが漂ってきます。同じ畳み句が繰り返されるのですが、神の御顔の輝き、その臨在の恵みによって、詩人の魂が、自分の体験した破局のような深い傷がいやされ、希望の光が差し込んでくるのが、感じられます。ハレルヤ

 世界は様々な苦しみと不条理の嘆きの中にあります。でもわたしどもは、「鹿が谷川の水を慕うように活ける神を慕い」ながら、絶望に陥るような試練の大滝の轟きを聞きながらも、「御顔の助け」を仰ぎ、日ごと夜ごと「神のいつくしみ」を仰ぎ、「いのちの賛美をささげ」つつ、やがて主の御前に不動の確信へと至る信仰者の姿を見ました。この詩篇は「うなだれて、呻き続ける、鬱々たる魂の状態から、癒され、平安を得、主を賛美する救いの過程を歌います。ハレルヤ

 【祈祷】 天の父なる御神。人間の愚かさと神の厳しい裁きに直面し、暗黒のただ中にあって、「御顔こそわが救い」の体験を詩篇42,43篇に学びました。絶望の深みに至るそのような時にも、わたしどもの生涯をあなたの臨在のもとにかくまい、恵みの中に整えて下さい。試練の大滝のような中にあっても、天から注がれる神様のいつくしみと、それに応答するわたしたちの祈りと賛美が、七色の虹のように、生きる希望と喜びを与えて下さり、この2020年の後半を守り給え。救い主、主イエスの御名によって祈ります。アーメン