説教「わが右の手をぐいっとつかみ」ー 詩篇73篇   深谷牧師

2020年7月12日 聖霊降臨節第7主日礼拝
聖書箇所:詩篇73篇
説教:深谷牧師

ある親しい牧師先生の証しを聞きました。 彼はこのように語りました。

「わたしは薬剤師をしておりました。あるとき、わたしの目の前にすばらしい女性が現れました。わたしは彼女に心奪われ、ついに二人は結婚にまで導かれました。わたしはドキドキしながら彼女の手を握り締めておりました。しばらくして、気がつきましたら、わたしの握っていた手は、イエス様の手だったのです。わたしは、妻に導かれ、一緒に歩んでいるうちに、いつの間にか教会に導かれ、救いに導かれ、更に献身に導かれて、神学校に行き、今気がつくと、なんと牧師になっていたのです。」

【 テキストの概略 】

 この詩篇73篇は「知恵の詩」であり、歌うための賛歌ではなく、黙想の形で記された神様の歴史支配への信仰告白です。「旧約における魂の戦いにおいて、もっとも成熟した業績のうち、73編はその第一位をしめている」とA.ヴァイザーも絶賛しています。この詩は「アサフの歌」に所属します。「アサフ詩集」はまず、50編があり、それから73―83編がそのようい呼ばれ、合計で12編の詩集です。特にこの詩は、最近は非常に注目されています。72編で一応、ダビデ詩集が終わり、この詩からは詩編の第三巻が始まることになります。また、詩編全体の中でも詩編146―150編を最後のハレルヤとすると、この詩編73編はちょうど詩編の中心となります。ここで表現される信仰内容も、詩編の中心的におかれるにふさわしい、重要な意味合いを持つというのです(W.ブルッグマン)。

聖書の信仰に従って歩もうとするわたしどもにとって、2020年の後半第二の主日にふさわしい聖句と思います。全体の構造は、次のようです。

  1-12節   詩人は悪人の安泰を見てうらやみ、信仰の挫折寸前だった。

 13-20節   不条理に悩んでいたが、聖所で神の裁きに霊の目が開かれる。

 21-28節  霊的覚醒を経験、神の恵みに感謝し、神に近くある幸いを歌う。

 

 【メッセージのポイント】

2しかし、わたしは、わたしの足がつまずくばかり、

わたしの歩みがすべるばかりであった。

3これはわたしが、悪しき者の栄えるのを見て、

その高ぶる者をねたんだからである。(2、3節)

   ⇒  悪しき者の栄えるのを見てうらやむな。信仰の歩みをつまづくな!

この詩はまず、冒頭に結論が語られます。

「神は正しい者にむかい、心の清い者にむかって、まことに恵みふかい(=善である)」と歌われます。神様がこの世界の主権者であることやその支配の正しさは知っているのだけれども、詩人は「わたしの足がつまずくばかり、わたしの歩みがすべるばかりであった。」と告白しています。それは「悪しき者の栄えるのを見て、その高ぶる者をねたんだからである」と理由が述べられています。全能の神が支配しておられる世界、正義の神が支配しておられる歴史。それなのにどうしてこの世界は問題多く、わたしどもの歴史や人生には不条理が満ちているのか?罪深い人や悪人が豊かに栄え、神様に従い真実に生きようとしている人が病気をし、貧しく虐げられているのか?

「これはおかしい?」と詩人はつぶやいたのです。この世の不条理に心惑わせ、おごり高ぶる者を見てうらやんだのです。

その結果、すべてがばかばかしく思われ、信仰の歩みの足が滑りそうになってしまった!と自分の人生を振り返って、その体験を語り、後輩たちに警告しているのです。

もしも、その不信仰のつぶやきを語るなら、次の世代の若い人々、自分の息子、娘、あるいは、後輩たちをつまずかせ、信仰の道から遠ざけることにしてしまったであろうと回想しています。

 

2)17わたしが神の聖所に行って、

彼らの最後を悟り得たまではそうであった。(17節)

      ⇒ 聖所で、礼拝の場で、神の歴史支配を悟れ!                            

 詩人はどのようにして、この人生の不条理を乗り越えたのでしょうか?

17節では「神の聖所に行って、彼らの最後を悟り得るまで」は、この地上の不条理ヘの怒りで、心は一杯だったと告白します。聖所は礼拝所のことです。礼拝は神の言葉の啓示の場です。詩人は礼拝に出席し、聖書の言葉を聞き、また、神の歴史支配の現実を目の当たりにして、俄然!悟ったのです。神様を見上げることなく、自己中心の不信仰の生涯は、どんなに栄えているように見えても「一瞬のうちに荒廃に落とし、災難によって滅ぼし尽くされる」(19節新共同訳)。人間の高ぶりと、自己中心主義と、不信仰とは、実に恐ろしい結末を歴史の中で繰り返す!と言う事が分ったのです。あの繁栄を誇ったエジプト大帝国も、武力を持って北イスラエルを蹂躙したアッスリア帝国も、怒濤のように南ユダを滅ぼし神殿を焼き払ったバビロン帝国も、あの強大なローマ帝国も、イギリス大帝国も、明治以降の大日本帝国も、神の裁きの前には、熱風にさらされて、瞬く間に枯れて行く砂漠の花のようなものである事が分ったのでした。

 詩人は霊的に整えられて、深い信仰に導かれました。そして自分自身の、不条理に対する怒りや、この世界の醜い世界への憎しみ駆られた、不信仰に陥りそうになった若い時代を回想して告白するのです。

21わたしは魂が痛み、わたしの心が刺されたとき、

22わたしは愚かで悟りがなく、あなたに対して獣のようであった。

わたしは「わたしは獣だった!」(22節)というのです。これも強烈な告白です。彼は、心すさんでどうにでもなれとやけっぱちになっていたのでしょう。あちらに吠え付き、こちらにかみつき、自分自身のいらだちを抑えることができなかったというのです。

皆さん!皆さんは、御自分の生涯を振り返って、どのように感じますか?

わたしは、この辺のことを考えると、10数年前のことを思い出します。高校生の娘たちが、「すいどうばた美術学院」の短期講習に出て、美術系の油絵やデザインの基礎を学びたい、と言うので、どういうわけか、わたしが車で二人を乗せて、そこまで連れて行ったのです。まあ、わたしが、美大を狙って、3年間通った所だったので、18歳のころの懐かしさもあって連れて行ったのですが、目白の前の高田一丁目を通ったとき、「あ、ここは、おとうが18歳の時に住んでいた毎日新聞の配達所のあったところだ・・・」とか、下落合の方を通ったときには、「ここは新聞配達のあとにきた、牛乳配達のお店があったところだ・・・・」とか話して行きました。「18歳の時、ここでおやじさんと口論したんだよな・・」とか、「ここで親父さんとけんかしたり、配達牛乳をごまかして飲んだんだよな・・・・」。ブルジョアの親父のためにプロレタリアートの自分が、牛乳の一本二本飲んでも、どうってことはない・・・」とか、自分勝手な理論をでね・・・。子どもたちは目を丸くして聞いてました。話していて、自分の胸が、チクチク痛むような気がしました。

そして、時は1970年の安保闘争の時代。ヘルメットをかぶり、学生運動で、あちらでも、こちらでもぶつかっていた自分を思い起こしておりました。すべてが思うように行かず、「獣」のように、荒れていた時代でした。

今は神様に右の手をしっかり捕まえられ、献身の生涯へと導かれている。不思議な主の導きを感謝しています。

 

3)けれどもわたしはあなたと共にあり

   あなたはわたしの右の手を保たれる。(23節)

 ⇒あなたはわたしの右の手をぐいっとつかんだ!

 詩人は、ある時点で、「あなたはわたしの右の手を取られた!神様がわたしの人生の決断の中心である右の手を、グイとつかんだ!」と語りました。これは非常に印象的な言葉です。彼は神様にぐいっと掴まれるような体験をして、神様の恵みに捉えられ、新しい人生の中に入れられました。この句はユダヤの哲学者マルチンブーバーの墓碑に刻まれているそうです。長い歴史の中で、神様にぐいっと右の手をつかまれた経験をした人は数え切れないでしょう!時には、病気をもって、時には失恋をもって、ぐいっと捉えられる!

 24 あなたはさとしをもってわたしを導き

その後、わたしを受けて栄光にあずからせる。

神様との交わりは、地上においてもめぐみ充満、やがては永遠の栄光のうちへと導かれるでしょうと彼は告白します。そして彼はさらに告白します。

25なんじのほかに我、誰をか天にもたん。

地には汝のほかにわが慕う者なし。(文語訳)     (25節)  

 天でも、地でも慕うお方は、神のみ!というのです。これは旧約最高の告白に一つです。わたしは献身生活の始めのころこの言葉によって導かれました。       

        

4)27見よ、あなたを遠ざかる者は滅びる。…

  28しかし、神に近くあることはわたしに良いことである。(27、28節)

 神に近き生涯を歩め!

   この詩の締めくくりとして、詩人は、神の遠きことは滅びであり、神に近きことはまことの幸いであると宣言しています。ここに詩人の結論があります。パウロもまた言います。「主は近い。何事も思い煩うな」(ピリピ4:5、6)。われらのために十字架にかかり、復活してわれらを永遠の御国へと導かれる主イエスはわれらに最も近い存在なのです。

 

 わたしどもの生涯は、聖所において、礼拝の場において聖書を通して神の歴史支配の現実を啓示されるまでは、悶々として苦悩の中を生きて行きます。しかし、霊の目を開かれた後は、われらは主の恵みの深さを知らされ、神に近い生涯を歩み出すのです。天でも地でも、慕うお方は主のみ!みそば近くおらせ給え!とたたえつつ生きるもとと変えられます。ハレルヤ。

 

【 祈祷 】 父なる御神。わたしどもの生涯には多くの悩みや不条理があります。しかし、それにとらわれて、足が滑ることのないように憐れんでください。礼拝に参加し、御言葉をもってわたしどもの霊の目を開いてください。そしてわたしどもの右の手をとって、栄光の生涯へと導いてください。「わたしはあなたのほかに、だれを天にもち得よう。地にはあなたのほかに慕うものはない!」と語りうるほどに霊的な高みまで導いてください。「わが最善は神に近きこと」という告白をわたしの告白として下さい。主イエスキリストの御名によって祈ります。アーメン