説教「わが足は汝の門のうちに立てり」ー都もうでの歌③ー 詩篇122篇 深谷牧師

2020年8月16日 主日礼拝
聖書箇所:詩篇122篇
説教者:深谷春男牧師

 クリスチャンの人生は巡礼の旅にたとえることができると思います。その中でひとつの節目は十字架を見上げ、救いを受け入れる時です。その時、主はわたしの歌となるのです。「わたしの」歌となるのです。

【テキストの解説】  詩篇122篇は「都もうでの歌」の3つ目の歌です。120篇が神の平安を望み、救いを切望する「志望の歌」でした。121篇は「出発の祈りの歌」です。巡礼の旅の平安を神に祈り、わが助けは「天地を造り給える神より来る」と告白しつつの旅でした。そして今日の122篇は「救いの門への入場の歌」ということができます。わたしの足は城門の中に立つと歌うのです。さらに予告編を言いますと123篇は、詩人は今、神殿に詣でて礼拝の席に座って、全能の神に向かって礼拝をささげています。

 

【メッセージのポイント】

1)ダビデがよんだ都もうでの歌

1 人々がわたしにむかって「われらは主の家に行こう」

と言ったとき、わたしは喜んだ。(1節)

⇒ 主の家に行こう!

この詩人は今、神の都エルサレムの門の中に入っています。エルサレムは町自体が城壁で、外敵から身を守るために囲まれています。詩人は巡礼の旅を続けて、今、感激のなかでエルサレムの門の中に立ったのです。彼はその時の感激を歌うのに、まず、出発の時のことを思い起しています。

人々に「主の家に行こう!」と言われた時のことです。「さあ、皆でエルサレムに巡礼し、主の家に礼拝に行こう!」。そう誘われて、「そうだ、父なる神様の所に行くのだ!」とそう決意した時のことを思い起しています。この詩人のみならず、わたしどももそれぞれに教会に来ようとしたきっかけがあります。あの時の不思議な喜びの心を忘れないようにいたしましょう。

皆さんはご自分の生涯をお考えになって、初めて教会に来られた日のことを覚えていらっしゃいますか?

「主の家に行こう!」とお誘いする人は幸いです。

わたしの場合は中学生の時の担任の先生が渡邊先生という若い教師でした。この先生が、ホームルームの時間にシュバイツアァーの話や内村鑑三の話をしてくださって、教会のことを紹介してくださいました。

「○○さん、礼拝に行きますよ!」「○○さん、礼拝に行く時間ですよ!車でお迎えに来ましたよ!」なんという恵みあふるるご奉仕でしょう。

伝道者であり、茶人でもある藤尾英二郎先生が言いました。

「年を取ってきたら、人生の喜びはすべて色あせてきますよ。人生の喜びは何ですか?一番の喜びは主イエス様のところに来ること。聖書を読んで神様の恵みの世界で心が満たされること。やがて主イエス様のところに行くことを思って、最も価値ある歩みをすること。そして、愛する兄弟姉妹や、求道中の方々に恵みを伝えることですね。」

 

2)2 エルサレムよ、われらの足は

あなたの門のうちに立っている。

3 しげくつらなった町のように

建てられているエルサレムよ、

4 もろもろの部族すなわち主の部族が、

そこに上って来て主のみ名に感謝することは、

イスラエルのおきてである。

5 そこにさばきの座、

ダビデの家の王座が設けられてあった。 (2‐5節)

⇒ われらの足は今、あなたの門の内に立つ!

2節にはこの詩の中心的な内容が記されています。「エルサレムよ、あなたの城門の中に、わたしたちの足は立っている」。詩人は今、長い間、夢見たエルサレムの城門の中に立っているのです。彼はエルサレムの町並みに足を踏み入れたのです。

「しげくつらなった町のように建てられているエルサレムよ!」(3節)と、詩人はエルサレムの町並みの状況を描きつつ、町に語りかけています。彼は「神の都に足を踏み入れました!」と感激の中に歌います。

先ほど語りましたが、この詩人は「主の平安を志望する状態」から始まり、「求道の歩みの一足一足が守られて神の守りに感謝しながら旅を続けている状態」を越えて、ついに「神の都に足を踏み入れた状態」を歌っています。

 

この詩編の感激にあふれた信仰の告白は、今、わたしどもの告白となっていますでしょうか?

主イエスの十字架を仰いで人は救われ、神の国に入るのです。「天国の鍵」は「十字架のあがないの信仰」ですがあなたはそれを持っておられますか?

ジョン・バンヤンは名著「天路歴程」の中でこのように描写しています。

 

さて、わたしは夢の中で、クリスチャンが進むべき街道は、両側とも垣になっているのを見たが、その垣は救いといった(イザヤ26・1)。この道を、クリスチャンは荷物を背にして走った。とはいえ、背負った重荷のために、非常な困難が伴わないわけではなかった。

かれはこのように走って行って、やや上り坂になっている所に達したが、そこに十字架が立っており、少し下った所に墓穴があった。そこでわたしは夢の中で、クリスチャンが、ちょうど十字架の所まで来ると、ひもが弛み、重荷は肩を離れ、背中から落ちて、転がり始めるのを見た。そしてころころと転げて、ついに墓穴の口に達し、中へ落ちて、もうそれきり見えなくなってしまった。

クリスチャンはうれしく、晴れやかに、うきうきした心で言った「主は御悲しみにより安息を賜い、その死によって命を賜うた」と。そこでしばらくじっとたたずんで、かつ眺め、かつ怪しんだ。というのは十字架を仰ぎ見ただけで、このように重荷がおりたということは、非常に驚くべきことに思われたからである。それで繰り返し繰り返し眺めているうち、ついにかれの目から涙が溢れ、頬を伝わってとめどなく流れ下った(ゼカリヤ12・10)。

さてかれが仰ぎ見、かつ涙にむせんで立っていると、これはなんと、三人の光り輝く者が、かれのもとに来て「安かれ」(ダニエル10・19)と挨拶した。それからそのひとりが「あなたの罪は赦された」(マルコ2・5)と言った。次の者は破れた服を脱がせ、着換えの衣を着せた(ゼカリヤ3・4)。また三人目の者は、かれの額にしるしをつけ(エペソ1・13)、封印をほどこした巻物を授け、走り行く時にこれを見、かつ天の門で差し出すようにと命じた。かくて、かれらは去って行った。そこでクリスチャンは喜びのあまり、三度小躍りして、こう歌いながら進んだ(神が心の喜びを与え給う時は、キリスト者はひとりでいても歌うことができた)。

 ここまで罪の重荷を負って来たが、
 ここにたどりつくまでは、味わった深い悲しみを
 除くすべもなかった。ここは何という所だろう。
 わたしの幸はここに始まるべきなのだろうか。
 重荷はここでわたしの背から落ちるべきなのか。
 くくりつけられた紐はここで断ち切られるべきなのか。
 尊しや十字架、尊しや御墓、
 さらに尊きは、わがため恥を受け給いしその人。
 (引用は 「バニヤン著作集Ⅱ」高村新一訳 山本書店版62~65頁)

3) 6 エルサレムのために平安を祈れ、

「エルサレムを愛する者は栄え、

7 その城壁のうちに平安があり、

もろもろの殿のうちに安全があるように」と。

8 わが兄弟および友のために、わたしは

「エルサレムのうちに平安があるように」と言い、

9 われらの神、主の家のために、わたしは

エルサレムのさいわいを求めるであろう。(6-9節)

⇒ エルサレムのために平安を祈れ!

この詩の最後は「この神の都、エルサレムのために祈れ!」という歓呼の叫びで終わります。「平安」や「平和」は共に「シャローム」と言う言葉です。エルサレムはエルシャライーム、「繁栄」は「シャールー」という言葉です。ですから、ここはヘブル語で読むと

シャアル― シェローム エルシャライム  イシュラユ  オハバイク

求めよ 平安を エルサレムの 安心するように あなたを愛する者たちが

シャローム、シャローム、シャローム・・・・とこだまのようにこの詩は美しく結ばれてゆきます。合唱のようにこの詩は歌われています。

さて、神の臨在される都、エルサレムとは一体どこでありましょうか?

神の臨在の場所とは新約の光に照らせば「教会=キリストのからだ」を意味すると多くの説教者は言います。神の臨在の場を大切にし、「神の平安」を歌い敬う人は豊かな祝福を受けるのだと彼は歌うのです。新しい生涯は神の臨在される教会と共なる生涯なのです。主イエスは教会と共におられるのです。

わたしどもは、今、主の家に帰ろうとあの放蕩息子のように決意し、旅し、神の教会の門の内にいるのです。何たる幸い!神の庭に歩む1日はよそにいる千日にもまさるのです。今日は日曜日、主の日。わたしどもはこの日曜日を、神が暗黒の中に光を造られた日として、また主イエスが十字架にかかってくださり、復活してくださり、罪と死の呪いを克服して下さった日として、また聖霊なる神様が下りわれらの霊の目を開いて下さった最高の日として祝います。この一週間も「平安」を歌いつつ、祈りつつ歩みましょう。ハレルヤ!

 

【祈り】 全能の父なる神様。詩篇122篇「都詣での歌」を今日も愛する兄弟姉妹と共に読み、あなたを礼拝することを許して下さり感謝します。「主の家に行こう」と言われた良き出発の日を覚え、「わが足はあなたの城門の中に立つ」と感謝の告白をなしつつ、新しく迎えた一週間、愛する兄弟姉妹の平安を祈りつつ歩み行かせてください。主の御名によって祈ります。アーメン