説教「パラダイスが来た」 使徒4:32~37 美歌子牧師

2020年8月23日 主日礼拝
聖書箇所:使徒4:32~37
説教者:深谷美歌子牧師

 本日のメッセージは「パラダイスが来た」というタイトルです。「天国、あるいは、神の国が来た」でもよかったのですが、少し「はっ?」として、聞いてくれるかな?と言う感じで、このタイトルにしました。一般のグーグルで調べると、パラダイスは天国、あるいはエデンの園と説明されていました。教会では、永遠の命が到来していることを伝えていますが、天国は、肉体の死後に行くところでしょうか?

 イエス様は公生涯に立たれた時、まず第一声に語られたのは、「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」マル1:15でした。

 またある時は、弟子たちが、神の国はどこにあるのですか?と尋ねた時、「神の国は、見よ、あそこにある、ここにあるというのではなく、あなた方のただ中にある」ルカ17:21、と言われました。

 復活して、弟子たちに40日にわたって現れた時、語られたのは、「神の国のことを語られた。」使徒1:3と書かれています。

 イエス様はこの世に来られて、何をされたのかと言うと、神の国をこの世界にもたらしたのでした。失われたエデンの園の回復ともいえるでしょう。

 約束の聖霊が弟子たちに来られた時、教会が誕生しましたが、これこそ、イエス様がもたらした神の国でした。きょうは、初代教会の姿から、その姿を教えられ、私たちの教会も導かれたく思います。

 

【聖書箇所の概説】

4章の内容を振り返ります。

1-12節 ペトロとヨハネ、十字架と復活を語り、牢に入れられた。

13-22節 使徒の大胆な証しの姿に人々は驚き、祭司達は使徒を脅して釈放。

23-31節 二人は仲間の所に行き、状況を語り、皆、み言葉を語れるようにと祈り、聖霊に満たされて、みな語りだした。

32―37節  信仰者の共同体の様子。復活を証し、大きな恵みが注がれた。

 今日のところは、ペトロとヨハネ逮捕から解放までの事件が落着し、教会の姿が、改めて記されている箇所です。2:41-47にも教会の様子が記されていましたから、二度目です。

【本日の個所の区分】

32節 信じた者の群れは、心を一つにし、持ち物を共有にしていた。

33節 使徒たちは主の復活を証し、大きな恵みが注がれた。

34-35節 持ち物を売っては、使徒たちに委ね、貧しいものは一人もなかった。

36―37節 バルナバが畑を売って使徒たちの足元に置いた。

 

【メッセージのポイント】

1)パラダイスがきた!

一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。

32 信じた者の群れは、心を一つにし思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものだと主張する者がなく、いっさいの物を共有にしていた。

34 彼らの中に乏しい者は、ひとりもいなかった。地所や家屋を持っている人たちは、それを売り、売った物の代金をもってきて、35 使徒たちの足もとに置いた。そしてそれぞれの必要に応じて、だれにでも分け与えられた。                   (32,34,35節)

 前回の学びで、議会から開放されたペテロとヨハネは、まっすぐに「仲間のところ」に行ったことを見ました。「仲間の所」とは、身内、親戚、弟子などの意味をもち、「自分が属する人々」のことでした。ここでの「仲間のところ」は主に結びついた「神の家族」のところでした。こここそ、一番強い絆であったことを前回学びました。そして、弟子たちが「み言葉を語る」ことを禁じられたことを聞き、自分の事として祈り、一同が大胆に語りだしました。

 今日の所では、所有物も共有にしていた、とあります。肉親の家族であれば、確かにお財布は一つです。ここでは教会の家族が、そのようにしていたと記されています。

 申命記15章に、神の民として約束の地に住むようになったときのありようが記されています。あなたの神、主が賜る地で、もしあなたの兄弟で貧しいものが一人でも、町のうちにおるならば、その貧しい兄弟にむかって、心をかたくなにしてはならない。15:7申命記では、命令でしたが、新しい共同体は、自主的でした。神の民の理想の姿「パラダイスが来た」のでした。

 この支え合いが、自主的な思いからであったことは、このすぐ後の5章にアナニアと、サッピラが代金を偽った時、 売らずに残しておけば、あなたのものであり、売ってしまっても、あなたの自由になったはずではないか。どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人を欺いたのではなくて、神を欺いたのだ」4節といわれていることからも解ります。

 ですが、再臨がすぐに来ると思っていた初代教会は、思っていたほど早くはないといことに気がつき、この消費だけの生活は変えられていきました。けれども神の家族が、持ち物を共有にする、という原則は、その後も生き続けています。Ⅱコリント8:1-14にもそのことが書かれています。 8:14 すなわち、今の場合は、あなたがたの余裕があの人たちの欠乏を補い、後には、彼らの余裕があなたがたの欠乏を補い、こうして等しくなるようにするのである。とパウロの手紙も書き送っています。

 今もこの原則は生きています。教会の献金を、必要に応じて使います。自分の教会だけでなく、宣教師に捧げるとか、飢餓に苦しむ地域に捧げるとか、他の教会の会堂建築、伝道に捧げるなどです。災害地への支援なども、与えられているもので分かち合います。テージョイモリソン君やぶどうの実でもヨハン君をサポートしています。愛し合い持ち物を共有する姿が今もあります。

 

2)主イエスの復活を証しし、恵みが注がれた。

  使徒たちは主イエスの復活について、非常に力強くあかしをした。そして大きなめぐみが、彼ら一同に注がれた。       (33節)

 共有生活の箇所に、一見、別な内容が挿入されているように思えます。この記述は2章43節以下に書かれた共同体の内容にはなかったものです。

 これは、すぐ前の心を合わせた祈りの結果、禁じられた宣教を、大胆に語り続けたことが分かります。「復活の事実の証言」を聞いて信じる者が起こされ、生かされ、あふれる恵みとなっていたことを現しています。

 教会の成立の前後の時代に、クムラン教団という集団がありました。理想社会を目指していた彼らは、そこに入ったら、強制的に財産も、知識も、能力も共有にしたそうです。祝福を受けるためにはそうしなければ得られないと思っていたようです。

 しかし、キリスト者は救いの喜びの故に、分かち合います。

 長野県にある、喬木教会の月報が送られてきました。その中にすばらしい証しが載っておりました。「自分は、『祝福された人生』という本を読んで、決心し、ある額を献金し続けたそうです。この本に証しされているように、10倍になって帰ってくると思ってささげました。しかし、それを始めて、1,2年はかえって収入が減ったそうです。それでも止めなかったそうです。ところが、3年目になったときに、変化が起きた。なんと、捧げ始めたときの年収の10倍になったそうです。でも、今気づいたのは、そんなことを期待してするのではなく、恵みに感謝して捧げるのだということです。喬木にはそのような先輩がすでにいることに気がついた。喜んで捧げたい」との証しでした。

復活の主に生かされて、喜んで捧げる天国が証しされますように。

 

3) バルナバ ー 慰めの子

36 クプロ生れのレビ人で、使徒たちにバルナバ(「慰めの子」との意)と呼ばれていたヨセフは、37 自分の所有する畑を売り、その代金をもってきて、使徒たちの足もとに置いた。      (36,37節)

 レビ族出身のヨセフが登場します。ルカ2:25の老シメオンが、救い主が来

られて、エルサレムの慰められるのを待ち望んでいた、あのグループに属し、エルサレムに移り住んでいたのであろうと推測される方があります。シメオンは赤ちゃんイエス様に出会って、「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかにさらせてくださいます。私はこの目であなたの救いを見たからです。」と今この世を去ってもよいと言いました。バルナバも復活の主に出会い、なにもかも捧げたくなって、地所を売って、代金を使徒の足元に置いたのでしょう。

 彼の名はヨセフでしたが、「バルナバ、慰めの子」と呼ばれていました。これはあだ名です。真の慰めを受け、慰めを与える子にされたのでしょう。バルナバの名はここに初めて登場しますが、このあと、パウロが迫害者から、回心した時、パウロのことを恐れていた仲間に引き合わせる役をしました。その後、パウロと共に大いに伝道に用いられることになります。そして、伝道旅行中に一度帰ってしまったマルコを、二度目の伝道旅行に行くとき、パウロはマルコを連れて行くことを反対しました。が、バルナバはもう一度連れて行き、後にパウロも「マルコを連れてきなさい彼は役に立つ」と言われる器に育てました。

 復活の主に出会った器が、慰めの子とされて、この世界に天国が広がっていくために用いられました。

 深谷牧師の幼馴染の仁井田先生が証しの本を出されました。

 赤ちゃんの時から苦労の連続でしたが、神様に出会って、人生が変わりました。天国がこの世界に突入したのでした。

 この頃は、コロナで、世界中が恐れに満たされています。しかし、一人の牧師が、自身もコロナにかかりつつも、重症患者に御言葉を語り、生かされていく姿に、医療従事者も御言葉に耳を傾けるようになり、2、3分でも祈るようになった。崩壊状態だった心が、いつ家に帰れるかわからない、いつ食事したかというような状態の中でも、また自分もコロナで死ぬかもしれないが、精いっぱい看護すればいいとなった。おかしいかもしれないが、神に出会った喜び、平安の中にある。との証しを聞きました。

 これこそ、地上にあって天国を味わっているすがたではないでしょうか?

 

【祈り】 父なる神様、イエス様が注いでくださった、復活の命を感謝いたします。神の家族に入れられたことを感謝いたします。自分を捧げられないものですが、聖霊様に満たされ、助けられて、神様を愛し、あふれる喜びを、兄弟姉妹、まだ福音を知らない人々に分かち合う者としてください。コロナで恐れている世界の全ての人々に、変わらぬ慰めがあることを伝えさせてください。用いてください。イエス様の名によってアーメン。