説教「我を贖う者は生きておられる」ー ヨブ記19:25~27   深谷牧師

2020年7月19日 聖霊降臨節第8主日礼拝
聖書箇所:ヨブ記19:25~27
説教:深谷牧師

 1971年の3月、わたしは献身を決意して、日本キリスト教団赤羽教会の2階の3畳屋根裏に住み込みまして、一年間、教会訓練を受けました。21歳の時です。当時の赤羽教会の牧師先生は高山慶喜先生で、70代後半の先生でした。温和な、姿勢の低い、やさしい先生でした。わたしはここでの1年間、大変豊かな体験をさせていただきました。この三畳の屋根裏は、教会の玄関口の2階にありました。2階に上がる階段は、まさに「はしご」でありまして、登る一段一段の踏み場は、板が一枚ずつで、下の方がそのまま見えました。わたしはそこで、内村鑑三先生のロマ書や矢内原忠雄先生のエレミヤ書などを読んで、大変豊かな生活をしておりました。平日は、大塚の職業訓練校に通いながら、軽印刷の学びもしておりました。

 特に内村鑑三先生のロマ書に、深い感動がありました。その中で、「旧約聖書の中心はヨブ記19章25~27節、新約聖書の中心はロマ書3章21~26節である」という言葉が心に刻まれ、その箇所を暗唱したり、学んだりして、当時、赤羽教会の青年会の兄弟姉妹と夜遅くまで、話し込んだり、祈ったりしておりました。今日は、その旧約中心、ヨブ記19:25~27を皆さんと共に読み、恵みに預かれることを感謝します。

 

【今日の聖書箇所の概略】                                                

   さて、明治、大正、昭和にかけて、日本のキリスト教界に、そして、日本社会そのものに大きな影響を与えたクリスチャンに内村鑑三(1861~1930)がいます。彼は、1920年(大正9年)、ちょうど、今から100年前ですが、60歳の時に東京丸の内の聖書講演会で、ほぼ一年、4月から12月までヨブ記の連続講解説教を行いました。その中でのヨブ記19章25節に至った時についに心熱して病に倒れ、数回の休講を余儀なくされました。そして、10月11日の日記にこのように記しました。

 「眩暈(めまい)いまだ去らず、頭を冷やし終日、床にあった。床中に彼女(妻)に看護せられて言った。『ヨブ記19章を講じてこんなくらいのことは当たり前である。床につくくらゐに一生懸命にならざれば、ヨブ記がわかったということはできない』と。しかし、これで峠を越えてあとはらくである、一先づ大安心である、こんな力の要る部分は聖書の中にも多くはないのである」(「ヨブ記の研究」『あとがき』内村美代子より)。

 翌、大正10年からは「ロマ書講演」に入りました。

 ヨブ記は「聖書の中で最も深い書物」「人間の苦難と神の義について深淵なる真理を示す書」などと呼ばれております。

 ヨブは、信仰深い、真実な、豊かな人でした。しかし、サタンの攻撃に会い、家族、親族、仕事、財産に問題が生じて全てを失うに至りました。更に、ハンセン病のような恐ろしい病気にあって、健康とあらゆる人間関係に破綻をきたしてしまいました。彼は「人生の苦難の問題」を友人たちとの議論し、自分の無罪を主張し、神の歴史支配に異議申し立てをします。しかし、因果応報の思想に立つ友人たちに責められて、孤立無援、絶望のただ中で、「贖い主(=ゴーエール))を待ち望む信仰に至りました。法廷における弁護者というイメージを主張する者もいます。とにかく、ヨブは人間としての全てを失う中で、自分を弁護し、失われたものを取り戻し、自分の人生を救い、回復する、まさに「贖い主(=ゴーエール)」を待ち望んだのです。人生はまず、「贖い主」なるお方に待望の目を注ぐところから始まると言って良いでしょう。

さて、ヨブ記19章の概略は次の通りです。

1-4節 ビルダデへのヨブの二回目の答えで、友に捨てられた絶望の叫び

5-21節 自分には恥ずべき行為はない、わが身の病は神の不正の暴虐の結果

22-24節 彼は自分の潔白を、鉄の筆で岩に刻むように熱望する

25―27節 失望の最中で啓示される「天における贖うお方」への信仰の飛躍

 

メッセージ・ポイント

25 わたしは知る、

わたしをあがなう者は生きておられる、 (25節)

  ⇒ われを贖う者は生きておられる!

   「贖う者」という言葉は、ヘブル語では「ゴーエール」という語であり、この言葉は独特の響きを持っています。キリスト教の中心的なメッセージはこの「贖う」というこの一語にかかります。

 「贖う方」(ゴーエール)とは 次ぎのような場合に使用された言葉である。

①親族中の助力者「親族が血を流した場合その復讐をする」(申命19:6-12)

②親戚が捕虜になった場合、身代金を払って自由の身とする(レビ25:48)

③親戚が破産をした時は賠償金を払ってその財産を買い戻す(レビ25:25)

④やもめや幼児の保護者、非圧迫者の解放者(箴言23:10-11)

⑤ エジプトからイスラエルを解放した主ヤーウェ(出6:6、15:13)

⑥ バビロンから民を解放したヤーウェ(イザ43:14、44:6,24,エレ50:34)

⑦ メシヤ(=救い主)への適用、「最後の方」(イザヤ44:6、48:12)

             (フランシスコ会「ヨブ記」その他による)

 日本キリスト教団の信仰告白があります。わたしどもは、聖餐式のある月の第一主日に読みます。これは、大切な信仰告白の基本的な内容が記されます。週報の裏面に印刷されていますので確認してみましょう。4つの告白です。

第一項目は、「聖書信仰」です。聖書が基本なのです。

第二項目は、「救いとは贖い」。人間の罪は主イエスの十字架の贖いによる。

第三項目は、救いの業は「信仰による義認」と「聖霊による潔め」。

第四項目は、教会。教会は神の言葉の説教と聖礼典(洗礼・聖餐)を行う。

 ここでは特に、第二の主題、主イエスの十字架の贖いが強調されています。また、日本キリスト教団の葬儀の式文には、「わたしは知る。わたしをあが

なう者は生きておられる」の言葉の宣言から始まります。

 

2)後の日に彼は必ず地の上に立たれる。(25節b)

⇒ 後の日に、彼は必ず地の上に立たれる!

 ここでヨブはこの「贖い主」なるお方が、地の上に立つと告白します。ここでは二つの理解の違いがあります。①地の上は、文字通りには、「塵(=オーファール)の上として、死人の行く、塵の積もった場所、死者の国、陰府(よみ)の国を指すという理解の仕方があります。そうすると「贖う者」は、陰府の世界に立つことになる。また②「塵」という言葉は、「土(=アダマー)7:21、14:8参照」や「地(エレツ)8:19、41:25参照」と同義語として使われている。アダムも「土の塵」から造られているが、実質的に同じ。この場合も、陰府よりも、地上と取ったほうが妥当と考えられます。教会の伝統でも70人訳以来、この「地の上に立つ」を、地上に来られるキリスト、肉体をとってこられる「受肉の神のことば」と理解してきました。更にこの「贖い主」は再臨のキリストを指すと内村は言います。「贖う者」は最後に、地上に立たれる。その時、彼の義が、正しさが証明される時となるのです。

 有限の被造物の世界に、無限の造物主、神ご自身が訪問され、永遠が時間の世界に突入されるのは、二回あります。一回はクリスマス。神ご自身が肉体をまとってベツレヘムの馬小屋に栄光を表わし、ゴルゴダの上に人間の罪をすべてご自身の血潮で贖い取ってくださったのです。第二回目は再臨の時です。主イエスが、この世界の歴史の終わりに再び来たりたもうという信仰です。この再臨信仰は聖書の至る所で告白されています。Ⅰテサロニケの手紙などは、各章の終わりに再臨と再臨への備えが記されます。パウロの手紙などは至る所に再臨の希望が語られます。ロマ8章や、ピリピ3:20,21など。マタイ福音書25章には「十人の乙女」「タラントの譬え」「羊と山羊のさばき」など。黙示録の最後の部分などがあります。

 

3)26わたしの皮がこのように滅ぼされたのち、

  わたしは肉を離れて神を見るであろう。

 27しかもわたしの味方として見るであろう。

  わたしの見る者はこれ以外のものではない。

  わたしの心はこれを望んでこがれる。 (26、27節)

     ⇒ わたしの目が、贖いの神を仰ぎ見る!

 ここでは、「見る」という言葉が3回も記されます。

厳密に調べると「仰ぎ見る(=ハーザー「幻を見る時に使われる」)」と

「見る(=ラーアー「一般的な見る」)という言葉が使用されています。

また、「わたし」も3回使われます。

 「わたしは仰ぎ見る」、「このわたしが仰ぎ見る」、「わたしの目をもって見る」。ヨブは、神に会うことを唯一の望みとしています。伝統的には復活のことを指し示していると見ています。

  この最後の部分でヨブは歌います。「その時には、神は厳しい裁きの神としてではなく、わたしの味方として、わたしの弁護者として、神を見る」と。

 

 内村鑑三は、25~27節の個所から、3つの大きな「思想」があるとして次のように指摘しました。

① 贖う者は神であるとの思想である。⇒これはキリストの神性を示すもの。

②「贖うお方」が地上に現れるという思想。⇒これはキリスト再臨を指す。

③  ある時において人が神を見る目を与えられて、明らかに神を直視し得るいたるとの思想である。 

  ⇒これは信者の復活および復活後に神を見たてまつることを示すのである。

「絶望の極、この三思想、心に起こる時、― いな、この三啓示、心に臨むとき ー 絶望の人は一変して希望の人、歓喜の人となるのである。」 

 

 ヨブは、この世の悲しみ、病い、挫折、矛盾、不条理、愛する者との死別、人生の空虚さ、醜悪さ、究極における自己の死・・・・に直面し、絶望の極みに陥り、その最も暗い絶望の闇の中において、自分のどうしようもないこの現実を贖うお方にお会いする啓示を頂き、主の贖いに、復活に、再臨に、永遠の命の世界の出現に、真の救いを見いだしたのでした。わたしどもも同じです。主の十字架に、復活に、再臨に、永遠の命の出現に、救いの光を見るのです!

 

【祈祷】 天の父よ。ヨブ記19章を学び得たことを感謝します。ヨブが肉体的な苦痛、人間世界の冷たい批判、友人たちの攻撃的な言葉に傷つき、自分の自身の内なる世界や、この世界の不条理に心奪われ、真っ暗闇のどん底で、「我をあがなう方は生きておられる!」との告白に至りました。われらの罪と死の世界を贖うために来られ、あのベツレヘムの馬小屋の飼い葉桶の中に身を横たえ、カルバリの十字架の上で身代わりの死を遂げ、しかも罪と死を打ち砕いて復活され、再臨の朝には、顔と顔をあわせてお会いする!そこまで示されて、ヨブが「内臓が焼けるような思い」であなたに焦がれたように、わたしどもの魂をも、贖い主であり、救い主であるあなたを慕う者として下さい。聖霊よ、我らの霊の目を開いてください。贖い主、主イエスの御名によって。アーメン