説教「わたしは平安を願う」ー都もうでの歌①ー 詩篇120篇 深谷牧師

2020年8月2日 主日礼拝
聖書箇所:詩篇120篇
説教者:深谷春男牧師

 8月の第一日曜日は「平和主日」です。日本基督教団は1945年の第二次世界大戦の終結と、8月6日と9日に原爆の投下があり、実に人類が憎しみ合い、殺しあうことの悲惨さと愚かさをくりかえなさいという反省を込めて、この日を制定しました。この日、わたしどもは平和を祈りたいと思います。戦争、殺人、暴力、憎悪、復讐・・。人間の世界におこるあらゆる人間の本性に潜む罪の源としての憎しみと争いをわたしどものうちから断ちたいと願います。そして、その答は、「キリストこそ我らの平和」(エペソ2:14)にあります。 

【今日の聖書箇所の解説】 

 さて、詩篇の中で「都もうでの歌」と言われる一連の詩篇があります。今日与えられている120篇から134篇までの15の詩篇です。「都もうでの歌」というのは、だいたい3通りの解釈があります。

  • 年一回のエルサレム上京の際の巡礼歌。(申命記16:16)
  • 異国バビロンへ捕囚となっていた民がエルサレムへ上る歌。
  • エルサレムの神殿の婦人の庭から男性の庭への階段(15階段ある)で歌われた聖歌集。

 神様によって導かれる、人生巡礼歌集とでも呼ぶべき愛唱詩篇です。いわば、詩篇による「天路歴程」です。信仰者の人生をその出発から天国の恵みへの人生を歌いあげています。たとえば、以下のように記されます。

 

120篇:「志望の歌」。巡礼決断の詩篇。神の平安を望み、救いを切望する。

121篇:「出発の祈りの歌」。父親に見送られ山を見上げて歩き始める。

122篇:「エルサレム到着と巡礼者の足は宮の門内に立つ」。到着の喜び。

123篇:さらに進んで神殿に入り、礼拝堂で「臨在の玉座を仰ぐ礼拝の歌」。124篇:礼拝堂での黙想。「苦難の人生の回顧と主の守りへの感謝」。

125篇:信仰。主に信頼する者は動かされることなく、シオンの山のよう。

126篇:信仰者の人生。過去の救いの恩寵・現在の祈り・未来の希望を歌う。

127篇:家庭歌。主が家を建てられるのでなければ建てる者の勤労は空しい。

128篇:家庭歌。主を畏れよ。妻はぶどうの木。子供たちはオリブの若木。

129篇:苦難の人生の回顧。若い時からの試練。しかし主は縄目を切断せり。

130篇:歩哨が、深夜目覚めて朝を待つように、神の救いの到来を待つ。

131篇:乳離れしたみどりごが母親のふところに眠るような平安を歌う。

132篇:エルサレム巡礼のクライマックス。神礼拝の熱狂的な喜びの世界。

133篇:イスラエル中から集まった兄弟たちが共に座る兄弟愛の感激の歌。

134篇:巡礼者はまだ暗き朝早く祭司たちの祈りを聞きつつ聖所を後にする。

 ここには、旧約時代に、主に従った神の民の、エルサレムの神殿に向かう巡礼の旅と、主の愛と恵みに支えられた人生への深い感謝があります。

 

【メッセージのポイント】

1)都もうでの歌

1 わたしが悩みのうちに、主に呼ばわると、

主はわたしに答えられる。

2 「主よ、偽りのくちびるから、

欺きの舌から、わたしを助け出してください」。(1、2節)

 ⇒ 悩みのうちにあって、主に呼ばわれ。

 この詩人は「悩みのうちに、主に呼ばわると主はわたしに答えてくださった」と歌いはじめます。この詩は、一連の巡礼の歌とすれば実に彼の「志望の歌」あるいは「脱出決意の歌」とでもいうべきものです。

ある解説によりますと、彼はバビロン捕囚の際に、イスラエルを追われ、異邦世界に逃げ込んで生活しているユダヤ人であろうと言います。彼は今、不信仰者の集まり、異教の地で生活しています。時代は紀元前500年ころです。

 彼は5節で「わざわいなるかな、わたしはメセクにやどり、ケダルの天幕のなかに住んでいる。」と告白しています。

 メセクは、ノアの子ヤペテの子孫(創世記10:2)で、小アジア北方に住み、奴隷と聖堂の器を商っていました(エゼキエル27:13)。コーカサス地方南部にいた蛮族と言われます。

 ケダルは、アブラハムのはしためハガルの子、イシマエルの子孫で、(創世記25:13)、ダマスコの南の、シリヤ砂漠に住んでいた(イザヤ21:13~17)民族です。詩人は異教徒との生活の中で神の平和とは遠くはなれ、いさかいと偽りの人生に嫌気がさしています。警察も病院もない異教の地で生活することは、実に多くの「悩み」や「苦悩」があったことでしょう。彼はその悩みのうちから、主に助けを呼び求めています。

 ジョン・バンヤンの名著「天路歴程」の主人公は、現実の神無しの生活に不安と恐れを感じて、神の救いを呼び求める所から、求道の旅を始めます。この詩人も同じです。神無しの人生から、神の平安の人生へと彼は旅立つのです。

 

2)3 欺きの舌よ、おまえに何が与えられ、

何が加えられるであろうか。

4 ますらおの鋭い矢と、

えにしだの熱い炭とである。

5 わざわいなるかな、わたしはメセクにやどり、

ケダルの天幕のなかに住んでいる。  (3~5節)

⇒ 欺きの舌よ、わざわいなるかな!

「あざむきの舌よ!わざわいなるかな。」。

 詩人は罪の中での生活を呪い、その中で特に「言葉」を代表させています。ここでは特に欺きの舌に対して、批判していることに心を留めましょう。言葉や舌は大変重要なものです。人間の精神は、大脳皮質を支配する言語中枢に支配されるとよく言われます。生活の乱れは言葉の乱れになって現われます。ヤコブ書にあるように、言葉は身体全体、人生全体を方向づける、船の舵のような働きがあります。気をつけ、信仰の言葉、人を励ます言葉を語りましょう。

 

3) 6 わたしは久しく平安を憎む者のなかに住んでいた。

7 わたしは平安を願う、

しかし、わたしが物言うとき、彼らは戦いを好む。(6、7節)

 ⇒ わたしは平安を願う!

 「わたしは平安を願う、しかし、わたしが物言うとき、彼らは戦いを好む。」平和を求める詩人の告白が結論として語られています。直訳では、「わたしは平安(アニー シャローム)」。「主にある平安!」それがわたしどもの「救い」の別名です。「平安」という言葉は6節と7節で2回使用されます。

 それは霊的な平安と充満の表現です。まず、神様の愛が分り、神様と和解する。神の子どもとなって、永遠の平安がやって来るのです。聖書の平安は、単に戦争がないと言うだけでなく、モーターが静か音もなく回り、大きなエネルギーを発するように、力に満ちてあらゆる創造的な歩みをなすさまを、「平安(シャローム)」と言うのだそうです。神にある平安、罪の許しと聖霊の満たしの世界、永遠の命の水が湧き上がり、流れてゆくさまを表します。

 

 内村鑑三の著書に「求安録」という名著があります。そこには、1861年生まれの内村鑑三が、自分の生涯を振り返りながら、本当の平安を求め続けた体験を語っています。この書物は、1893年(明治26年)8月、彼が33歳の時に書かれました。この年の2月に「キリスト信徒の慰め」が出版され、好評を博しました。「求安録」はその続きのような内容になっています。

 表紙の裏扉に「口あいて腸(はらわた)見せるざくろかな」芭蕉の句。

 そして、冒頭の文章は以下のような名文です。

 「 悲嘆   人は罪を犯すべからざる者にして、罪を犯す者なり。彼は清浄たるべき義務と力を有しながら、清浄ならざる者なり。彼は天使となり得る資格を備えながら、しばしば禽獣にまで下落する者なり。登っては天上の人となり得べく、降っては地獄の餓鬼たるべし。無限の栄光、無限の堕落、共に彼の達し得べき境遇にして、彼は彼の棲息する地球と同じく、絶頂 Zenith  絶下Nadir 両極点の中間に存在する者なり。・・・・」

 以下の目次のみ記します。

上  罪ゆえの煩悶、悲嘆、内心の分離、

   脱罪術(①感情的な体験、②学問、③自然研究、

       ④慈善事業、⑤神学研究、⑥神学校 )

   忘罪術(①家庭、②利欲主義、③オプティミズム)

下  罪の原理、喜びの訪れ、信仰の解、

     楽園の回復、贖罪の哲理、最終問題。

 この書の結論は、「十字架の主イエスの罪の贖い」に依らねば、最終的な神の平安はないとの結論です。それは聖書の結論でもあります。

 

 さあ、2020年の夏を迎えました。コロナ感染拡大の騒ぎの中にあります。しかしこのような時にこそ、何よりも、十字架を通しての神との和解、そして人との和解ヘと歩ませていただきましょう。聖書の平和は、まず、神様と和解して、その後、人との和解が始まるのです。今日、共に告白しましょう。「われは主にある平安を願う!」と。恵みの人生はここから始まります。ハレルヤ。

 

【祈祷】 天の父よ。暑い夏が始まりました。しかし、何よりも心のうちにあなたの平安を与えてください。この世の何にもまして、わたしどもが求めるべきものが、あなたからくる平安であり、それこそ、わたしどもの救いであることを詩篇120篇から学びました。わたしどもは創世記3章にあるように罪を犯して、あなたの顔を避けて逃げ回るような者でした。しかし、わたしどものために贖いとなられたあなたを受け入れた時から、あなたと和解し、すべての人と和解する平和の道を与えられました。「キリストこそわたしたちの平和です。二つのものを一つにし、隔ての中垣を取り除きたもうこのお方です。」主の御言葉に深くより頼みつつ、「われは平安を願う!」との志望の思いをもって、真実な信仰の歩みを全うすることを得させてください。平和の主なるイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン